僕は君と話がしたい

三角海域

第1話

 小説家になり、初めて書いた作品が沢山売れた。

 僕はその続きを書くようにと言われ、五作ほど続きを書いた。言われた通りに文章を書き続け、気が付くと僕はかなりの額の金を手にしていた。

 あることに気が付いたのは、いつも通り机に座り、原稿用紙数十枚分書き進めた時だった。

 熱いコーヒーを淹れ、それを飲みながら自分の書いた文章を眺めてみる。するとどうだろう。それはただの文章でしかなかった。

 僕が今書いているものは、小説ではない。

 そこにあるのはただの文章の羅列。「あいうえお」が無限に続くだけの退屈なものでしかない。

 その時から、僕は小説が書けなくなった。

 なにを書いても「あいうえお」にしかならない。長編だろうが短編だろうがショートショートだろうが関係ない。ただ「あいうえお」が長く続くか短いかだけの違いでしかない。

 それでも、僕は長編一作と短編集一作を仕上げ、出版した。

 そこそこの評価をされ、また金が手元に入ってきた。

 本になったものを改めて読んでみても、それはやはり「あいうえお」でしかなかった。

 僕は落ち込んだ。絶望したわけではない。ただただ空虚だった。

 物語を書きたくて、小説家になった。

 なりたいという強い思いがあったわけではない。ただ、僕はいつも物語のことばかり考えていた。幼稚園、小学校、中学校、高校、社会人。変わらず僕は日常の中で物語を夢想し、そのたびに怒られてきた。

 僕が小説家になったのは、物語を否定されないからだ。商業的なことが絡むのは他と違いないが、少なくとも「架空の話」だと切り捨てられることはない。物語を考えれば考えるほど、むしろ賞賛される。

 才能があると言われることもある。正直ピンとこない。

 だが、自分の作品を読み返していると、おそらく才能はあったのだと思う。

 書き続けるという才能。

 気が付くと、かつての僕の物語への欲求は才能に上書きされ消えていた。


 目が覚める。

 日差しを丁度よく注ぎ込む窓と、柔らかく身体を包むベッド。変わらぬ朝だ。

 T市の新都心エリアにあるシティホテルに僕は宿泊していた。

 駅から近く、窓を開けると規則正しい列車の走る音が聞こえてくる。

 小説が書けなくなった後、僕は住んでいたマンションを出て、このホテルへやってきた。

 家具などは売るなり捨てるなりし、わずかな衣類と財布に通帳、それに原稿を書くためのパソコンだけを持ち込んだ。

 そろそろひと月になる。そこそこいい部屋をとったのだが、それでもまだ金はあり余るほどだった。

 シャワーを浴び、着替えてから部屋を出る。

 時刻は十時を少し過ぎたあたり。部屋を清掃すべくあわただしく女性たちが駆け回っている。

 エレベーターに乗り、一階へ降りる。

 平日の午前中で、朝食バイキングの時間も終わっていたので、ほとんど人はいなかった。チェックアウトする人が数人いる程度だ。

 僕はバイキングが終わったカフェに行き、コーヒーを頼んだ。

「今日は早いですね」

 コーヒーを運んできたウェイターが言う。

「夢を見たんだ」

「悪夢ですか?」

「いいや。すごく無機質な夢だった。僕は駅にいて、電車を待っている。でも電車はこない。周りの人間はそれをおかしなことだと思わないって具合に、話をしたり音楽を聞いたりしている。僕はそれを眺めてるんだ」

 無機質というより、おかしな夢ですねとウェイターは言い、爽やかに微笑むと去っていった。

 コーヒーは濃い目に淹れてあり、心地よい苦みが僕の意識をはっきりさせていく。

 夢のことを考えてみた。

 夢は深層心理の現れだなんていうけれど、だとしたらあの夢は僕の無意識が見せたものだったのだろうか。

 夢の中で孤独だった僕は、それを悲しいとは思わなかった。

 だとしたら、確かに僕らしいとは思う。

 カップをソーサーに戻し、席を立つ。軽く手をあげると、ウェイターはまた爽やかに微笑む。

 カフェを出て、振り返ってみた。

 僕の飲んだコーヒーを片付けていたウェイターの顔は、無表情だった。

 

 ホテルに来た最初の一週間は、そのほとんどを部屋で過ごした。

 一日中寝ていることもあったし、徹夜でパソコンと向かい合っていることもあった。

 気が変わったのは、ホテルに滞在して二週目だった。少し前にクリーニングを頼んだシャツがかえってきた。そのあまりにも素晴らしい出来栄えに、僕は驚いた。

 ただのシャツが、まるで上質な織物のように丁寧に畳まれていた。おかしな話だけど、僕はその時グランド・ホテルという古い映画を思い出した。

 そう、ホテルには、多くの人がおり、そこには多くの物語があるのではないのか。

 そうして、僕は部屋を出て、少しずつホテルを歩き回った。

 絨毯の柔らかさや、カフェのコーヒーの美味さであったり、朝食バイキングのオムレツは絶品であることが分かった。

 僕は昼頃から部屋を出て、なんとなくホテルの中を歩き回り、物語を探すようになっていた。そして、夕方に部屋に戻り、パソコンに一日のことを書き込む。

 例えば、太った男が丁寧にゆで卵の殻を剝いていたとか、足の綺麗な女性がさっそうとロビーを歩いていたとか、たまたま若いベルボーイと目が合い、互いに笑みを交わしただとか、そんな他愛ないことだ。

