第3章 アサト
凄惨な現場には依然静寂が戻ることはなく、恐怖を目の当たりにした人々が泣きじゃくっていたり、現場の調査のため鑑識が駆け回っていたり騒然としていた。
少女は片隅でぼんやりとその光景を眺めながら身体中に付着した金色の砂塵を払っていた。
そこに彼女が到着する前までグリムと戦闘状態にあった大柄な狩人が歩み寄った。その表情は堅く厳しいものだった。
「アサトさん、ですよね? 助けて頂きありがとうございます。あなたの応戦がなかったら被害は今以上に拡大していたものでしょう。
あなたの強さは我がグリム討伐部隊の間でも有名ですが、あなたのやり方にはいささか疑問があります。あなたは救える命を省みようともせず挙げ句の果てに見殺しにした。それも今回だけのことじゃない、過去に何度もそういったことがあったと狩人たちの間で噂になっています。
狩人の役目はグリムを狩ることだけじゃない、人類を守る重責も担っているんです。あなたも狩人でしょう? なのになぜ見殺しにするんです? それだけの強さを持ち合わせていながらっ……」
熱く込み上げる感情を背負いながら狩人が思わずアサトと呼んだ少女の肩を掴んだ瞬間、彼女の無情な顔が崩れ怯えたように目を丸くし喉の奥で小さく悲鳴を上げると、全身をおののかせ過呼吸になりながら膝を抱え込んでしまった。
先刻までとは打って変わった弱々しい姿に狩人が動揺していると、一人の大男がアサトの傍らに片膝を付き彼女の様子を窺いながら狩人に言った。
「君も討伐部隊の一員なら彼女の報告書は読んでいるはずだ。彼女は有能だが精神面では不安定な要素があり、他者が接触すれば現状のようなパニック状態に陥る。また戦闘に集中している間は他の事柄に目を向けることが困難だと。これらは上層部も容認していることだ」
「キースさん……しかしっ……」
「君の言い分も分からなくはない。しかし彼女は我々のように〈当たり前〉に理解し得ることができないのだ。責めることはできない。分かるな?」
「……はい、失礼しました」
キースという大男の言葉は理解できていたが、狩人にとって納得し難いものであることも事実であり、それ以上は口をつぐみその場を立ち去った。
乱れていた呼吸がゆっくり規則的なものに戻り出した頃合いを見計らって、キースはアサトに声を掛けた。
「いつも言っているだろう。一人で突っ走るなと。君がパニック状態に陥るのを防ぐためにも君は俺と行動するべきだ。さっきの狩人のように君を責める輩はたくさんいる、彼らをなだめるのは俺の役目だ。君は話すことができないのだから。分かるな?」
呼吸を整え額の汗を拭ったアサトが優しく諭すように言うキースの言葉に浅く頷いて見せると、彼は長い髪が掛かる目元を細め満足げに微笑んだ。
「さあ次の任務に向かおう。もう立てるだろう?」
そう言うキースに倣い立ち上がったアサトは澄み渡った青空を見上げた。吐き出された白い息が空に消えゆく様を眺め足を踏み出した。死と生が混濁する次なる場所へ向けて。
建物が倒壊し荒廃した街を鮮やかに染める赤、その赤を生み出した人間たちは呼吸することもなく、積雪に転がっている。
鉄と煙の匂いが漂うそこで、彼女は黒雲から吐き出される綿雪を男の肩越しにぼんやり見上げていた。
頬に落ちる雪の冷たさも、彼女を抱きしめる彼の温もりも彼女にはもう感じることができなかった。
身体は脱力し、もう指一本動かすこともできない。次第に視界だって霧がかったように霞み、彼の顔ももうよく見えない。炎の燃え盛る音だってどこか遠くに聴こえ、彼女の五感の全てが止まろうとしていた。
「約束しよう、僕は必ず君に――だって僕は――」
男の澄んだ声が彼女に注がれるが、断片的にしか届かなかった。
炎を映す銀色の髪も耳で揺れる赤い石のイヤリングも忘れたくないと、彼女は暗闇に意識を引きずられながら想った。
意識を手放す間際、頬に温かな滴が落ちたことを彼女は感じた。
「アサトちゃん、もう終わったから起きて大丈夫よ」
柔和さの中に艶やかさが入り混じった声音に起こされ、夢は強制的に終了した。
目尻から生暖かい滴が流れる。瞼を上げれば除く紅玉の瞳はぼんやりと白い天井を見つめた。アサトは白い額に掛かる漆黒の髪を指先で払い、目尻の滴を拭った。
