雨森峠の犬

京正載

第1話 野犬シロ

「お父さん…………、シロって誰?」

墓石にカタカナで刻まれた名を読んで、幼い息子の大介は私に聞いた。

「お父さんの大事な…………そう、命の恩人の名前さ」

私は『シロ』が大好物だったドッグフードの缶詰のフタを開けて、小さな墓石の前に供えた。

ここは小さな動物霊園。

シロとの思い出の地、雨森峠近くに数年前に造られた、動物達の墓地である。

私の命の恩人であり、最愛の家族の一員でもあったシロは今、ここの冷たい土の中で静かに眠っている。

もう、あれから十三年にもなるのか?

小さなシロの墓石を眺めて、私は遠い昔を思い出し、ため息を一つついた。


 私の名は飯田正勝、二十五歳。

M市内に住む、ごく平凡なサラリーマンだ。

そんな私がシロと出会ったのは、私がまだ小学4年生のときだった。

秋の遠足で、A県の雨森自然公園に行ったときのことである。

早々と弁当を食べ終えた私は、食後のわずかな自由時間に、公園に添って広がる森の中へ、面白半分で入り込んでしまったのが、そもそもの始まりだ。

ちょっとした冒険心もあってか、偶然に見つけた獣道を進むうち、私は何とも情けないことに、この公園の中で迷子になってしまったのである。

公園とは言っても、そこそこの広さのある自然公園だ。

しかも、高くのびた木々に視界を遮られて、西も東も分からない。

仮に分かったとしても、クラスのみんながいる公園の集合場所の方角が分からないのでは、

まったく意味のないことではあるが。

「こ、困ったな………どうしよう………?」

私は森の中で途方に暮れながら、自らの愚かな冒険心を心底悔やんだ。

小学校高学年にもなって迷子だなんて、我ながら何とも情けないではないか。

これでは、たとえみんなの所に戻れても、恥ずかしくて、森の中の探検談を語ることだってできはしない。

そんなことを考えながら歩いていると、

「うあっ!」

私は地面から飛びだしていた木の根につまづいて、足首を捻挫してしまったのである。

ただでさえ、道に迷って困っているというのに、何でこんなときにかぎって、怪我なんてしてしまったのだろうか?

おかげでズボンも靴もドロドロだ。

湿気を含んだ森の土のおかげで、少しはひんやりとして気持ちいいが、服をこんなに汚して帰ったりしたら、またも母にこっぴどく叱られてしまうことだろう。

それだけは御免だと、私は足の痛みに顔を歪めながら、やっとの思いでその場から立ち上がった。

今の状態でも歩くことは出来なくもないが、クラスのみんなの場所まで帰るには、かなり困難を要することだろう。

「マジで困った。誰か来ないかな?」

誰に言うでもなく、私は痛む足を押さえながら、森の中を見渡した。

すると、

   ガサガサ・・・・

突如、風もないのに目の前の茂みが揺れた。

そこに…………何者かがいる。

「ひっ! だ、誰…………?」

声を震わせ、私は悲鳴じみた声で言った。

まさか熊が出没するような山でもないのに、こういう状況だと、無意識に最悪の状況を想像してしまうものである。

そのときの私は、ただ、眼前の出来事に目を背けることもできず、恐る恐るその茂みを見つめることしかできなかった。

「だ、誰かいるの?」

すると、そう問いかける私に答えるように、その茂みから現れたのは、ずいぶんと薄汚れた、1匹の灰色の野良犬であった。

元々は白かったのだろうが、こんな野山での生活のために、泥や埃ですっかり色あせてしまっているようであった。

見たところ中型犬の雑種で、歳はたぶん4~5歳くらいだろうか?

「な、なんだ……………犬か。驚かさないでくれよ~っ」

緊張がとけて、ホッと一安心する私を、その犬は何故か小首を傾げて、『クゥ~ン』と、何かを求めるような声で鳴いた。

そして、何故かこちらを少しも警戒する様子もなく、トコトコと私の傍らに歩み寄ってきたのである。

「え? な、なに? エサなんて持ってきてないよ」

慌てる私にその犬は、何故か嬉しそうに尻尾を振っていた。

何が何だか分からずにいると、今度は私の足の怪我を気遣うように、捻挫した患部の臭いをクンクン嗅いで、そこをペロペロと嘗めだした。

「な、なんだおまえ。オレのことを心配してくれてるのか?」

「クゥ~ン」

灰色の犬は、私を見上げて鳴いた。

「おまえ、人懐っこいなぁ」

私は嬉しくなって、犬の頭をなでてやった。

そしてよく見てみると、毛で隠れていたが、ちゃんと首輪もしているではないか。

道理で人間を恐れないわけだ。

こいつはどこかの飼い犬だったんだ。

それにしても、こいつの飼い主は何て酷いヤツなんだろうか?

何故ならその首輪は、この犬にはあまりに小さく、首を締めつけていたのである。

そのために、首の周りの肉が食い込んでいて、最初見たときには気付かなかったほどだ。

犬の大きさに合わせて、もっと緩めにしてやればいいものを?

「酷いなぁ~。これでよく呼吸できるな、おまえ?」

私はこの犬が可哀想になり、首輪を緩めてやることにした。

だが、その首輪は思いの外きつく絞まっていて、なかなか留め金に指が届かなかった。

無理に外そうとすれば、その分、余計にこの犬の首を締めつけかねない。

しかし、このままにしておくわけにもいかないと思い、

「ゴメン。ちょっとの間だけ、我慢してくれよ」

私はゆっくりと、留め金に指をかけた。

犬は苦しさに暴れるかとも思ったが、私の言葉が通じたのか、首輪を外すまでの間、暴れず、じっとしていてくれたのである。

おかげで、この忌々しい首輪を、何とか外してやることができたのだった。

「やった。取れたぞ」

「ワンワンワンッ!!」

やはり今まで苦しかったのだろう、その犬は尻尾がちぎれそうになるくらいブンブン振って、私の目の前をクルクルと嬉しそうに駆け回った。

「やっぱり苦しかったんだな。でも、それにしても、いったい誰がこんな酷いことをしたんだろう?」

私は憤慨し、外したその首輪を調べた。

もしかしたら、この残酷な飼い主の名前が記されているかもしれない。

だが、あいにくそれらしいモノは見当たらず、そのかわり、この犬の名前が記された、金属プレートは装着されていた。

この犬の名前は………、

「へぇ、おまえ『シロ』っていうのか?」

「ワンッ!」

シロは私の目の前でお座りをして、元気に返事をした。

「そっか。白い犬だからシロか。何だか単純な名付け親だな。まあ、今は灰色だけど」

何だか嬉しくなった私は、このシロという野良犬に、何故か前にも会ったことがあるよううな気がしたが、そのときにはそれがいつのことだったのか分からなかった。

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