恋は乙女の……

 兄たちと柚希は登校し、外務省の職員で毎日忙しい父はすでに出勤していたので、柊子は母と二人でゆっくり朝食を食べて家を出た。


 麻布氷川神社の近くのそれなりに大きな和洋折衷の文化住宅に住んでいる柊子は、そんなに急いで登校しなくてもいい。柊子が通っているメイデン友愛女学校は麻布の鳥居坂にあり、歩いて十分程度で着く近さなのだ。


「御機嫌よう、柊子さん。今日も寒いわね」


 江戸時代から幽霊が出るという噂のある暗闇坂まで来ると、登校中の女学生たちとたくさん会い、柊子は四年生のいずみ牡丹ぼたんに声をかけられた。


「牡丹さん……。御機嫌よう」


「あら、元気が無いわね。もしかして、千鳥さんにプレゼントするマフラーが間に合いそうにないの? 何なら、私が手伝ってあげましょうか」


「マフラーは何とか間に合いそうなのですが……」


 柊子はうつむき、そう呟く。


 一方、下級生たちの憧れの的である牡丹が柊子と親しげにお喋りしているのを目撃した女学生たちは羨ましそうに柊子を見つめ、


「泉さんと風花さんって、やっぱりエスなのかしら? いいなぁ、風花さんは。泉さんみたいにすこシャンすこぶる美人な先輩に可愛がってもらえて」


 と、ひそひそ噂し合っていた。


 エスとは女学生の少女同士が姉妹のような強い絆で結ばれてお互いを助け合う関係のことを言い、メイデン友愛女学校にも姉妹の絆を結んでいる生徒たちはたくさんいた。

 普通、上級生が可愛い後輩に目をつけて、「私の妹になってくれないかしら」と手紙を送り、後輩からの返事の手紙を受け取ったら正式にエスの関係になる。もちろん、逆に後輩から告白する場合もあった。


 しかし、女学校の噂の的となっている牡丹と柊子は親しい間柄ではあるが、お互いに「姉妹になろう」という約束などは特にしていなかったのである。


 柊子の「お姉様」は、一年前までメイデン友愛女学校に在籍していた従姉いとこの鹿野撫子だった。

 牡丹は撫子の同級生で、女学校入学以来の親友である。撫子を介して柊子と出会い、以前は顔見知り程度の間柄だった。

 そんな柊子と牡丹が今のように親密な関係になったのは、撫子が昨年のクリスマスの夜に失踪してからのことである。


 柚希の許嫁だった撫子は、柚希の同級生で親友だった弓月ゆづき萩介しゅうすけという学生と恋愛関係に陥り、駆け落ちしてしまったのだ。以後、二人の行方は不明のままである。


 大切なお姉様を失った柊子。

 無二の親友を失った牡丹。

 傷ついた二人は、互いを慰め合い、いつの間にか「あの二人ってエス?」と噂されるほど親しくなっていたのである。


「……千鳥さんと喧嘩でもしたの?」


 牡丹は、浮かない顔をしている柊子を心配し、そうたずねた。


「いいえ。…………ただ、私が本当に柚兄様の許嫁になってよかったのかしらと思ってしまって。私は撫子姉様のように美人でもお淑やかでもないですし、女学校の二年生にもなってまだ子供っぽいところがあるから……。そんな私だから柚兄様にいつまで経っても子供扱いされるのではと……そう考えてしまうんです」


「ダメよ、弱気になっちゃ。マフラー、渡さないの?」


「そ、それは……」


「前にも言ったじゃない。自分の気持ちに素直にならなきゃ、前には踏み出せないわ」


「牡丹さん……」


 親族一同が相談して柚希の新たな許嫁となった時、まだ十三歳だった柊子は慕っていた柚兄様の婚約者になれた喜びよりも、今まで兄妹のような間柄だった柚兄様とどう接していいのか分からなくなってとても悩んだ。諦めていた柚兄様の将来のお嫁さんになるという夢が叶い、その代わりに愛していた撫子姉様を失い、自分はどう振る舞えばいいのか分からなかった。

 牡丹は、そんな柊子の相談に乗ってくれて、自分の気持ちに素直になるべきだと励ましてくれたのである。



「自由恋愛なんて小説の中だけ。恋愛は罪悪、不良のすることだと大人は言う。結婚は男女の愛よりも家同士の利害がいまだに優先される。もしも自分の想いを貫こうとするのなら、撫子のように家族や友人、その他全てを捨てて駆け落ちするしかない……。

