3-6 sweet&bitter
怪奇かつ華麗な現象に見舞われた函館市。その観光地として知られる中でも、特に人気の高いスポットに望と古城は足を運んでいた。通りの左手に建ち並ぶ夜六時の金森赤レンガ倉庫は、まるでそのものが夕闇を照らすモダンな照明のようだ。右手は海でヨットが停泊しており、正面にそびえ立つのは闇色の函館山だ。明暗のコントラストが、何とも情緒的な雰囲気を漂わせている。ユートピア現象の恩恵は授からなかったものの、西洋の賑わう港町に似た景観には心躍らせるものがあった。
『すごーい! ここ、テレビで観たことある!』
『宇津木なら、そういうリアクションをすると思ったよ』
『何それ。単純って言いたいわけ?』
『フッ。でも、来てよかっただろ?』
『確かに。函館に来たならここは抑えとかなきゃだね』
多分、そんな感じなのだろう。全ては小向瀬奈隊員の想像上のものでしかなかった。他愛のない会話を繰り広げる望たちの音声を、小向はゼナダカイアム司令室の自分のデスクからリアルタイムで拝聴していた。仕事という名目で八割、趣味で二割といったところだろうか。
拝聴などという見苦しい言い訳はなしにすると、小向のしている行為はれっきとした盗聴だ。物憂げな表情で深い溜息を吐く小向。それは罪悪感から来るものではなく、羨望の思いが込められているのは明白だった。外出機会を逃した彼女にとって、これほど苦痛たらしめる任務があるだろうか。つい最近二十歳を迎えたばかりの小向の怒りの矛先は、望の隣に歩く怪しい男性に向けられた。モニターにはかの人物の経歴が仔細に渡って記されている。
志藤塁、宇津木望、安國泰紀と同じ高校の出身であり、卒業後は難関国立大学を一般入試で受験。見事合格し、進学を果たす。大学には三年間在籍したと記されている。二年次にドイツに留学して経済学を学び、教師や友人にも恵まれて優秀な成績を収め、飛び級制度を利用して早期卒業を認定された。
国家公務員Ⅰ種試験などの資格の取得を経て、弱冠二十一歳にして外務省に入省。一年間本省に勤務する。このまま順当にいけば在外公館への勤務を数回経て、キャリア外交官としての道を悠々と歩んでいたことだろう。
しかし、一身上の都合により外務省専門職員を退職。その後、二十二歳のときに函館市役所の職員に転職。国家公務員から地方公務員へ……。逆のパターンならまだしも、これは前代未聞の経歴と言わざるをえない。彼が午前中に話していた、祖母の介護に関する事は調査の結果本当だとわかったが、はたしてそれが国家公務員を辞める理由となり得るだろうか。
そのうえ、この経歴の真偽も確定したものとは限らない。ゼトライヱの情報を探る他国の諜報員か。はたまた人間の姿に擬態したヨルゴスの何某か。それとも別の悪事を働く存在か。疑えば疑うほど、この男がいっそう怪しく見えてくる。
「望さん、悪い男に騙されちゃダメですよ……!」
奮発して買った高級な板チョコを齧りながら、小向は届かない忠告を発した。望が上手く対処できればいいのだが、いざというときのフォローは自分がしなければ。そう注意深く音声を拝聴している小向だったが、先ほどから望と古城の会話は取り留めのないもので、恋愛漫画を嗜む小向にとっては非常にもどかしい内容だった。
『コシロー。ちょっとお店に寄っていいかな? かわいい後輩ちゃんにお土産頼まれてるの』
『ああ、いいよ。どんなお土産がいい?』
『うんとねぇ、花より団子のタイプかなぁ。美味しい物の方が喜ぶと思う』
「望さん、聞いてますからね……」
『それならスフレとかどうだ? オムレットもあるが、生ものだし』
「オムレット! オムレットがいい!」
『じゃあスフレにしよっかな』
「どうしてぇ……」
成立しない会話に嘆く小向をよそに、望たちはそれから店内で他の品物も見て回ったようだ。小向は悲しみに暮れる中、板チョコを齧りつつあるひとつの疑問を頭に思い浮かべた。