 それでも、そんな他愛ない一日の記録は、きちんと物語を僕に感じさせてくれた。

 そうして、滞在から三か月が過ぎたころ。

 僕は彼女と出会った。


 いつも通り昼頃目を覚まし、僕はカフェに向かった。

 ロビーを横切ろうとした時だ。ソファに腰かける一人の女性に目がいった。

 その女性は、とても地味な容姿をしていた。

 野暮ったい眼鏡をかけ、セミロングの髪はどこかくすんでいた。

 それでも、僕は彼女に目を奪われた。

 彼女の座る姿が、僕の中に大きなうねりを生み出した。

 話しかけようと思った。だが、なんと話かけていいのか分からなかった。

 浮かない顔ですがどうされました? なにか困ったことがあるなら、僕に言ってみてください。

 バカげている。

 ここはホテルだ。困ったことがあったのなら、誰かしらホテルのスタッフを捕まえて相談すれば、過度とも思える丁寧な対応をしてくれるだろう。

 だが彼女はそれをしない。困っているのではない。いや、困っているのかもしれないが、少なくとも助けを求めているわけではないのだろう。

 僕は止めていた足を動かし、カフェに向かった。

 いつも通りの爽やかな笑顔と、濃いめのコーヒー。いつも通りの時間を過ごしながら、僕は彼女のことを考える。

 彼女にはどんな物語があるのだろう。


 カフェを出て、ロビーへ戻る。彼女はまだそこにいた。座り方も、表情すら変わらない。まるで、人形のようだった。

 彼女から少し離れたソファに腰かける。

 もし、彼女に話しかけるのだとしたら、どんな話をするべきだろう。

 夢の話しでもしようか。前にみた、無機質な駅の夢。こんな駅にいて、僕はこんなベンチに座って沢山の人を眺めていたんだ。ただただ、眺めていた。おかしな夢だろう? ところで、君はどうしてそんな悲しい顔をしているんだい? よかったら、聞かせてくれないかな? ランチでも食べながら。九階にあるレストランはね、カツレツが美味しいんだ。そうだ、フリッタータも美味しいんだよ。チーズやジャガイモ、ズッキーニなんかが入ったオムレツなんだ。食後にはコーヒーでも飲んでさ。

 つまり、何が言いたいかって言うと、君と話がしたいんだ。

 自分の考えた文句に、思わず笑みがこぼれる。こんなことを言う柄じゃない。

 彼女の方を見る。対面に男が一人座っていた。彼女は涙を流し、男に何かを言っている。

 別れ話だろうか。それとも他の何かか。

 しばらくすると、男が先に席を立った。

 彼女はそれから三十分ほどその場に座り、一度目を瞑り、大きく息を吐きだすと席を立ち、ホテルを出ていった。その後ろ姿は、不思議と颯爽としており、先ほどまでの彼女とは別人にすら感じられた。

 僕はぼんやりと遠くなる彼女の後姿を見つめながら、先程考えた文句を反芻する。

 そうして、席を立ち、部屋に戻った。


 パソコンを立ち上げ、文書作成ソフトを起動する。

 そうして、僕は物語を書き始めた。

 

 小説家の男は、ある時突然スランプに陥る。書きたいものが書けず、荒れていた彼は、どこか遠くへ行こうと駅へ向かう。

 そこで、男は一人の女性を見つける。

 ホームのベンチに座り、うっすらと涙を浮かべている地味な女性。なぜか、男はその女性に一目で惹かれた。

「すいません」

 男は自分でも不思議なくらい自然に女性に話しかけた。

 女性は、顔をあげ、男を見る。真っすぐで美しい瞳だった。

「あの、じつは近くに美味しいイタリアンの店があるんです。よければ、今夜ディナーでもご一緒しませんか?」

 女性は、怪訝そうな顔をする。

 質の悪いナンパ、もしくは不審者として駅員を呼ばれるかもしれないと男は思った。

 何かを言おう。何を言うべきか。

「僕はあなたと話がしたい」

 正解だとは思えない言葉。だが、女性は一瞬驚いた後、優しく微笑み、「ぜひ」と言った。


 大きく息を吐き、キーを打つ手を止めた。

 そこそこ時間が経過していたようで、外はもう薄暗くなっていた。

 僕は、二つのことを決めた。

 ひとつは、ホテルを出て新しい部屋を探そうという事。

 そしてもう一つは、この小説の中で、彼女を幸せにしようということだ。

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