 でも、柊子さん。あなたは違うじゃない。好いている殿方と結婚できるのよ。それはとても幸せなことだと私は思うわ。

 だから、せっかくつかんだ幸福を逃がさないように、もっと前向きに考えなきゃ。自分の気持ちに素直にならなかったら、後悔するわよ」



 そんな牡丹の励ましに柊子は勇気づけられて、クリスマスの夜に手作りマフラーを柚希に贈ろうと決心したのだ。

 しかし、柚希と会って子供扱いされるたびになけなしの勇気はどんどんしぼんでいき、私はどうして撫子姉様のようになれないのだろうとまた弱気になっていた。


「ねえ、柊子さん。これは私の憶測なのだけれど、撫子と千鳥さんは婚約者として上手くいっていなかったのではないかしら。そんな時に千鳥さんの学友の弓月さんと出会い、撫子は本当の恋に目覚めた。……私はそう思うの。

 だから、あなたが『撫子』になったとしても、千鳥さんとあなたが仲睦まじい婚約者になれるとは考えられないわ。無理して心を飾っても真に心が通じ合うはずがないもの。

 クリスマスの夜は変に大人ぶらず、いつもの柊子さんのまま想いをぶつけてみなさい。ありのままの風花柊子を愛してもらったほうが、思い出に残る聖夜になると思うわよ」


 諭すようにそう語る牡丹の横顔は、なぜかとても辛そうで、何かを思いつめているように見えた。

 いつもなら凛としていて頼もしい先輩の牡丹。そんな彼女が、後輩を励ます力強い言葉を吐きながら、今にも泣き出しそうな顔をしている。


(様子がおかしいわ……)


 そう不安に思い、牡丹を見つめていた柊子は、彼女の黒々とした瞳が濡れていることに気づいた。柊子は慌ててハンケチを牡丹の前に差し出す。


「……何? どうしたの?」


 牡丹は自分が泣いていることに気づいていないのか、それとも涙を堪えられていると思っているのか、怪訝そうな顔をして柊子を見つめた。


 柊子は、無言で牡丹の瑠璃のごとき涙の粒を拭う。そこで初めて牡丹は「あっ……」と声を漏らして気づき、顔を赤らめた。勝ち気な彼女にしては珍しい反応である。


「牡丹さん。何かあったのですか? 私の相談ばかり聞いていないで、たまには牡丹さんの悩み事を聞かせてください。私なんかでは何も力になれないかも知れませんが、話したら少しは気持ちが楽になると思います」


「……悩み事。いいえ、悩み事ではないのよ。もう決まってしまったことで、逃げられない運命だし」


「運命……?」


「私ね、春に婚約していた方と結婚するの。女学校に通うのは来年の三月までなのよ。……ずっと黙っていてごめんなさい」


「え……。あと一年と少し通ったら卒業なのに、ですか!? 嫁ぎ先もあと一年ぐらい待っていてくれてもいいのに……」


「私が嫁ぐ貿易会社の若社長は女学校の卒業まで待つと仰ってくださっているけれど、私の父が急いでいるのよ。……恥ずかしい話だけれど、父の会社の経営が苦しくってね。私を早く大会社の社長に嫁がせて、私の夫となる若社長からの金銭的支援を受けたいと考えているみたいなの」


「そんな……ひどい……」


「あなたたち二年生はまだ結婚できない年齢だからそう考えるかも知れないけれど、三年生になって十五歳の誕生日を迎えたら学校を辞めていく生徒がきっと増えるわ。結婚は、結婚する相手も嫁ぐ時期も全部、両家の親同士で決めてしまうから、親の都合で早々に嫁がされる子なんてよくいるのよ」


 柊子も、学校を退学して結婚する上級生の噂はしばしば耳にはしていたが、親しくしている牡丹が女学校を辞めるとは想像もしていなかった。

 近代化だの西洋化だのと言われていても、子供の人生は大人たちが決めてしまうのが普通の世の中だった。


 柊子は、まだいい。

 婚約者の柚希はまだ学生で独り立ちするのはずっと先のことだから、柊子は女学校を五年間きっちり通って勉学に勤しむことができるだろう。

 そして、何よりも、柊子は幼い頃から慕っていた人と結婚できる。見ず知らずの男性の元へ嫁がされるわけではない。


 許嫁に子供扱いされるのが嫌だなどと小さなことで悩んでいる柊子は、牡丹からしてみたらそれこそ子供っぽいことでうじうじしているように見えるのではないだろうか。恵まれているくせして、なんて我がままな娘なのだと……。


