第一章 狂人が奏でし序曲 01
軽い体――まるで綿を抜きとられたヌイグルミ。
曖昧な意識――酒に酔いつぶれているかのような。
そんな奇妙な感覚の中、結城 夜太郎(ゆうき やたろう)は目を覚ました。
解き放たれた瞳に世界が映る。黒い、ただ黒い、それ以外では表現できない空間。草木、建物など一切存在しない。
「……夢か? 俺は夢の世界にいるのか? こんなへんてこなのは初めてッ――頭が!」
突如頭痛に襲われた。
「痛いし気持ち悪い。耳かきで脳みそが掻き回されたかのような気分だ」
頭を押さえながら、情報を得るために散策を始める。
ふらつきながら周辺を歩き回ったりしたが、新たな発見はなかった。
「恐いものも楽しいものもないなんて、これは悪夢か良夢のどっちなんだ? そもそも、夢って痛さを感じるものだったか? ……疲れたな」
新情報は得られないと判断し、腰を下ろす。じっとしていると、少しずつ気持ち悪さが解消されていった。
「変な夢だ。そろそろ覚めて欲しいな」
「覚めませんよ」
夜太郎は何もなかったはずの空間から声が聞こえたことに驚く。声のした方に顔を振り向けると、そこには不思議な存在が立っていた。
姿は人間の女性。美しく、また可愛らしさもある女の美を集めたかのような顔。最高級のシルクでさえ敵わないであろう柔らかさが特徴の長い髪。
明らかに人外。形は人間の部類であっても、人間の領域を超越した存在。
夜太郎は、目の前の存在が人間ではないことを見た瞬間に気づいた。その存在の姿が、放つオーラが人間ではないことを肉体に焼き付けてくるからだ。
「……どういう意味だ?」
その存在が言った言葉の意味を問い質す。
「夢とは生者の特権。死者とは無縁のもの。夢をなくした者が、夢から覚めるなんておかしな話でしょう」
「……つまり、俺は死人だと言っているのか」
「ええ、その通りですよ」
妖美な笑みを浮かべる。
「つまらない冗談だ。もしそれが本当なら、俺に記憶があることと矛盾している。死ぬってことは、自分の肉体と別れることだ。だったら、頭に詰まっている脳みそを置いてきているわけだから、死後の世界でも記憶があるのはおかしいだろ」
「あなた、記憶があるのですか?」
「当たり前だろ。俺の名は結城 夜太郎、二十一歳、出身は日本……それから……それからッ!」
胸が締め付けられる。持病があるわけでもないのに、業火に焼かれているかのような苦しみに襲われる。
数多の激しい感情が内から溢れ出す。感情で胸が裂けそうになる。
理由は分からない。今の夜太郎には、原因のあてはなかった。
耐えきれなくなり、地に腕をつく。呼吸は、溢れる感情を吐き出しているかのように荒い。
人外の存在は腰を屈め、夜太郎の頬に触れる。
「へぇ、これが記憶がある理由の正体だったのですね。怒り……憎しみ……悲しみ……そして喪失感」
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「死にも耐えるほどの感情だなんて、面白いですね」
目を血走らせながら、人外の存在を睨む。そこには、それだけで人を殺せてしまえそうなほどの殺気が込められていた。
「わたくしはあなたの標的ではありませんよ」
「ああ、分かってる!」
言いながら、自分の頬を加減なしで殴った。口の端から、血が流れる。
「これで、少しは落ち着いた」
手の甲で血を拭い、口内に残っているのを吐き出す。
「どうやらここが夢の世界じゃないってのは本当のようだな。痛いし、記憶が曖昧だし」
ここが夢の世界でないなら、夜太郎には目の前の存在に聞いておかなければならないことがある。
「ここが死後の世界であるのなら、お前は一体なんなんだ?」
さっきまでは、これは夢なのだと思っていたから、人外の存在にこれといった疑問を抱かなかった。夢なのだし、化物の一匹二匹いてもおかしくない程度の考え。
だが、今は違う。ここが夢の世界でない以上、人外の存在は夜太郎の脳が生み出した存在ではないということになる。
「わたくしはそうですね~。人間の言葉で表現するなら神ってところですね」
「神……ね」
常識的になら、絶対に信じられない内容。だが、黒い空間、記憶喪失、明らかな人外的存在感、と常識を崩壊させるには十分過ぎる材料が揃っていた。
神と名乗る存在の言葉を鵜呑みにはせず、半信半疑で聞くことにした。
「じゃあ、名前は何ていうんだ? 神だって、アマテラスやスサノオみたいに固有の名前があるもんだろ」
「クロロ、と呼ばれているわ」
「聞いたことないな」
「そうでしょうね。あなたがいた世界の神ではありませんもの、わたくし」
「まあ、知っている名前かなんてどうでもいい。本題は別だ」
夜太郎が神と呼ばれし存在に求めること、それはただ一つ。
「俺を生き返らせてくれ」
目の前の存在が本当に神様であるのか? 自分が何故こんな場所にいるのか? そんなことは夜太郎にとってどうでもよかった。知りたいことではない。
知りたいことは、自分の内から溢れ出す激情の正体、ただそれだけ。
殺意、憎悪が充満していることから、激情の根源は誰かに対する感情であることを考察するまでもなく理解していた。
対象は不明、しかし激情が消えていないのなら、対象はまだ殺せていないということだろう。
だから、夜太郎は記憶を元通りにするのではなく、元の世界に戻らなければならなかった。
「それは、無理ですね」
