消えぬ泡沫

 僕は墜落していた。こんなところに来ていて遅いのだろうけれど、初めて死を意識した瞬間だった。徴兵令が出たときも、彼女と別れを告げたときも、確かに死を覚悟したつもりだったのだけれど、そんなことはちゃちな幻想に過ぎなかったようだ。

 夕焼けを背に交わす飛行機雲が天も地もなく回転する。錐揉みながら水面に近づいているようだ。この時間は無限に引き伸ばされ、アキレスと亀のごとく、永遠に海には追いつけないと錯覚するほどであった。


 彼女の美しい黒髪を、虹のように光を反射して輝く鱗を、ただ一度だけ触った繊細な肌を、思い出す。抱きしめてやりたかった。まるで少年のように純粋で思い上がりな恋だったと思う。それでも、それでももう一度会いたいと願った。憧憬が胸を締め付ける。


 刹那、衝撃が走る。水面に衝突したようだ。爆音というには重すぎる、惑星の終わりを思わせるような音が鼓膜を突き破る。四肢は吹きとび、遅れて来る鋭い激痛に無い腕を振り回す。上下もわからないまま、とにかく空気を吸おうと口を開けるが、すでに水中だったらしく容赦なく水が流れ込む。頭と体だけになった僕は朦朧としながら抗うこともできずぶくぶくと沈んでいく。視界はただただ群青を映していた。そこで意識を失い、僕は死んだ。



 そう、死んだはずだった。意識が再覚醒すると、未だ水中に沈んでいることを鮮明になった視界と、肌に伝わる冷たさで感じた。なぜか失ったはずであった腕が足があった。理解よりも先に生き残りたいという気持ちが勝って、息継ぎのために無我夢中で泳ぎ水面を目指した。もう戦っていた戦闘機は一機も飛んではおらず、ただ広い海が広がっている。水平線と太陽以外何もない海。そこからは遮二無二あるかもわからない陸地を目指し泳いだ。数時間泳ぐと疲れよりもう身体を動かすことができなる。いまだに陸地は見えず、助かる見込みは万に一つもない。今度こそ死んでおしまいだ、一度爆風で失った手足が生えたのはなんだったんだろうと思いながらも海に沈んでいき、その苦しさに身を悶え、やがて意識はまた暗闇に染まった。




 自分が死なないことに気がついたのは何度死んだあとだろうか。もう思考することすらあきらめ、海底で何度も死に何度も生きた。頭が狂いそうになるほど、窒息の苦しみを繰り返した。暗くよどんだ海底で一人、まるで海月くらげのように海に流される。 サメに身体を食いちぎられ、その都度再生する。いったいなぜ。こんな悪夢が。


 海底で、一番最初に死ぬときに想った彼女の顔がもう一度浮かび、そして突拍子もなく、古い伝承を思い出した。



――人魚の肉を食べると人間は不老不死になる。




 途端に浮かんだ彼女の顔がひどく歪み、泡沫うたかたのように消えた。僕を怪物にしたのは彼女なのか。意識が何度目かの死に沈みゆくなか、自分の悲鳴を聞いた気がした。


 永遠のように海に殺され、波に流され、気がつくと陸地についていた。

 調べたところによると、僕は最初に死んでから十五年は経っているらしかった。戦争はついに終わり、日本は敵国の統治下の元、ほそぼそと生きているそうだ。

 しかし、そんなことはどうでもよかった。何度も何度も死んでいるうちに、硬く、まるで動くことのない大岩のような野望ができていた。死ぬこと。僕は残りの人生を完全にそれに使おうと決めていた。


 僕を怪物にたらしめた彼女を殺すことで死ぬことができる。その考えが頭を支配した。そうであろうと信じなければおかしくなりそうだった。彼女に似ているものはすべて壊そうと決めた。たとえ人魚でなくとも、彼女である可能性がある。たとえ生き物でなくとも彼女である可能性がある。


 しかしついに彼女はあの岸辺には現れなかった。どこへ、行ってしまったっていうのだろう?


 それから何年も何年も、彼女に似た女を見つけては殺し、あの忌々しい人魚の絵を殺した。でも僕は死ねなかった。今も彼女は生きているんだ。彼女はまだどこかの海で生きているはずだ。消えてくれない。だから僕は死なない。いや死ねないんだ。


 ましてや絞首刑なんかで死ねるわけないだろう?

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