頑張れ、バ会社員(バカイシャイン)

海辺野夏雲

第1話 バ会社員(バカイシャイン)、木下洋一参上!の巻

 木下洋一の就職先がやっとこさ決まったとき、教授は喜ぶ顔を見せる余裕さえ見せず、慌てて彼を教授室に招き入れた。


「木下君、やっと決まった会社だ。絶対辞めるんじゃないぞ。お前は、もっと周りを良く見て、変に目立つんじゃない。妙に反論せずにできるだけみんなと歩調を合せてだな……」


 研究室で何度も何度も繰り返されてきた言葉を、このめでたい日にまくし立てられ、洋一は内心うんざりしながら頷いたものだ。


(あー、これで俺も来年からは社会人になれる。そうしたらもう、自由だ!)


 教授のありがたいお話が終わるやいなや、一応お礼だけはちゃんと言って、そそくさと教授室を後にした。


 その日から、もう三年は経つ。よほど運が良かったのか、それとも時代が変わったのか、洋一は、一応立派な会社員だ。しかも、相変わらず本当に自由に生きていた。


 ある日洋一は、会社の机に向かって実験データを整理していた。夜七時を回った頃には、いつの間にか同僚はみんな退社してしまい、大きな部屋はシンと静まり返っていた。


「カタカタカタ…」


 洋一のパソコンの音だけが、妙に大きく響き渡る。今日は、「仕事にノッている」のだ。


 どういう訳か、周期的にこういう日々が訪れる。脇目も振らずにグラフを書いて、一心不乱に考えていると、次々に新しいアイディアが浮かんでくる。爽快だった。このところ、どうしても仕事にノれない日が続き、フレックスタイムを利用しては午後に出社し、夕方五時には退社する日々だったのだ。ところが、昨日から突然、長い間養い続けた英気が、一気に出口を見つけて噴き出してきたのである。


 そのとき、部屋の戸が静かに開き、帰宅したはずの課長がそっと入ってきた。課長は、様子を伺いながら少しずつ洋一に歩み寄って話しかけた。


「今日は、みんな近くで飲んでるからさあ、木下も早く切り上げて来いよ、な?」


 洋一は、飲み会のことなど全く頭になかった。せっかく、久々に波にノっているのだ。それでも、これではさすがに断れない。いかにもしぶしぶと仕事を切り上げて、渋面の課長に付き従って、居酒屋に向かったものだ。


 居酒屋には、早くも上等に出来上がった春原先輩の両側に、洋一の同期の二人が座っていた。


「お、バ会社員(バカイシャイン)が登場したぞ。遅いぞ、バ会社員! 早く飲め!」


 春原先輩は、甲高い声を張り上げながら、意地悪そうに、にやっと笑った。


「今、お前らのあだ名を考えていたんだ。木下、お前はバ会社員だ。説明の必要はないよな?」


 課長と同期の二人が爆笑した。洋一がムッとしていると、春原先輩は洋一のコップになみなみと酒をついで、早く飲み干すようにと、盛んに口元で手をクイッと傾ける。


「ところで、吉川、お前はやっぱりキンチャクでいいよな?」


 それでも同期の吉川は、少しもいやな顔もせずに、調子を合わせてうれしそうに頷いた。


「高木、お前は…そうだな、ウドでどうだ? でかくていつもぼんやりしているからな…」


 高木は、もう何事も仕方がないといった感じで、ぎこちなく笑って頷いた。

 三人のあだ名は、このときのことばかりと思っていた。しかし、一体どうしたことか、洋一の「バ会社員」だけが、ずっと後まで残ったのだ。


 酔った勢いだったのか、調子に乗って課長を「バカンリショク」呼ばわりした無邪気な春原先輩は、その後すぐに極寒の僻地に転勤になった。寒さが沈黙よりも苦手だったのに…。


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