伏せ記

ヽ冬

 習月ならいづき一日ついたち、木曜日。

 外を出歩く。

 久しく玄関のドアノブに触れておらず、せいぜい魚眼レンズを覗こうとして、面の部分に手を貼り付けるだけだった。

 しばらくぶりに見た外界は非常に眩しかった。雲は空全体の半分もなく、太陽光で眼の頂点に銀色の点々が焦げ付きそうだ。

 いかにも暑そうな天候とは裏腹に、空気は尖ったように冷たい。今の季節が冬であった事を思い出す。「空調器具という存在が人間を弱くした」という言葉を随分前に聞いたことも、重ねて思い出す。あながち、間違いでは無いのかもしれない。

 この日、私が珍しく外出しようなどと思い立った理由は他でもない、喫茶店《カダンノマニア》に顔を出す為だった。こんな私にも快く接客してくれる数少ない店だ。

 あまり日を空けずに通うと、それが目的とはいえ些か億劫になる。辿り着くまでの時間も、少々長くなるような感が否めない。気持ちの問題かもしれない。

 店の前まで行くと、奇妙な気恥ずかしさが脳を微かに曇らせる。中途半端な通い方をする常連客にありがちな心理ではなかろうか。

 店の扉を、そろりそろりと慎重に開ける。手動で開く引き戸。今の時代、玄関扉に用いるにしてはそこそこ珍しい代物だ。

 ごめんください。と、一言発する。

 今思えば、人に聞こえるようにと意識しながら声を出すのは久々であり、気の抜けた、間抜けな声になっていたかもしれない。

 日頃から声を出す練習はしておくべきだったと反省する。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

伏せ記 @InkJacket13

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る