古城の目的が情報の入手なら、もっと効率良く会話をまわすものだろう。彼がもしクロだとすれば、今のところ収穫はゼロに等しい。それとも、敢えて不器用な男なのを演出しているとでも言うのだろうか。もしそうなら、かなりの手練れだ。いつも以上に板チョコの減りが速い。バリボリとそれを食らい、とても熱心に聴き入る小向の姿を、蓮見を含む隊員たちは怪訝そうに窺っていた。
店の外に出た二人は、賑わう場所から人気の少ない通りに歩を進めた。とは言っても、まばらではあるが通行人はいる。古城が何か手を打ってくるとしたら、このタイミングかもしれない。
小向がそう警戒した矢先のことだった。古城の言葉に我が耳を疑ったのだ。
『宇津木は、まだ志藤のことが好きなのか?』
『え?』
唐突な切り出しに、望も足を止めたようだ。だが、その古城の問いこそ、彼らにまつわる物事の核心を衝いているようでもあった。咄嗟に取り繕った望の声がそれを物語っていた。
『ど、どうかな!? あいつはもうほんっと野球ばっかりだし、面倒見ようにも私も仕事で忙しいし。今はきっとそういう時期、みたいな』
『好きなんだな』
『…………』
沈黙が流れる。小向はそこでようやく、志藤塁と宇津木望の関係の曖昧さを知るに至った。そしてさらに、現在進行形で歪な三角関係が作られようとしていることも。古城の巧みな色仕掛けかもしれないが、小向が二人の会話に熱中する要素としては十分だった。
沈黙はやがて、古城によって破られる。
『学生のときにさ、教室で君と君の友人が恋バナをしてて、君が志藤のことは別に好きでも何でもないって言ってて……。俺はそれを真に受けてしまった。君に告白してフラれたときは、そりゃあショックだったよ』
『ご、ごめん』
『いいんだ。今となってはいい思い出だから。久しぶりに同級生の顔を見たら、少し気が晴れたよ』
『疲れてたんだ?』
『まあな』
いつの間にか、古城の声に堅苦しさがなくなっていた。それは単なる同級生と再会したときの優しい声音ではない。もっと淡く、胸の高鳴りを感じさせるものだった。
任務だということはすっかり忘れて、小向は人知れず人のプライバシーを覗いて切ない感情に見舞われていた。もし彼女が自分の部屋にいたら、ぬいぐるみに顔を突っ込んでベッドでのたうち回っていたことだろう。恋愛漫画を嗜む小向だが、そういった話題の耐性は人一倍なかった。
『……コシローはさ、夢って持ってる?』
『夢? 夢か……』
望の切り出した話題も唐突なものだった。古城は少し考えた後に答えた。
『大した事じゃないが、身近にいる人を幸せにできたらと思う。ゼトライヱっているだろ? 宇津木の方が詳しいと思うが』
『う、うん』
『ヨルゴスから地球を守るヒーロー、すごく格好いいじゃないか。俺も昔は、そういう強い存在に憧れてた。……けど、冷めてもいた』
『え?』
『現実はそんな甘かないだろってね』
『ふふ、コシローらしい』
『俺にできることと言えば、表向きには市民の生活をより豊かにすること』
『表向きには?』
小向も、望と同じ言葉が気にかかった。が、すぐに大したことでないとわかった。
『不平不満が尽きないこのご時世、役所に勤めていても実感が湧かなくてね。だから、手の届く範囲で構わない、まずはそばにいる人を大切にしよう。みんなのヒーローになれなくても、誰かのヒーローになれればいい。妥協した人間の、器の小さい話だけどな』
『ううん。すごく素敵だと思う』
『夢はいつも、勝ち取るものだと思っていた。だけど、大人になって気づいたのは、勝ち取れる人間はごく少数に限られるってこと。夢破れても人生は続いていく。勝ち負けにこだわって、夢に生きるつもりが夢に縛られるのは、ちょっと息苦しいよな』
そう話す古城のことを、小向はとても大人びて見えた。大人と子供という曖昧な境界線の、彼はすでにあちら側に立っている。望は何を思っていたのかは不明だが、古城の話を黙って聞いていたのは確かだった。
『でも、だからこそ、夢に向かって頑張る人を羨ましく思う。結局は、脇目も振らず追い続けた奴が夢を叶えるんだって。俺はあいつが……志藤が羨ましいよ』
『もし、塁がプロ野球選手になれなくても? コシローはそう思うの?』
