コバルトブルーに染まる街
カレーは甘口派
第1話 レインコートを抱きしめて
ポケットから出てきたグシャグシャになったレシートを見つめる。合計1298円。雨が降り続けるこの街では、レインコートは必須だった。窓の外側で今日も延々と降り続ける灰色の涙を気にもとめず、六畳一間の狭い部屋でタバコに火をつけ、ぷかぷかと浮かぶ煙をボーッと眺めていた。
「ん、おはよう。」
「おはよう、今日は早起きだね」
タバコの匂いに反応したのか、ベッドで寝ていた新山 雫(にいやま しずく)が目を覚ました。雫は僕の恋人であり、そして現在同棲している。付き合って6年経つが、お互い結婚などを考えているわけでもなく、現状に身を委ね続けていた結果、ダラダラと付き合うことになってしまった。ただ、別れたいとかそんなことを思うわけでもなく、別にこのままでいいや。という惰性で今に至る。
「今日も降ってるね」
「また記録更新したらしいよ。」
「そう」
このように、会話はとても淡白である。お互い相手の深い部分に踏み込もうとしないくせに、それでいてセックスの時だけはやたら相手を求め始める。本能に従順なお付き合いをしている、今時何も珍しくない駄目カップルだ。カップルというよりも、セフレに近いもののように思えるが。
この街に降り注ぐ雨の原因は解明しておらず、数か月前に突然記録的な豪雨を記録して以来、それからずっと降り続いている。もう久しく太陽を見ていないし、洗濯物はいつも室内干しだ。そのせいで湿気臭くて少し気分が落ち込む。どんよりとした空模様に呼応するかのように僕の心もだんだんと曇っていき、最近では笑うことも少なくなった。
恐らくそれは雫も同じで、雨が降り始める前に比べて、明らかに気持ちが落ち込んでいる。それを証明するのが僕と雫の会話だ。怒っているわけでもなく、悲しいわけでもない。ただただ、元気が出ない。そういう状況なのだ。
『政府より特例の緊急避難速報です』
テレビから何やら物騒な言葉が聞こえてきた。思わずテレビに目を向け、横に長い机に肘を置きながら画面の向こうに鎮座している首相の姿が見えた。雫も同じだったようで、僕らはアナウンサーのたった一言でテレビに釘付けになった。
『数ヶ月前より続く、XX町の豪雨ですが、』
僕らの街の話だ。一体何があったのか。原因がわかったというのだろうか。
『このまま行くと、後1年で水没します。直ちに避難してください。』
『繰り返します、このまま豪雨が続いてしまうと、あと1年でXX町は水没してしまいます、直ちに避難してください。』
国民の不安心を煽らないように至極丁寧に言葉を発しているのがわかった。そのせいか、僕も彼女も避難速報を聞いたところで、顔色一つ変えなかった。それは果たして首相の配慮のおかげか、それとも降り注ぐ雨のせいか、知る由もなかった。
「引っ越さないとね」
雫が口を開いた。恐ろしく冷静に、淡々と言葉を紡ぐ。
「どこに行こうか」
「雨の降らない街が良いな」
雨の降らない街、そんな所あるわけがない。でも、少なくともこの街よりはひどくはないだろう。この雨から抜け出すことができれば、僕らの関係も改善するように思えた。しかし、この街が雨に飲み込まれるまで後1年もある。引っ越しするようなお金も無いし、恐らく政府がそれらを手配してくれるだろう。なので、ギリギリまで僕らはこの街で生活をすることにした。
「あ、やば。もうこんな時間、仕事が始まっちゃう」
「朝ごはん、できてるから。」
「ん。」
雫は中小企業に努めているOL、もちろん雨が降っていようが平日は仕事だった。ニュースに時間を取られてしまって少し焦っている雫を見て、少し嬉しくなった。久しく人間らしいところを見ていなかったものだから、まだ一人前に焦る事ができるんだな、そんな事を思っていた。
シャワーを浴びる余裕が無いようで、雫は霧吹きで寝癖を整え、顔を洗い、食事を済ませていた。白米に焼き魚、きゅうりの漬物に味噌汁といったザ・朝食と言ったメニューだが、料理には自信があった。決して「美味しい」と口には出さないものの、毎日しっかり完食してくれていることが、僕の料理の腕前を裏付けていた。
「じゃあ、行ってくるね。」
「うん、行ってらっしゃい」
ガチャン。
無機質な音を立てて鉄製のドアが光を遮る。そしてワンテンポ置いて、鍵の閉まる音が聞こえた。さて、僕は何をしているのかというと、まあ所謂作曲家と言うやつだった。といっても、まだまだ駆け出しであり、なかなか悪戦苦闘している底辺作曲家なのだが。僕も雫も19歳の頃に大学で出会い、そして21で交際を始め、そこからもう27歳だ。アラサーだと言うのに定職にもつかないで、家の中でただただパソコンの画面とにらめっこをする生活を送っている僕に、文句一つ言わない雫はそれはそれで少しどうなのかとも思うのだが。
仕事を始める前にスマホでインターネットを覗いてみると、「XX町に避難警告」というニュースが画面を埋め尽くしていた。こんなに大々的に話題になっているとは思わなかったので、事の重大さに改めて気付かされた。某掲示板や某SNSでは、アトランティスやらリアルファイナルファンタジーやらで盛り上がっているが、果たしてそれは一体どうなんだろうか。
軽いネットサーフィンを終え、仕事を始めるためにPCデスクの前に座り、電源を入れる。最近の作曲はパソコン上で全てやることが出来るので便利な世の中になったなあと常に感慨深く思える。作曲をするために必要なCubaseを立ち上げて、今日も灰色の画面にトラックを挿入していき、MIDIデータを打ち込む。
バチン。
大きな音と共に、家中の電気が消えてしまった。これから仕事を始めようと思っていた矢先、気分が萎えるような事が起きてしまって完全にやる気を失ってしまった。
「今日はいいや」
そうぼそっと呟き、タバコに火をつける。生活の一部になってしまったこの雨音も、後1年でおさらばか。10年以上住んできたこの街が水の中に沈んでしまうということに突然悲しさを覚えた。通っていた小学校、部活動をしている生徒の敵だった地獄坂、よく駄菓子を買いに端金を持って押しかけていた商店街、母親と一緒に散歩をした遊歩道、好きも嫌いも全てが水に溶けてなくなってしまうということが現実になろうとしていた。
『ねえ、明日さ、デートしようよ。』
気づけば僕はスマートフォンに手を伸ばし、指を滑らせて雫にメールを送っていた。暫く待って携帯がブルッと震える。
『良いよ。ちょうど土曜だし。なんだか改まってデートだなんて、どうかしたの?』
さすが雫、そういうところには敏感だ。長年連れ添ってきた実感がこんな時に湧いてくる。この街にも、雫にも、消えてほしくないように思えた。
『水に沈む前に、見納めしたいと思ってさ。』
『なんだか、ドラマみたいだね。』
雫とのメールも終え、ベッドに横たわる。ざあざあと降り続く雨を子守唄代わりに、意識が遠くなっていくのを感じた。
今日も、雨は降り続けている。
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