1.5-3 目覚め
真っ白な照明灯に眩しさを覚えて、塁は自分が目を開けていることに気がついた。幾度かの瞬きの後、視界が白一色ではなく空間に光陰があるのにも気がつく。頭を支えている柔らかいものは枕で、この面白味のない白色の視界は天井。重力はしっかりと、身体をベッドに沈ませている。最後は匂いだった。何とも言えない消毒剤の匂い――塁の頭の中では病院の匂いと認知されているものだ。
夢を見ていたような気がした。何かこう、得体の知れない化け物と戦うヒーローになった夢だ。だからだろうか、眠っていたのに疲労感が残っている。
「目覚めたか、志藤塁」
名を呼ばれた塁は顔だけを起こすと、ベッドの傍に一人の女性が座っていることを確認した。髪は腰のあたりまであって、色は暗めのブラウンだろうか。照明が眩しくてはっきりとはわからない。腕組みと、そして足も組んでいる。モデルような出で立ちで、洗練された感じのある女性だった。塁はおぼろげな頭で記憶を探ってみたが、その女性の顔に該当する名前は思い浮かばなかった。こんなに印象深い人なら覚えているだろうし、初めて会う人なのは間違いない。それなのに彼女は自分の名前を知っている。
「あんたは……?」
「私は大和優子だ。お前が気絶している間、悪いが少々身体を調べさせてもらった」
塁は女性の言っていることがよくわからなかったが、ふと自分の身を包んでいるものが目に入った。自分はクリーム色の病衣を着ている。下半身が妙にスースーするのはさておき、塁は眉間に皺寄せるくらいの頭痛に見舞われた。気を失うまでの断片的な記憶が、次々と頭の中に押し寄せてきたのだ。
今、自分を照らす白色の照明よりもさらに眩い光に包まれて、強靭な体躯を手に入れたような――自分の中に強い何かが宿ったような――そんな曖昧な記憶だ。特に右腕から全身に力が行き渡り、手の平が燃えるように熱い感覚のままホームランをかっとばした。
自分でも何を言っているかわからない。
あと、耳からは自分のことを叱咤激励する声が聞こえていた気がする。その声の主は……ヤマト司令と呼ばれていた、ならばこの人がそうなのか。
「はいはーい。志藤くーん、元気ィ?」
もう一方の傍からまた見知らぬ女性から顔を覗き込まれたせいで、塁は拾い集めていた記憶の欠片を繋げられず、一旦保留にしておかねばならなくなった。
「え、あぁ、元気ッスけど」
「そう。じゃあ、じっとしててね」
有無を言わさず、塁はその白衣を着た女性になすがままにされる。赤い眼鏡が印象的で、一言目からして天性陽気の人そうだ。頭を枕に戻され、ペンライトで片目ずつ瞳孔の動きをチェックされる。かなり眩しく、塁は目を瞬かせた。
「はい、次はおくちアーンして」
「ア、アーン」
身体を起こしてもらって舌圧子を口内に入れられる。白衣も着ていたことだし、この人は医者なのかと塁は察する。年上の美女二人に囲まれて看病してもらうという状況ではあるが、塁にとってはこれを満足に楽しむ気持ちの余裕はなかった。
「バイタル異常なし。流石の回復力といったところね」そう言って、白衣の女性は塁の胸のあたりにコツンと拳を当てた。
「痛ッ」
痛みを覚える衝撃ではないのに、塁はそう口走る。違う箇所がズキズキと疼いたからだ。病衣から覗く隙間を見ると、塁の胸と両の二の腕に包帯が巻かれていた。腕には少し血が滲んでいた。
「そうだ……! 俺、球場に向かう途中でヨルゴスに遭って……!」
地球外生命体の総称を言った途端、塁の中で様々な視覚的記憶が蘇る。カラスと人間の合成獣のような生物、宙に浮いて制御不能になった乗用車、崩壊する町並み、脅威に晒される人々、墜落する戦闘ヘリ、屋根の一部が炎上する大七日スタジアム……。どれもこれもが悪夢のような現実だ。最後に思い浮かんだのは、塁が道中で出会った老婆とその孫だった。幸せそうな二人が一転、災厄にその身を蝕まれたのを塁は間近で目撃していた。
「町のみんなは!? あの化け物はどうなりました!?」
切羽詰まった様子で塁は目の前の女たちに訊ねた。室内がしんと静まり返る。塁はそこで初めて、隣のベッドに眠る男がいることを知った。あの化け物と戦い、惜しくも敗れてしまったブロンドの髪の青年だ。そして、彼には一人の女性がついていた。塁よりも若く、紺色を基調とした制服を着用している。制服と言っても学生服ではなく、軍服の方だ。その女性は一瞬だけ塁と目が合ったが、すぐに視線を逸らした。
白衣の女性が唇に人差し指を添える。
「ここは病室。静かにね」
「大七日市の被害は最悪の事態を免れた。新たなゼトライヱが来臨を果たしたことでな」
「新たなゼトライヱ……」
「そう。お前のことだ、志藤塁」
その瞬間、塁の中で散らばっていた断片的な記憶がパズルのように然るべきところに収まった。欠けてはならない一片、それはゼトライヱとなった自分の存在そのもの。塁は目を見開いてしばし呆然とした。
