霊が繋ぐ彼方と栞の人生譚

春華秋灯

第一章 第一話 零道彼方、名も知らない先輩と出会う

 ゴールデンウィークが過ぎ去った五月の第二週、俺はまったくしわのないブレザーに腕を通していた。新品であるそれはもちろん試しに着てみたとき以外は着ていないため、新品特有の硬さがまだ残っている。


「忘れ物は……といっても教科書はまだ無しと。ハンカチとティッシュくらいか」

 ポケットに手を突っ込んで両方の存在を確認してからそのまま玄関へ向かった。靴を履き終えると「行ってきます」と一言告げてから誰の返事も待たずに家であるアパートを出た。そして階段を下り、地上に足を下ろして俺は空を見上げた。


「天気は晴れ、文句ないくらい晴れだな」

 雲はほとんどなく快晴と言えるほどの天気だった。その天気のおかげか、それともせいか、俺は清々しい気分で現状を誰に言うでもなく独白した。


「転校初日に遅刻だっていうのになんだろう、この清々しい気持ちは」


 現在の時刻は午前九時五十分。高校といえば既に始まっている時間だった。先程、家で誰も俺の言葉に返答をしなかったのは無視されたからではない。そもそも家に誰もいなかったのだ。唯一の俺の家族は俺を起こさずに朝早く家を出てしまった。結果、俺は寝坊してしまったわけである。


「とりあえず、急いできた風を装うために走るか」

 学校の場所はだいたい把握している。それもこれも昨日雪の下見についていったおかげだった。俺は自慢の脚力に物を言わせて学校へと全力で急いだ。


 予定通り汗だくの状態で四倉谷高校まで到着すると、俺はそのまま昇降口で上靴に履き替えて……動きを止めた。

「あれ、今ってまだ授業やってるよな。だとしたら、俺はどこ行けばいいんだ? とりあえず職員室か?」


 時刻は午前十時丁度。走ると十分で着く距離に四倉谷高校はあった。現在はおそらく二時間目が行われている時間だろう。かと言って職員室に行くのも億劫だった。

「二時間目終わるまで職員室に待機させられそうだし。もしかしたら途中から授業に参加させられそうだしな。とりあえず職員室は無しだ」

 全て寝坊した自分が悪いのであるが、今は自分のやりたいようにすることにした。

「じゃあ、学校探検だな!」


 早速、俺は校内を歩き回ってみることにした。四倉谷高校は四階建てでクラスがあるのは二階から上。四階から一年生、二年生、三年生と続くようだ。俺は昇降口の目の前にあった階段を上がり二階から歩き回ることにした。授業しているクラスをちらっと覗きながら廊下を歩く。途中何人かの生徒に不審な目を向けられたが、その度にそそくさと退散した。


 そして三階も適当に散策し、ついに四階の一年生の領域に足を踏み入れた。自分が新しく入るのも一年生のクラスなだけあって何故か緊張感が増した。まるで自分が悪いことを隠れてやっているかのようである。……実際そうなんだけど。


 途中、見知った顔が教室内から俺を見ていた。その顔は怒りに満ち溢れており、俺は身震いして思わず廊下を走って駆け抜けた。あれは人を殺せる奴がする顔だわ。


 すると、廊下の突き当りにさらに上に続く階段があった。お、もしかして屋上に行けるのか!?

 俺は居ても立っても居られなくなり、その階段を駆け上がって頂上にあるドアの取っ手を回転させた。ドアはあっさりと開き、直後に五月の少し暖かくて、でもどこか冷たさも纏った風が俺を包んだ。


 屋上は周囲を緑色の高いフェンスで囲ってあった。もちろん落下防止のためだろう。にしたって、まさか屋上が開いてるなんて……なんて良い学校なんだ! まるで漫画の世界だ! そしてここでおそらく俺の青春が始まる!

