静かな森の奥深く
マフユフミ
第1話
そこは深い森のようだった。
しんと静まり返った空気の中、さらさらと木の葉が揺れる音だけが響く。
たっぷりの湿り気を帯びたコケがキラキラ揺れる。
冷たい風にまろやかさを感じるのは、森の外で雨が降っているからだろう。
しかし木々に覆われたここに水滴が届くことはない。
ただ流れる空気の中に、ほんのりと湿度を感じる。
肌を刺すような寒さもなく、じっとり体力を奪う熱もない。
しかしそれは、単に自分の感覚が鈍ってしまっているだけなのかもしれない。
鈍った肌感覚を補うように、視覚と聴覚は冴えていく。
目を覆いつくすような深緑が、それぞれに違う濃淡を持っていることを痛感する。
森には実に様々な顔があるようだ。
静かに、そして一定のペースで少年は歩く。
ぬかるみに足を取られぬよう、落ち葉に滑らないよう、ゆっくり、でも確実に。
森の奥のほうへと歩いていく。
生命のあるものの気配は一切ない。
リスなどの小動物からイノシシやクマなどの凶暴なものまですべてひっくるめて、
ここでは何一つ生きてはいないようだった。
この空間に自分ひとり。
そんな事実に今さらながら気が付いて、静かに、そして深く息をついた。
そういえば、と彼は思う。
自分はなぜここへ来たのか。
ここはどこなのか。
そして、どこへ行こうとしているのか。
いつから、どれくらい歩いているのか、まったくわからない。
それでもなんとなく足を止めるわけにはいかない。
下を向いた目線の先に、泥でぐちゃぐちゃになったスニーカー。
ズボンの裾まで泥だらけで、乾いてからからになった土の上から新しい泥が跳ねている。
それだけでも、もう随分歩いているのだろうことがわかる。
時間が経っていることに気づいてしまうと、無自覚だった体が疲れを感じ始める。
ほんの少しペースを落とし、そしてまた歩く。
今の自分には、歩くしかない。そう肌で感じている。
ふいにぬるい風が吹き込んできた。
風の先には、生い茂る木々の中にぽっかりと開いた穴。
穴の先は暗くて、どれくらい広いのか、その先に何があるのか、まったく見当もつかない。
それでも風に誘われるように、足はその穴へと向かった。
のぞきこんだその穴の奥からは、柔らかい光がぼんやり浮かんでいる。
ろうそくのように輪郭がぼやけた光はあたたかく、いままで忘れていたはずの生々しい感情を思い出す。
ナツカシイ、アタタカイ、サミシイ、フレタイ—
心に渦巻く言葉たちをぐっと飲み込んで、
声があふれないようにぎゅっと目を閉じた。
今はここにいる自分に、そんな感情は必要ない。
深く息をつき、ゆっくり目を開ける。
もうそこには光も、光を放っていた穴さえもなく。
ただ木々がさらさら揺れているだけだった。
だから歩く。さっきまでと同じように、歩く。
はきなれた、それでもじっとり湿ってしまったスニーカーで。
コケのじゅうたんを、踏みつけてしまうのを心の中で謝りながら。
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