第39話 ニヤリな実力
「オイラハ、クマノカックン……ミンナヨロシクネ!」
宙に浮いた熊は唐突に、そう言葉を発した。
手足を激しくバタつかせるも、ただの一度も
そして、ただの一度も口を動かさずに甲高い声でそう名を告げた。
——
俺は今、教会塔の牢獄が広がるフロアの奥で、左腕の長い男と対峙していた。
思わず飲み込むツバの音が、辺りを静寂が包んでいることを知らせていた。
途方も無い無言の緊張に、精神を深く削られていくような感覚。
だがそんな中でも、俺の方から動くことは出来ないでいる状況に苛立ちを覚える。
相手は対壁まで届くほどの射程距離を誇っているのに対して、
俺の方はいくらチェルノの白大剣が高射程だと言えど、所詮は近接武器。
二歩ほど踏み込まないと届きそうもないのだ。
まあいわゆる中距離戦って奴だ。
引く時に回避行動が取れないからな。
まさかこいつ……今の状況を想定して対峙してるとか……嘘だろ?
こっち側の能力は何故か知らんが相手に粗方割れてて、その上敵の能力は未知数。
なんとか壁を背に預け立ち上がってはみたものの、十分に回復しているとは言いがたい今の現状。
クラウスは思わず考えうる、その負の思考に行き着くとまた生唾を飲み込む。
その行為がまた新たな情報を彼に知らせていた。
形勢不利という名の精神への負荷が上乗せされるということを。
額に汗を伝わせるクラウスのその様を、対壁から伺っていた男。
ニヤリと名乗ったその男は、クラウスのその有様を見て気を良くしたのか表情をほころばせると……
——パン!
何かを思い出したかのように手を叩いた。
長い沈黙が途切れた瞬間だった。
俺は思わず身を硬直させ、全身の毛穴から汗を噴き出させていた。
ニヤリは思い立ったように突然、自身の懐を
その取り出した物……その物とは……
——熊のぬいぐるみ
ニヤリと名乗った腕の長い男は、そのぬいぐるみの背に右手を差し込むと、
「ヤァヤァ! オイラハ、クマノカックン……ミンナヨロシクネ!」
指先を器用に動かし、手に被せた熊のぬいぐるみに名を名乗らせた。
いや名乗らせたっていうより……
空いた口が塞がらないとは、まさにこの事だ。
俺の呆気にとられた表情を見ると、ニヤリは眉を寄せ訝しむ。
しばらくすると熊はまた話しを始めた。
「ミンナ自己紹介ジテルミタイダカラ、オイラモ名乗ッタッテイウノニ……ツレナイネェ」
そう熊が話を終えると、ニヤリはやれやれといった表情を作り肩をすくめた。
大体自己紹介なんぞしていない。
ただ俺の情報が相手に漏れているってだけだ。
第一ぬいぐるみの名前を聞いてどうしろってんだ?
いやいやそれよりも……なんだその下手くそな腹話術は!
現状に微塵も理解の及ばない俺。
そんな俺の怪訝な表情を見て、ニヤリは口を更に吊り上がらせる。
「ゲーヒィ! 大したことじゃないよ? うちの自己紹介の続きをぉ、この『クマノ』君でやろうかと思ってね!」
ニヤリはそう言うと、右手に被せたぬいぐるみを激しく揺らしていた。
てかクマノって名字かよ。
「うちだけぇ、クラウスの秘密知ってたら不公平でしょ? だからうちの秘密もぉ……教えて・あ・げ・る!」
ニヤリはそう言うと腕を広げ天を仰ぎ、全力で気持ちの悪い笑い声を発し始めた。
なんなんだこいつは……笑い方も気持ち悪いが話し方まで気持ち悪くなってんぞ?
何が一体どうなって……
身の毛のよだつほどの、そのあまりにも異様な雰囲気にクラウスは思わず後ずさる。
壁際までわずか程しかない、その空間をめいいっぱい使って後ずさった。
——バシャ!
踏み込んだその足の先から、ありえないはずの音が聞こえてきた。
水の音だ。
反射的に足元を見やると……くるぶしまで足が水に浸かっていた。
俺は辺りを必死に見回した。
この部屋だけじゃなくフロア全体だ……いつの間に?
まさかこの階層全て水没してんのか?
