第15話「吉沢姫紀の帰還」―――姫紀side

 屋敷の外へ出た姫紀は頬にペタペタと手を置いて顔の火照りを確認している。


「どうしよう、私きっと顔が真っ赤だわ。胸の高鳴りも全然止まらない」


 今まで姫紀にとって心を許せる相手と言えば親類である姉と直樹だけだった。しかし、27年間という人生のなかで初めて赤の他人に完全なまで心をさらけ出したのだ。


 しかも、その相手は姫紀の偽りの皮を一枚一枚ゆっくりと剥いで真っ白な彼女を温かく包み込んだのだ。


 恋人も友人でさえも皆無に等しかった彼女が今まで知らなかった特別な感情に心を揺さぶられるのも無理はないだろう。


「駄目よ、今はダメ。少なくとも恭ちゃんにきちんと向き合うまでは私にそんな資格はないのよ」


 姫紀は心の中から今にも飛び出そうとしている新しい自分にそう言い聞かせた。




 そして彼女が次に向かったのは使用人の控室。


「お嬢様?どうなされましたか」


「ええ、ちょっと私のマンションまで送ってくれないかしら」


「承知いたしました。すぐにお車を回して参りますのでお待ちください」


 初老のお抱え運転手は快諾しいそいそとガレージに足を運んだ。


 

 いかにも高級そうな黒光りしているセダンが姫紀の傍に横付けされると、運転手は何時ものように後部座席のドアを開けるため運転席から降りようとする。


「別に降りなくてもいいわ、車のドアぐらい自分で開けられます」


 姫紀がそう制止するも運転手は全く意に介さない様子でいつも通りの行動をとった。


「そうは参りません。私もプロである以上礼儀作法は崩せませんので」


 苦虫を嚙み潰したような顔をして運転手が開けたドアから車に乗り込んだ姫紀だったが、何の気遣いもいらない渡辺家の食卓にまた戻れるかもしれないと思うと自然と顔が綻んだ。




 姫紀を乗せた車が郊外を抜けて通学圏内である繁華街へ入ると、姫紀のクラスの生徒がウロウロしているところを彼女は窓越しに見つける。


 それも一人ではなく、2人、いやもっといる。さらに反対の窓の向こうにも多数映っており、姫紀は慌てて窓の外から見えぬよう身を屈めた。


(なに?どうしてウチのクラスの生徒がこんなにいるのよ!こんな車に乗っているところを見つかるわけにはいかないわ)


 ある程度車が進んだところで姫紀は改めてそっと窓を覗いてみるがそこにも徘徊している別の生徒が目に映る。


(なんなのよ、どうして今日に限ってこんななのよ!!)


 いよいよ自宅のマンションが近くなってきたためか、姫紀も焦りが更に募る。


「ごめんなさい、そこの路地に入って私を下ろして!!マンションまで行かなくて構わないから」


 とにかく人通りのない場所で車を降りないと、生徒たちに見つかってしまう危険があると懸念した姫紀は運転手にそう指示するが、融通の利かない運転手は規定事項かのように反論の意見を述べる。


「まだご自宅へは結構な距離があります。お嬢様にそんな距離を歩かせるわけには参りません」


 今まで吉沢本家に関わる人たちには吉沢の顔しかみせていなかった姫紀も我慢の限界だった。


「いちいちうっさいわね!今の当主は私よ!いいから言う通りにしろってのよ!!」


 後部座席から運転席のシートを足蹴にする姫紀。


「ヒィィ!お、お嬢さま!」


 吉沢本家では見たことのない姫紀の変わりように運転手のプロ意識も形をなくし、黒いセダンは急ハンドルを切られキキィっとタイヤの鳴る音と共に路地裏へ突入する。


「ごくろうさま。貴方はもう屋敷へ戻って結構よ」


 姫紀はそう言うと自分で後部座席のドアを開けて車から降りる。いつもであればその任にあたる運転手も『くわばら、くわばら』とハンドルに顔を埋めて震えていたのだった。




 そして路地裏からひょこっと顔をだして、姫紀は本道路を確認するが、左を見ても右を見ても生徒の姿がチラホラと視界に入る。


「ほんっとに、あの子たちは何をしているのよ?」


 姫紀は暫く路地裏の陰で観察していたが、徘徊する生徒たちは一向に居なくなる気配がなく、『これじゃあ埒があかないわ』とまるで逃亡者のように生徒たちの視界が逸れたタイミングを見計らって電柱やブロック塀に身を隠しながら自分のマンションへ足を進めていった。


 そして、ようやくマンションが見えて来たあたりで姫紀は窮地に陥る。


(ヤバッ、隠れる場所がないわ!)