 気持ちが高ぶった俺は、そのままフェンスに走って近づいて大きく叫んだ。

「なんて良い学校なんだーーーー!」


 その時だった。


「うるさいわね。今、何の時間だと思ってるの」


 凍てついた声が屋上のとある地点から聞こえてきた。それは屋上の四方の内の一つからだった。入って来た時は気付かなかったが、そこには黒髪ロングの女子生徒が立っていた。それもかなり美少女の。俺は思わずその姿に見とれてしまった。


「聞こえてないのかしら、その耳は飾り?」

 しかも、毒舌である。これはある種のマニアの人にとってはとんでもない逸材なのだろう。だが、生憎俺にそのような趣味はなかった。俺は頭を切り替えて、その罵詈雑言に挑んだ。

「いや、今は授業中だよ。 っていうか何でおまえは屋上にいるんだよ! 授業は!?」

「何言ってるの、見て分からないかしら。サボりよ」

「おまえこそ何の時間だと思ってるの!?」


 その時、女子生徒の制服のリボンの色が自分と違うことに気付いた。

「赤ってことは……二年生か」

 四倉谷高校はリボンの色で学年を分けている。緑は一年生、赤は二年生、そして青は三年生といった具合だ。

 先輩だった女子生徒は苛立ちを一切隠そうとせず、表情の前面に出していた。

「そうよ、そしてあなたは一年生みたいね。頭が高いわ、貧民」

「おまえにそう言われる筋合い無いわ!」

 相手が先輩だと分かっていても、何故か敬語を使うことが出来なかった。おそらく出会い方が出会い方だったのだろう。


 すると、先輩がポケットから何かを取り出した。

「……鍵?」

「そうよ、屋上の鍵。普段は屋上は出入り禁止なのよ」

「えっ」


 さらば、漫画の世界。グッバイ、俺の青春。


「で、でも! じゃあ何であんたは入れてるんだよ! ていうか何で鍵持ってるんだ!」

「それをあなたに教える義理はないわ。とりあえず、ここはこの鍵を持っている私の領域なの。悪いけど、出てってくれるかしら。睡眠の邪魔なのよ」

「くっ、先生に訴えてやるからな!」

 苦し紛れに叫ぶが、先輩は冷笑を浮かべる。

「証拠があるならね。もちろん写真は撮らせないわ。撮った瞬間、その媒体、粉々になると思いなさい。あなたの次にね」

 俺が最初かよ……。何故だかあの先輩なら、冗談ではなくやるだろうという確信があった。だが、それでも俺は引く気にはならなかった。これでも俺は負けず嫌いなのである。


「じゃあ、最後の屋上を堪能してやる!」

 そう言って、俺は屋上に仰向けに寝そべった。

「……あのね、出てってと言ったつもりなんだけど」

「俺が出ていくときはつまり先輩が出ていく時だけだ。要は先輩が授業を受けに行くときだけだな」

「やっぱりまずはあなたの肉体を粉々にしましょうか。それから精神を粉砕してあげるわ」

「まあまあ、静かにするからさ。っていうか、先輩は名前なんて言うんだ?」

「静かにする気ないじゃ……あなた、私の事知らないの?」


 すると、先輩が予想外に驚く。だいぶ目を見開いているが、それでも整った顔は崩れないのだから凄いものだ。

「その言い方だと、まるで先輩はこの学校の有名人みたいだな」

「……本当に知らないみたいね」

 先輩がため息をつく。そして次の瞬間、笑みを浮かべていた。

「まさか私のことを知らない子がいるとは思わなかったわ」

「何だよ、相当自意識過剰だな。確かに先輩は凄い美人だとは思うけど」


 その言葉に先輩はさらに笑みを深くしていった。

「あなたは美人なだけでは動かされないのね。他の子達とは違うみたい」

「何を言って―――」

 その時、二時間目終了のチャイムが鳴り響く。すると先輩は鍵を俺に見せつけてきた。

「施錠の時間よ。さっさと下りなさい。授業終わりの生徒に見られたらどうするつもり」


 先輩に急かされるままに屋上から追い出される。そして屋上を施錠した先輩がそのまま三階へ下りていこうとする。

「お、おい! だから名前は!」

「……教えてあげないわ」

 まるでいたずらっ子のような笑みを俺に向けた後、名も知らない先輩は三階へ下りて行った。


「……何なんだよ、あの先輩」

 何だかもやもやしたが、とりあえずはまず自分がやらなければいけないことをなさねばならなかった。

「……朝の清々しさはどこに行ったんだか」

 億劫で沈み込んだ気持ちを引きずりながら、俺はとりあえず職員室に向かうことにした。

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