あれは夢。もう幾度となく見てきた夢だと彼女は自身に言い聞かせてきた。やけに鮮明で、誰かの記憶を見ているような、はたまた身に覚えのない自身の記憶のような気もしていた。
だがそれが夢ではなく記憶なのだと気付いたのは最近のこと。遠い昔、確かに彼女はあの荒廃した場所で銀色に輝く髪の男と出会っていたのだ。顔も思い出せないが。
ここはアサトが所属する組織にある医務室だ。彼女はここで輸血を受けている最中、いつの間にか睡魔に襲われ浅い眠りに落ちていたのだ。
「針を外すからじっとしててね。大丈夫よ、リラックスして」
そう声を掛ける赤いタイトなワンピースに白衣を羽織った女性はエイダ。この組織では科学者兼医師の役職に就いている。
彼女は赤い紅を差した唇に妖艶な笑みを乗せると、アサトがパニック状態に陥らないようそっと彼女の腕に触れ針を抜いた。
「よし、パニック状態にならなかったわね、いい子」
エイダはからかうような笑顔でアサトの頭を撫でる素振りをした。
上体を起こしたアサトが自身の手を見下ろすと、触れられたことで小刻みに震えていた。
「身体的異常は見られなかったからまた一週間後に輸血に来てね。今回の身体調査のデータは私から上に提出しておくから」
アサトは浅く頷くと、いそいそと書類をまとめるエイダの背中を一瞥しその部屋を後にした。
「――異常なし、か」
組織のとある執務室にて。壁一面に配置されたいくつもの本棚には難しげな書物が押し詰められている。
書物に取り囲まれ息苦しく感じるこの部屋の執務机に頬杖を付き、端整な顔立ちをした男リョウガが眉間に皺を寄せ、ある書類を読んでいた。アサトの身体調査データのコピーだ。
その傍らには執務机に腰掛け、赤い爪が際立つ指先でタバコを持ちふかすエイダの姿があった。
「見ての通り、あの子の身体には小さな異常すら見て取れなかった。あの子がこの組織に来た二ヶ月前からずっと見てきたけど、身体データは正常値を維持し続けてる、だから謎なのよ。貧血でもないし、なぜ輸血をする必要があるのか。
それと、血液検査の採血は私が担当したけど、検査だけはなぜか他の奴に回されたのよ。そのデータに上がってる結果が本当に真実なのかも怪しいわね」
「だが上層部は黙秘を貫いてる、か……」
「ええ。一番初めにあの子のデータを取った際に上に掛け合ったのはあなたも知ってるでしょう。あの老いぼれ共ったら『余計な詮索はするな、命令に従え』の一点張りよ。データを取ってるのはこっちなのに機密扱いして人使いが荒いんだから腹が立つったらないわよ。
血液提供者は毎回同じ人物。データベースから検索してもロックが掛かっててダメ。これも老いぼれ共の仕業でしょうね。よっぽど知られたくないことがあるってことじゃない?」
エイダはウェーブの掛かった金髪を掻き上げながら、短くなったタバコを灰皿に押し付けた。
「……あいつが討伐部隊に入隊した頃から違和感はあった。通常入隊には試験が必須だ、だがあいつは一切の試験を上層部に免除され特例で入隊している。
過去の経歴に関しても肝心な情報が一切不明だ」
「そうね、あの子がなぜ他人と接触できないのか、言葉を話せないのか、その経緯も不明。組織の中でもあの子は異質だと疑問視する輩は多い。あの子の全てが謎だわ」
頭が痛くなると呟くエイダは疲労したように盛大な溜め息を吐き出した。
「……お前はこのままあいつの身体調査を継続しろ。俺も個人的にこの件を調査する」
「はいはい。あたしも気になるもの、そのつもりよ。
ああそれと、あたしがあの子のデータをあなたに横流ししてるってのは……」
「上層部に口止めされてるんだろ」
「さっすが察しがいいわね! じゃあ報酬の件も察してくれるわよね? あたしだって危ない橋を渡ってるんだもの」
「分かってる、さっさと行け」
「ありがとぉ! 大好きよリョウガ!
じゃあねぇ~」
エイダはご機嫌にリョウガの背後から抱き付くと、弾む足取りでウインクを飛ばし退室した。
舞い戻った静寂の中、リョウガは一つ溜め息を吐き再度書類を手に取った。
「お前は何者なんだ?」
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