『クラウス……』
チェルノの俺を心配する声が聞こえて来る。
こいつが尻込みするとは思えない。
つまり……俺が相当狼狽してるってことか。
「なんだ? ……いや何、部屋の外を見たら格子が一つも無いなと思ってな」
俺は勤めて、そうチェルノに平静を装って見せた。
そうすることで冷静さを取り戻す事もある……はず。
『全部食べた』
あ、そうですか。
こいつの豪快さを改めて実感させられた。
まあ……それに比べりゃくるぶしまで水溜めるなんて大したことじゃあないな。
俺はそんなことを考えてると、何故だかゆっくりと冷静さを取り戻し始めていた。
目の前を見ると、いつの間にか高笑いを終えているニヤリ。
背を丸め、そしてゆっくりと仰け反ると、男は大きく息を吸い深呼吸を始めた。
「あ、そうそう……能力の説明やったねぇ……ゲヒッ!」
未だ笑いが堪えられないのか思わず吹き出してしまいそうな口を、ぬいぐるみの被さった手で塞ぐニヤリ。
そんなに相手の狼狽っぷりが可笑しいのかと、俺は腕を組み不機嫌な態度をとって見せた。
ごめんごめんと、男は突き出したクマノ君を縦に振って謝らせる。
「実ハ……オイラノ存在ガニヤリ様ノ能力ノヒントナンダーヨ!」
何時までふざけるつもりなんだと思っていた矢先に、唐突に下手くそな腹話術を再開し始めるニヤリ。
え? 何って? 聞いてなかった。
「ワカンナイ? ……仕方ナイナ〜……ジャア、ココデ問題デス!」
「クマノ君はぁ〜、どうやって動いてるんでしょう!」
「間違エタラ〜」
「罰ゲーム決定ね!」
今度はニヤリ自身も話出してくる。
というか最初からニヤリ自身なんだけど。
いやいやそれ以前に……
「どうやっても何も、お前がぬいぐるみの背中から手を突っ込んで動かしてんだろうが」
そう言って俺は速攻で答えて見せた。
というかこれって問題にもなってないぞ?
何がしたいのか分からないといった俺。
そんな俺とは対照的にニヤリの表情は……果てなく口がつり上がり……
「ブッブーー。残念でしたぁ!」
なっ……んだと?
手を入れて動かしてるわけじゃ無い?
じゃあ一体……どうやって……
——ズァァァァァぁあ……
予想外の答えに思わずうろたえていると、急激に視界一杯に広がる水面がざわつき始めた。
水面が小刻みに波打っているというか……
『クラウス! ……くるよ!』
いや来るって言ったって、何をどう対処していいのかさっぱりで……
だめだ……もうね、こういう時は直感だ。
そう! 考えるのはチェルノに任せよう!
そう全力で考えることを放棄した俺の耳に、
「正解はぁ〜〜……」
無駄に溜めを作るニヤりの声が届いてきた。
何が可笑しいのか満面の笑みを浮かべながら。
だが俺には関係ない。
そんなことを考える必要など、今の俺には無いのだ。
俺はこれから訪れるであろう辺りの変化に、全身全霊を注ぎ込み対応するだけだから。
辺りに全霊を注ぐ俺の耳に、また男の声が聞こえて来る。
「正解は! ……ケツの穴でしたあああ!!」
ふざけんなあああ!!
馬鹿かお前は! ぬいぐるみにケツの穴なんぞ無いだろうが!
……え? 正解は……ケツ?
クラウスの脳裏によぎる何か。
ドクンと一度だけ心臓が激しく鼓動するのと同時に、足元に広がる水面から一斉に何かが突き出してきた。
どう対処するかは事前に決めていた。
そう……直感に頼る。
クラウスの直感では異常なまでの「警笛」が鳴り響いていたのだ。
——その場を離脱しろと
俺は全力で横方に飛んだ。
突き出す何かはフロア全体に及んでいた。
当然だが俺が横に飛んだぐらいじゃ突き出す何かをかわすことは叶わない。
だがそれでいい。
横なら何の問題もない。
その場で喰らわなければ良かったのだ。
空中で手の平に、顔面に、両肩に、脇腹に、得体の知れない何かが突き刺さる。
ノーダメージ! やっぱり!
バシャンと水面に背中から着地するも、すぐさま立ち上がる。
刺さる何かより背中の方が痛いぐらいだ。
「おおすごいねぇ、良くかわしたねぇクラウス〜」
ニヤリの方を見やると、クマノ君がパフパフと器用に手を叩いていた。
何時までも俺をおちょくりやがって……
いやそれよりも何なんだこれは。
辺りを見回す俺の視界に飛び込んできたもの。
それは想像を絶するほどの異様な光景だった。
何千、いや何万本と表現しても良いほどの……触手だ。
巨大な昆虫の触手のようなものが、フロア全体の水面から所狭しと突き出していたのだ。
思わず身の毛もよだつほどのその異様な光景に、全身に寒気が走り鳥肌が立つ。
ペトッ!っと一本の触手が太ももに当たる。
「ひやあァァぁ!!」
もう一度全身全霊で横っとび。
やべえ、変な声出た!
「そのかわしようだと……もううちの能力は大体解ってもらえてるみたいだねぇ!」
え?
ごめん必死すぎてまた聞いてなかった。
「そう! うちの能力は直結型遠隔操作ぁ! 直接神経の主導権奪うし〜、一度に何千人も従わすことも出来るし〜、抵抗不可の超優れスキルなんやでぇ〜! ……ねえねえすごい?」
「ニヤリ様! ケツカッコイイー!」
ケツ格好良いってなんだよ。
というか……どこに手を入れて操作してんだ! ふざけろ!
『相手の攻撃を一度でも食らうと、強制的に体を乗っ取られるわけか……かなり強いね』
「そんな……強すぎますわそんなの……」
ニヤリの能力を聞き、流石に動揺を隠せないチェルノとエプローシア。
馬鹿なの? お前ら。
能力なんぞどうでもいいんだよ……
問題は……だ。
一瞬の静寂の中、また生唾を飲み込む。
そのゴクッという音色を合図に、一斉に触手がクラウスの両足の根元へと襲い掛かる。
「いやあああああ!!」
また変な声が出てしまう俺。
ちょっと……一回!
まずは一回話し合わないか! ニヤリ君!
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