拝啓、いつかの君へ

光永桜

序章 My happy ending

―ああ、ボクの可愛いロリータ。ずっとこのままで、この姿のままで傍にいておくれ…


さあ、日課のお風呂の時間だよ。一緒に入って、躰を隅々まで綺麗に洗おうね。絹のように滑らかな肌も、柔らかくてふわふわな髪も丁寧に、優しく洗ってあげるからね。…うん、綺麗になったね。


じゃあ、ご飯の時間だ。ボクとキミの食べる量は違うもんね。キミは“まだ”小さな躰だからこれだけの量で事足りるよね。大きくなってもらっては困るんだ。このままで、この姿のままでいてほしいんだ。


だって、キミはボクにとってのお人形さんなんだからね。言葉なんて発しない、意見することなんてしてはいけない…御法度だよ。万が一そんなことをしたら、ボクはキミを…そんなに怯えた目をしないで。ボクはキミを傷付けたりしない。優しく優しく、壊れ物を扱うようにキミとただ寄り添っていたいだけなんだ、ボクだけの可愛いロリータ…


…どうしてボクに逆らうの?あれだけ優しくしてあげたじゃないか。キミを傷付けたことなんかあったかい?それならボクが謝るよ。でもね、違うでしょう?どうして言葉を発して、どうして意見するの?わからないならお仕置きしないといけないのかな…本当は嫌なんだけどな…


どうして…どうして…目を覚まさないんだい?キミが悪いんだよ?ボクに逆らうから。そんなに怖くて、触れられたくなくて、ただたぬき寝入りをしているだけかい?揺すっても起きないなんて…あああ、ボクはキミを壊してしまったんだね。傍にいたくてたまらない存在を、ボクが壊してしまったんだね…


じゃあ“ボクの躰の一部”に包括してしまえばいいんだね。なら、こうするしかないな…ほらほら、やっとキミとボクは一緒になれたよ。これでずっと一緒にいられるね…よかったね…



「うっ…何ですかこの独特な臭いは…っ痛っ…」


「うっせえ、お前だってマスくらいかくだろっ…“あいつら”にはそれくらいしか娯楽がねぇんだ…」


幾重にも造れた扉の向こうの閉ざされたセカイは、確かに…と男なら誰でも“致す”コトしか娯楽がないなんて。このセカイはいかに狭められ、自由を奪われて…妄想夢想に耽って現実から逃避するか、現実をまざまざと思い知らされて、発狂するかの二択しかないのだろう。想像力の乏しい俺でも想像がついてしまう…


「はあ…」


「まあ、この現状になったのは自業自得だが…」


先輩の言葉には納得せざるをえない。それなりの理由がなければ、こんなセカイに誰も望んで入りたがらない。俺も右に同じだ。


…おもむろに懐から煙草を取り出し、手馴れたように火をつける先輩。ふう…と口から紫煙を吐き出す。前に勧められて試してみた時、肺まで一気に吸い込んでむせたっけな…。


「先輩、煙草はマズイですって」


「バレなきゃ大丈夫だ。お前もどうだ?」


「いやいや…そういう問題じゃないでしょう…僕までとばっちりを食らってどやされるのは、嫌ですよ」


ふう…とまた吸い込み、吐き出す。しかも、俺の顔に向かって。


「…ゲホっ…いきなり何するんですか?服にだって匂いが…」


「これで煙を吸ったお前も“共犯”だな。匂いも付いちまった」


ククッと喉を鳴らして笑う。先輩の癖だ。


「困った人だ…」


「相変わらず変わんねえな、代わり映えしやしねえ」


「あ、スルーした…」


「何か言ったか?」


「いえ、何も…」


「まあ、オカンみたいに憎まれ口を叩かれるのも悪くはないがな。しかし、殺風景だなあ…男臭えし…何ていうか…相変わらず慣れねえな、この雰囲気」


「先輩でもまだ慣れないんですか?」


「独特すぎてな。頭の切れる俺様でも慣れない」


…何言ってんだ、こいつという顔をする。しかも、俺様とか言ってるし。やっぱり頭のいい人の思考はわからない、発言も意味不明だし。


「お前もか」


「あー…やっぱ慣れないですね、この非日常的すぎる雰囲気に。飲み込まれそうで、気分が悪くなる」


紫煙の香りとむせ返るような独特の匂いが混ざり合った空間で、軽い吐き気を催す。何度ここに来ても慣れない。この気分の悪さの元凶は、先輩の所為だと責任を押し付けることも出来ないし。…本当に気分が悪くなってきた。


「まあ“アイツ”に会って話を聴くのが今日の仕事だからな。それをせずに帰ったら、職務怠慢になっちまう…おい、顔色悪いけど大丈夫か?吐くなら便所で吐けよ…」


「大丈夫れす…我慢できます…」


確かに、先輩の言う通りで“アイツ”に会うまでは帰れない。それが今日の仕事だから。吐きたい気持ちを抑えながら頷く。誰が見ても明らかに顔色が悪いことは、承知の上だけど…。


「ゲロ袋忘れちまったからな。頑張って我慢しろよ」


「先輩…僕のこと、いじめてません?」


「いじめてねえよ、可愛がってるの間違いだろ」


「絶対僕の時だけ忘れてるでしょ、その袋」


「先週俺が使ったから、ねえんだよ。いつもは持ってるんだぜ」


「あ…吐いちゃったんですね」


「姉ちゃんの店行って、調子に乗って飲み過ぎちまったんだよ。あそこの姉ちゃん、酒強くてさぁ…勧められるがままにバンバン飲んじまって…持ち帰ったんだけど、どんなプレイしたか記憶にない」


別に先輩が吐いた理由なんてどうでもいいし、どんなプレイをしたかなんて特には興味がないし。一体なんなんだ、この人は…何をひけらかしたいんだ。


「はあ…」


力なく相槌を打つと、先輩の口角が上がったのを見逃さなかった。


「どーせ、お前童貞だろ?興味なさそうな顔して、ムッツリな癖に」


あらぬ疑いだな。アラサーの男が童貞なんて、まあおかしいというか。


「違いますよ」


即座に否定する。


「いい店紹介してやるぞ、セカンド童貞くん」


核心を突く発言。背中が氷を入れられたようにヒヤリとする。…本当にこの人の洞察力や観察力には尊敬の意・敬意を示したいが、そんなところで発揮されても正直困りものだ。


「うっ…」


確かにここ何年かは恋人がいたこともないから、そういった行為からは遠ざかっていたのは事実だ。さすがは先輩、見抜かれてしまった。


「図星かよ…巧い姉ちゃん紹介してやるぞ。すんげえ気持ちよくてなあ…ヘビロテしちゃうくらいの…」


半笑いでそう言って、次の煙草を口に咥え火をつけると気持ちよさそうに機嫌よくふかす。赤マルボロの匂い。


「先輩が指名したことある人にシテもらうなんて嫌ですよ。てか、先輩と穴兄弟とか嫌ですよ、僕は」


「言うねえ…ま、そろそろ仕事しねえとどやされちまうから、仕事しようぜ」


「それは僕の台詞です」


咥えていた煙草を床に捨て、踏みつけて火を消す。律儀に拾い上げ、自分の携帯灰皿に仕舞う。


「ふう…お前を弄るのは楽しいな。さて…仕切り直すぞ」


「やっぱり弄ってたんですか」


先程までのおちゃらけた雰囲気とは裏腹に、真剣な眼差しをした眼光の鋭い『専門家』の表情に切り替わる。俺の突っ込みすら無視してしまうくらいの、神妙な顔つきに。

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