 数十メートル先にいる生徒の一人がゆっくりと姫紀の方へ顔が向けられようとする瞬間、彼女は瞬時に前を歩いていた飼い主と散歩中のゴールデンリトリバーの後ろへ両手両膝を地面につけて隠れる。


「ほほほ、ちょっと落とし物を……」


 そう誤魔化そうとするも、飼い主には奇怪な目で見られて姫紀はかなり気まずい状況であったが、間一髪生徒に見つからなかった安心感の方がそれに勝る。


(あー、危なかったわー。これがチワワだったら完全にアウトだったわー)


 姫紀はそのまま『ほほほ、何処に落としたのかしらー?ほほほほほ』と、四つん這いのまま大型犬に歩調を合わせながらマンションへと辿り着いた。


「あらあら、見つかりましたわ。おほほほほ、それではごきげんよう」


 マンションの入り口でようやく立ち上がって砂埃が付いた体を払いながらそう挨拶をする姫紀を飼い主は幾度も首を傾げて終始変質者を見るような顔つきのまま去っていった。




「ふぅー、なんとか帰ってこれたわ……」


 姫紀がそうため息をついたとき、後ろから彼女の肩はポンポンと叩かれる。


「え゛っ!?」


「やはー、久しぶりだねー。せんせー」


 姫紀が恐る恐る振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべている都華子の顔がドアップで映された。


 姫紀は反射的に逃げる。


「キョウ、そっちに行った!!捕まえて!!」


 しかし、既に退路のほうへ回り込んでいた恭子に姫紀の体は背中から羽交い絞めにされて、結局彼女は拘束されてしまった。


「は、放しなさい!……お願い、放してー!!」


 姫紀はジタバタもがくも、恭子は力を緩めない。


「駄目です、絶対に放しません!」


「ちょっ、その華奢な体のどこにこんな力があるのよっ!もうっ!!」


 そして、恭子が姫紀を拘束できたことを確認した都華子は、サムズアップで彼女を称え、『みんなーミッション完了!!マンション前にてターゲット捕獲』とスマホのメッセージツールでクラス全員へ報告の通知をした。


 数分もしないうちに姫紀は集まってきた生徒たちに囲まれる。


「貴方たち、これはなんなのです?一体どうしたっていうんですか」


 既に皆に囲まれて退路を失った姫紀は、恭子から束縛を開放されている。


「どうしたもこうしたも、ずっとうちら先生を探してたにきまってんじゃん」


 ヒトミが混乱している姫紀へ最初の言葉を放つ。


「何故そんなことを?……確か今日は学園祭の準備のはずでしょう?」


「何故って、先生そんなこともわかんないの!?一週間も無断欠勤して、電話もメッセも拒否ってブロックして、心配しないわけないよっ!!」


 都華子は姫紀が今になっても自分の現状をいまいち理解していない様子に対して怒りを露わにし、アイアンクローをかます。


「先生だって、他の誰かが急にいなくなったら心配するっしょ?」


 クラスの一人である男子生徒が言葉を重ねる。


 そしてそれを皮切りにクラスのみんなが、心配してたと続けて声を上げていた。


「心配……そう、心配。……私は心配されていたのですね」


 姫紀は都華子に顔を鷲掴みされたまま、その左右の瞳からツーっと涙が零れていく。


 姫紀はこの年になっても今まで友人と呼べる人が存在せず、誰かを心配するということはあっても、他人から心配されるという経験に乏しく、恐らくは初めてであろう切なくも温かいこの感覚に理性と感情が追い付いていかなかった。


「ごめんなさい……ごめんなさい。……ごめんな、さぃ」


「あっ、ゴメッ、姫ちゃん!ひょっとして痛かった……?」


 都華子は涙する姫紀の顔から慌てて手を放す。


「何やってんの、相葉!!先生泣いちゃってんじゃん!!」


 都華子の頭をパシッはたいたヒトミは姫紀の体をゆっくりと包み込んで優しく頭を撫でる。


「先生、泣かなくてもいんだよ。あやまんなくてもいんだよ。別に悪いことしたわけじゃないんだからさ」


 ヒトミは年の離れた自分の妹や弟をあやすかのように、泣いて嗚咽をあげている姫紀の背中をヨシヨシとさすっていた。


 都華子は勢い余ってやり過ぎてしまったかもと反省をしていたが、彼女にはまだ姫紀に問いたださなければいけないことがあり、ヒトミの胸に顔を埋めている姫紀の横顔へそっと近づいた。