『……随分とネガティブなことを言うんだな』
『だって、努力だけじゃ叶えられないものもあるでしょ?』
望が言わんとしていることに気づいた小向は胸を痛めた。ゼトライヱとなり、ヨルゴスと戦う使命を背負った志藤塁。彼の夢が叶うときは、果たして訪れるのだろうか。望が悲観的になるのも納得がいく。それについて小向を含む組織の人間に相談できないということも。
だから、何も知らない古城に投げかけたのだろう。そして彼は、望にとってより良い言葉を選んだのだ。
『そうかもな。でも、夢に向かっていった努力は確かにそこにある。何よりも貴重な、人生の経験値を積んでいるんだ、経歴だとか資格だとかより、よっぽど大事なキャリアをね』
『人生の経験値かぁ……。うん、ありがとう。コシローに聞いてみてよかった』
『どういたしまして。……でも、皮肉だな』
『え?』
『だって俺は、どうしたって叶えられない夢を持ってるから』
望が口を開く前に、古城は振り返って彼女を真っ直ぐな眼で見つめた。偶然にも、周りにいた通行人は消え、橙色の街灯の下に二人は照らされていた。
『宇津木、俺は一度君にフラれたけど、未だに君のことを想ってる』
拝聴していた小向の心臓が跳ね上がる。もはや任務どころではなかった。まるで乙女が恥じらうかの如く――事実そうなのだが――小向は両手で口をおさえて体をくねくねとさせた。
『君のことを忘れようと、これまでいくつかの女性とつきあってみたけど、長くは続かなかった。貴方の心に私はいない、そんな風に言われたこともあったよ』
音声だけでは望の反応はわからなかった。望はどんな表情でどのように、何を思って正面に立つ男の言葉を聞いているのか。寒さと共に訪れる潮風、赤レンガ倉庫の情緒溢れる景観、街灯はまるでスポットライトのように二人を包み込む。小向の純情的妄想は止むことを知らなかった。
古城の独白だけが、蕩けるような時間の経過を知る手立てとなる。
『故郷から遠く離れた場所に就職して、もう君に逢うことはないと思っていた。でも、またこうして巡り逢ったのは、何か縁があるんじゃないかって独りよがりに考えてしまう。こんな事をしている場合じゃないのはわかってる。ただ、どうしても伝えたかった。何年か振りに逢った君は変わらず綺麗で、可愛くて、その……また好きになってしまった』
数瞬の静寂。古城は独白を独白のままで終わらせた。訊ねることはしなかった。
そのとき、小向が耳にしたのは望のすすり泣く声だった。気持ちが高ぶっていた小向も体の動きを止め、真顔で事の成り行きを見守ることにする。その行為を意味するものなど求めてはいけない。ただ小向は、胸に突き刺さるような強烈なシンパシーを覚えていた。
伝える勇気と伝えられる辛さ。その両方がもつれてひとりの女性の心をほだす。何かの縁だとか運命の赤い糸だとか、そういう幻想めいたものより身近にあって、人と人とを無意識に繋ぐ根深い感情。きっとそれが、望の瞳から涙を落としているのだろう。
衣擦れの音。涙を拭いた音、だろうか。やがて望のか細い声が聞こえる。
『……歩こう』
『宇津木?』
『すぐに返事を返すのは無理。だから、歩くの』
『一緒にいてもいいのか?』
『方向音痴なの。迷子にしないでよ』
『あ、あぁ……』
それから二人は四十分ほど、寒空の夜の下、赤レンガ倉庫の周りを歩いた。お互いに口を開くことはなく、車で望を送った際に古城が「また明日」と伝えただけだった。
その無音声を拝聴しきった小向に残念がる様子はなかった。むしろ良い映画の余韻に浸るような充実した時間だったと言わんばかりの表情で、椅子の背もたれに全身を委ねていた。
隣のデスクにいた蓮見が、休憩が長すぎないかと後輩に注意しようとした矢先、その後輩の方から先に呼ばれた。手で頬をおさえ、板チョコを咀嚼する小向の顔はいつになく乙女だった。
「先輩」
「どうしたの?」
「甘くて、苦いですぅ……」
「そりゃ、ビターチョコだからね」
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