「牡丹さん。ごめんなさい、私……」


 恥じ入る思いでうつむいた柊子は掠れた声でそう呟いた。


「何を謝っているの? 柊子さん」


「だ、だって、私……。牡丹さんが私なんかよりもずっと大変な思いをなさっていたのに、小さな悩み事をグチグチと牡丹さんに毎日聞かせてしまったから……」


「小さな悩み事? 私はそんなこと一度たりとも考えたこと無いわよ。だって……」


 そう言って間を置くと、牡丹は柊子の手をそっと握った。


「恋は、乙女の一大事じゃないの」


 切実なまでに思いのこもった声で、牡丹は言った。


 柊子はハッとなって顔を上げ、牡丹と見つめ合う。牡丹の真剣な眼差しを見て、それ以上の説明をされなくても彼女が何を言いたいのかが分かった。


 そうだ。恋は女の子にとって命を賭けるのに値する大事件なのだ。

 自由な恋愛が許されず、恋を経験しないまま人妻になるのが女のありふれた人生。

 でも、女学生たちは小説などで愛の素晴らしさを知ってしまっている。結婚をする前に一度は恋というものをしてみたいと誰だって憧れる。

 想い人ができたとしても、大人たちによって「恋愛は罪悪だ」と断罪されてしまう危険性があった。柚希の親友・萩介との密会が発覚して両親に折檻された撫子がそうだ。親に暴力を振るわれた翌日、撫子は萩介と共にクリスマスの夜の闇に消えた。

 撫子は失踪することで柚希や柊子、牡丹など多くの人を傷つけてしまったが、恋に落ちてしまった彼女はああするしか道が無かったのだろう。撫子の行動を善悪の物差しで断罪することはできないと柊子は思う。それほどまでに、大正の世を生きる少女たちにとって恋とは稀有で得難いものなのだ。


「私はね、撫子や柊子さんに憧れていたの。私は、家族を捨てでまでして恋を選んだ撫子みたいに一緒に駆け落ちしてくれる殿方もいないし、柊子さんのように幼い頃から一途な想いを抱いていた人と結婚できない……。恋には困難や悩み事がつきものだということは二人を見ていたら分かるけれど、それでもいいなぁって。とても羨ましく思ってしまうのよ。……恋をしている今のあなた、とっても可愛いもの。私もそんな可愛い女の子になってみたかったわ」


「牡丹さん……」


「だから……恋を知らずに嫁ぐ私の分まで、あなたのかけがえのない恋心を大切にして欲しい。ちゃんと千鳥さんに想いを告げて、幸せになってもらいたいの」


 牡丹の想いを知った柊子が、今度は涙する番だった。

 牡丹の言葉のお陰で、自分の胸の内にしまっている恋心の重みを知り、「恥ずかしいから自分から言い出せない」などとうじうじしていたらかけがえのない恋を台無しにしてしまうかも知れないと気づくことができた。


(恋ができるなんて、それだけでも奇跡なんだわ。私は柚兄様への恋心を叶えなきゃ。いつか結婚すると決まっていても、愛していますと想いを告げなければ……)


 そう決心した柊子は、牡丹の手を強く握り返し、


「分かりました。私、柚兄様にちゃんとマフラーを渡します。そして、柚兄様に振り向いてもらえるようにがんばってみます」


 と、誓うのだった。


 牡丹はニコリと微笑んで頷く。


「その意気よ、柊子さん。……私も、嫁ぎ先の若社長と仲良くなれるようにがんばってみるわ。若社長は温厚な人だと聞いているから、たぶん私のことを大切にしてくださると思うから……」


「結婚後の恋、ですね。そういう恋愛も有ると思います。きっと、牡丹さんならできると信じています」


「……そっか。結婚後の恋愛という考え方もあっていいのよね。そうよね、親の命令による政略結婚だからといって泣き寝入りしていたら人生がもったいないもの。……ありがとう、励ましてくれて」


「そ、そんな。励ましてもらっているのは、いつも私のほうです。……お互いにがんばりましょう」


 柊子と牡丹は小指を絡め、そう誓い合った。


 もう弱気にならないわ。

 柊子は、牡丹と指切りをしながら、自分にそう言い聞かせるのであった。

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