「お願い先生、一つだけ教えて?……まだ先生には学園に戻ってこれない心配事や悩みがあるの?」


 姫紀は小さく顔を振った。それに応じて女子高生離れしたヒトミの巨乳は左右へぷるんと弾ける。


「じゃあ、まだ私たちの担任を続けてくれるんだよね?」


 今度はコクリと頷く姫紀。またもや姫紀の顔を圧迫していたヒトミの乳はそれに応じて上下へぷるんとバウンドさせた。


 そして姫紀はスンスンと鼻を啜り、ようやく自分が今しなければならないことを認識できるようになるまで理性を取り戻した彼女はヒトミの体から離れて生徒の皆へ体を向けた。


「その……私の悩みはとりあえず、とある素敵でとてもおせっかいな男性の方が、自分だって仕事が大変なのに、私を隠れ家まで追いかけてくれて、結局その人の言葉ひとつで解決に向けた覚悟ができました」


「貴方たちにもとても心配をかけてしまったようなので、きちんと説明しなければなりません。……え、と。私の置かれている立場は……なんといいますか、なんと説明すればいいか……ええと、そのですね」


 恭子のことを隠したまま、どう説明すればいいのかわからない姫紀だったが、なんとか皆の誠意に答えたい気持ちで胸が一杯だった。


「そっか、結局またオジサマがカッコつけちゃったんだねぇ。……無事に解決したんならもうそれでいいよ」


「え?」


「そーだよ、先生。あたしが家出したときだって先生は何も聞かずにあたしをここで泊まらせてくれたよ」

 

 マッコが姫紀のマンションを指さしてそう言った。


「そうだそうだ。俺だって他校の奴とケンカして補導されたとき、『男にはやらなきゃいけない時がある』って今考えると自分でも訳がわからん言い訳なのに、先生は何も追及しないで補導員から引き取ってくれたこともあるしな!」


「タカフミ、……それ前かがみで言ってもカッコつかないよ」


「おまっ、しょうがねえだろ。ヒトミのあんなダンシングおっぱい見せられたら男なら誰でもこうなんぜ」


 そう言われた都華子が周りを見回すと、数人の男子生徒が前かがみになって手で股間を隠していた。


「あらら?キョウ一筋だと思ってたけど、結構浮気性なんだねぇタカフミ」


「ちげーよ、アレだよ。これは本命じゃなくても反応する男の悲しいサガなんだよ!」


 ヒトミも悪乗りして『ふーん、そういうもんなのねぇ』と両手で自分の巨乳をぱよんぱよんさせる。


「ヒェッ!!」


 そして再びキュッっと前屈みになる隆文を見て笑うみんなにつられて、姫紀も自然と笑みが零れた。


「だからね、先生の問題が解決したんなら、理由わけなんてぶっちゃけどうでもいいってことなんだよ!」


 都華子は姫紀にそう言うと、今度は他のみんなに向けて言葉を続けた。


「ってことで、みんな解散!!本日はどーもご苦労様でしたッ!!」


 隆文も都華子のそれに合わせて『撤収ー、撤収ー。腹減った奴ぁ一緒にラーメンでも食ってくかぁ』と声を上げて、集結していたクラスの生徒たちはマンション前から散らばり始めた。


「貴方たち……どうもありがとう。本当にありが……と、う』


 姫紀は遠ざかる生徒たちの背中に向けて深くお辞儀をして再びぽろぽろと涙を流す。 

 

 そして、都華子はその中で唯一その場を離れなかった恭子を遠くから眺めながら小さく頷いて、姫紀のその後を彼女に託した。




「吉沢先生もお腹空いてませんか?」


 ―――こくり。


「先生の家、冷蔵庫に食材とか入ってます?」


 ―――ふるふる。


「それなら、家に来ませんか?おじさんも会社に泊まるみたいですから、今日は吉沢先生の大好きなチキン南蛮にしましょう」

 


 恭子が手を差し延べると、姫紀は俯いたままその指先の端をちょこっと掴んだ。


 そして2人が夕日に照らされながら共に歩いていく姿は、まるで年の離れた姉妹のようであった。



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