その言葉が言い終わると同時に、夜太郎はフラフラな身体でクロロの首を片手で掴む。掴むまでの動作は無駄がない滑らかなものであった。
「理由は、世界の理ってところか。……悪いがそんなのは破ってもらうぞ」
クロロは掴む手を微笑みながら見つめた。
「神を暴力で屈服させようとする人間なんて初めて見ました。ふふ、あなたって本当に面白いですね」
「感想なんてどうでもいい。返事は、はいかイエスの二つだけだ」
「無理、と答えたらどうなるのですか?」
「その気持ち悪いほどに綺麗な顔が、化物に変貌するだけだ」
「それは嫌ですね」
首を絞められている状況なのに、クロロは微笑んでいた。
「早く答えろ。感情を荒治療で一時は押さえ込んだが、また溢れてきた。このままだと、お前を殺してしまうかもしれないぞ」
「なら、すぐに返事をしないといけませんね。返事は……無理です」
空いている拳でクロロの腹を殴ろうとした。
「ッ!!」
しかし、そのまま動かなかった。
夜太郎の全身を無数の剣が一瞬で包囲したからだ。数ミリでも動かせば、刃先を血で濡らすことになる。
「どうしたのですか? わたくしの顔は綺麗なままですよ」
「反則だろ、そんなの」
「殺し合いの場では、殺すことだけが正義ですよ」
夜太郎は首を掴むのを止める。
「脅すのは諦めたのですね」
僅かに食い込んでいた指が離れると、無数の剣は最初からそこには実在していなかったかのように跡形もなく消えた。
諦めたわけではない。夜太郎の脳内ではクロロを脅す手段のシミュレーションが今も行われていた。
だが、どれも成功には辿り着けないでいた。
脅すことが目的であるのだから、当然クロロを殺すわけにはいかない。クロロは生きていながら、夜太郎がクロロの生死の手綱を握ることが絶対条件だ。
その絶対条件である、クロロは生きていること、これが数多のシミュレーションを不可能へと追い込んでいた。
クロロが生きているということは、いつでもあの無数の剣を出せることを意味している。今の夜太郎の状態では、その関門を乗り越えるのは不可能であった。
つまり、無数の剣への対策が浮かばない限り、脅しは不可能ということだ。
「ふふ、いいですね、あなたのその目。圧倒的な力の差を見せつけられたのに、まだ黒く燃え続けている」
その言葉から、自分はまだ諦めていないことがバレているのだと察し、視線を逸らす。
「どうしても生き返りたいのですか?」
「当たり前だろ」
「激情を抱きながら生きていくのは苦しいだけですよ。そんなものは忘れて、楽になろうとは思わないのですか?」
「忘れる……か。何故忘れないといけない?」
クロロにとってその回答が意外だった。無意識に少し目が見開く。
「この爆発しそうな感情を否定する生き方なんて何の価値がある? 無理して自分に嘘を付く生き方なんて死んでいるのと変わらない」
「……」
「俺は人間だ。亡霊じゃない」
これが、夜太郎という人間の本質であった。
「ふふっ、ふふふ」
夜太郎の言葉に笑いを押さえられないでいた。
「何がおかしい?」
「いえ、おかしくて笑ったわけではありません。ただ、あなたという存在が非常に面白いと感じただけ」
笑ったせいで出てきた涙を、指で拭う。
「なら、生き返ってみますか?」
予想もしなかった言葉に、思わずクロロの両肩を掴んだ。
「本当か!?」
「本当ですよ」
「さっきは無理って言っていただろ」
「その言葉に偽りはありません。神は嘘をつきませんから」
クロロは夜太郎の瞳を見つめる。
「生き返らせることは無理です。ただし、今はですけどね」
「どういう意味だ?」
「今のわたくしは神としてはとてもひ弱な存在。最低限度の力しかありません」
「つまり、力が増大すれば生き返らせることが可能になると?」
「ええ、だから取引をしましょう。わたくしの力をその領域にまで引き上げてくれれば、私は世界の理に反してでもあなたを生き返らせてあげます」
生き返ることが出来る唯一といっていいほどの機会。夜太郎がそれを逃すはずがなかった。
「分かった、引き受けよう」
「いいのですか? じっくり考えなくても」
「考える必要なんてない。俺にはこれ以外の選択肢なんてありはしないしな」
クロロに頼る以外に生き返る方法を知らない以上、この取引を引き受けるしか道はなかった。
クロロは手を夜太郎へと突き出す。握手を求めているのだ。
夜太郎はその手を力強く握った。
「取引成立ですね。では、早速始めましょうか」
「始めるのは構わないが、何をすればいいん……うお!」
あまりのことに夜太郎は思わず悲鳴に似た声を上げてしまった。夜太郎の下の地面が突然光だし、その光が夜太郎の全身を包みこんだのである。
「わたくしは、あなたのいたところとは別の世界で信仰されている神様なのです。あなたには、その世界で取引を遂行してもらいます」
「遂行って、どうすれば力が増えるんだ?」
「教えません。さっき私の首を絞めたことへのささやかな復讐です」
光は光度を増していき、夜太郎の下半身はほぼ消えていた。
「大丈夫ですよ。あなたならすぐに分かるはずです」
「すぐに分かるのなら今教えろよ」
「では、第二の人生頑張って生きてください。その生が楽しいものであるか、苦しいものであるか、それを決めるのはあなたであること、覚えていてください」
その言葉を最後に、この空間から夜太郎の存在は完全に消失した。
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