なぜなれたのか、などと塁が知る由もなかった。生まれつきゼトライヱになれる素質でも備わっていたというのか。もしくは血統か。父も母も普通の人間だ。そして自分自身も、ちょっと野球が上手くてガタイが良いだけの一般人だ。血統という言葉を思い浮かべて、塁は母のことを思い出した。そういえば、まだ何も連絡していない。怒られるだろうか、それとも心配しているだろうか。
塁は何気なく右腕を見遣る。紛れもなく人間の手だ。なのにどうして――。
「詳しい事情は別室で伝える。立てるか?」
大和にそう言われ、塁は雑念を払い白衣の女性に支えられながら両脚を床に下ろした。腕の傷が痛むが、泣き言を言っている場合じゃない。自立した塁は確かな口調で頷いた。
「いけそうです」
「では、行くぞ」
「はい」
病室を後にする二人の背姿を、白衣の女性――仙石は黙して眺めていた。
志藤塁の患部は軽傷で済まされるレベルのものではなかった。上位型腕神経叢損傷。ヤタガラスの鋭利な鉤爪によって抉られた腕の傷はかなり深く、後遺症が残るおそれも多いにあった。少なくとも、一朝一夕で治癒するなど人間の回復力では――地球上における如何なる生物においても――到底考えられないほどの損傷具合だった。ところが、あの適合者の様子から見るに完治は間近ではないか。
ほんの数時間前、気を失っている適合者の患部が見る見るうちに再生されていく様は圧巻だった――戦慄を覚えるほどに。適合者の身体の研究を仕事とする仙石は、そのような観点から志藤塁に多大なる関心を持つようになった。
知的好奇心により鼻息を荒くする仙石。彼女の背後から、もう一人の適合者のうめき声が上がった。椅子に座っていた三登里は思わず立ち上がり、患者の様子を窺う。
「う……」
「主任、ユリウスが!」
「王子様もお目覚めか」
六波羅ユリウスの回復力も驚異的だった。ビルの屋上から一階まで階層を突き破りながらヨルゴスと共に落ち、鉄筋コンクリートの瓦礫に押し潰されそうなところを逃れ、とどめには重力操作による頭部からの壁に激突。並の人間ならとうに三回は死んでいるところを、半日も経たずに意識を取り戻したのだから。
「じ、状況は……!?」
「まだ起きちゃダメ。ずっと気を失っていたんだから」
「だったら、尚更寝てるわけには……!」
起き上がろうとする痣だらけのブロンド髪の青年に、三登里は手をかけて彼を宥める。独り身の仙石にとっては暑苦しい光景だった。
「大丈夫。ヨルゴスなら倒したから」
「誰が!?」
「それは……」
歯切れの悪くなる三登里。強引に押し切られかねないと察知した仙石は、ユリウスに対して少々手荒な手段を打つことにした。目には目を、歯には歯を。無慈悲な鉄拳がユリウスの腹部を襲う。
「とうッ」
「ぐあぁ!!」
「もうちょっとで痛みが引くネ。それまで寝てるがヨロシ」
激痛に悶えるユリウスに、エセ中国人のような口調で仙石が告げる。三登里はそんなふざけた真似をする彼女に苛立ちを覚えたが、立場、知識、器量、そして女性として仙石に叶わないので唇を噛むに留まった。それにユリウスが本当に重傷ならば、このような悪ふざけはしないはずだ。三登里はそう解釈することにした。
「主任、てめぇ……! 覚えてやがれ……!」
「はい、アーン」子どもをあやすような甘ったるい声を仙石は放つ。
「もが……」先の台詞とは裏腹に、ユリウスも彼女になすがままにされていた。
「こっちもバイタル異常なし、と。減らず口が叩けるんだもん。平気平気♪」
ぐったりした様子のユリウスに向かって、仙石は彼の頬を指でプニプニとする。抵抗する気力もないのか、三登里の幼馴染は目を閉じてそれを受け入れている。三登里にとってはやはり気に食わない光景で、後で彼の口からまんざらでもなかったことを問い質そうと胸に誓った。
白衣の裾をふわりとなびかせ、仙石は踵を返し部屋から出て行こうとする。その間際で、ふと思い出したように仙石は三登里に告げた。
「三登里ちゃん。私はラボに戻るから、後のことはよろしく頼むね」
「は、はい」
返事をした後、静かな呼吸を繰り返す幼馴染を三登里は見下ろす。ユリウスは相当無理をしていたらしく、また浅い眠りについてしまった。二人きりの貴重な時間。どうせなら雰囲気ある場所で、それから健やかな彼でいてほしかったけど、今となってはわがままな注文なのかもしれない。三登里はユリウスの手をそっと握って憂う。これからこんなことが多々あるのかと思うと、心が病んでしまいそうだと。
せめて幼馴染の手の温もりを忘れぬよう、三登里は次に彼が目を開くまでその手を離さなかった。
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