蛍と白球
神連カズサ
秋
一、
「かっ飛ばせ―ッ!! 蛍―ッ!!!」
割れんばかりのスタンドからの声援に、聞き慣れた声が混じっているのに蛍は目を剥いた。
今日は部活の大会があるから行けないと、そう残念そうに言っていたのは昨日のことではなかったか。
「真?」
バッターサークルから見つけた黒髪の名前を、ぽつりと呟く。
「ホームラン決めろよーッ!!」
「……バカだろ!! お前!!」
「バカじゃないっての!! 失礼な!!」
幼馴染を認識するや否や、蛍はスタンドの近くまで走っていった。
フェンス越しに罵り合いをしながら、蛍は溜息を吐き出す。
「お前、諦め悪いな」
「……何のこと」
「そんなに好きなわけ?」
後ろから監督が次はお前の打席だぞ、と怒鳴っている声が聞こえた気がしたが、今はそれどころではない。手袋越しに触れた、真の手は熱でもあるんじゃないかと思うくらいに熱くて思わず顔を顰める。
「……悪かったな、好きで」
「別に悪いとは言ってないけど」
「いいから戻れよ。私は勝手に応援して、勝手に帰るから」
「部活は」
「勝ったから見に来たんだろ」
よく見れば、道着の中に着るインナーの上からジャージを引っ掛けていた。
走って来たのか、一つに結んだ髪は乱れ、額には大粒の汗が滲んでいる。
頬を伝った汗が、つう、と鎖骨を流れて服の中に吸い込まれていくのを見て、蛍は喉が鳴るのが分かった。
「真」
「何だよ」
「…………試合が終わったら、好きだっていうから」
「は」
「チャリのとこで待っとけ」
木製バットを手に、打席に向かった蛍を、真は黙って見ることしか出来なかった。
――幼馴染と言うには近すぎて、もはや腐れ縁と言った方がしっくりくるような気がする。
母親同士が親友なこともあってか、蛍とはお腹の中にいる頃からの付き合いだ。当然ながら、「初めて」と名の付くものはすべてお互いだったし、あげていない「初めて」を数える方が早い気がするほど、互いに捧げた自覚はある。
ままごとの延長戦のような感情は真の中で膨れ上がり、これが恋なのか、友情なのか、分からない。それくらい、真は蛍のことを想っていた。
「……ばかじゃねえの」
バッターボックスで真剣な表情を浮かべ、ピッチャーの方をじっと見る幼馴染に、思わずその場に脱力する。
つい三カ月ほど前に、野球に集中したいから、付き合えないと言ったあの口で、今度は「好きだ」と言われた。
もう十数年にもなる付き合いなのに、未だに蛍の考えが分からない時がある。
――三カ月前。
それはまだ夏の匂いが残る日のことだった。
いつものように、二人で並んで自転車を押しながら帰路についていた。他愛もない話に笑いながら、時折見せる彼の真剣な表情に心臓が跳ねる。
知れず、ハンドルを握る手に力が籠った。
「……真?」
不意に名前を呼ばれた。
俯きながら歩いていた所為か、いつの間にか蛍との距離が出来ていることに真は気が付いていなかった。数歩先で、不思議そうに自分を見つめる幼馴染に、真はグッと唇を噛みしめる。
「……あのさ、」
(言っちゃだめだ)
言えば、この関係は終わってしまう。
心地の良いぬるま湯のようなそれが終わってしまう。
それでも、いつまでも「幼馴染」のまま彼の傍で居ることが辛かった。
「好きだよ、蛍」
夕暮れが、二人の影を黒く長く伸ばしていく。
生温かい風が肌を撫でていくのに、真は体温が急激に下がるのを感じた。
――言ってしまった。
長年、腹の底にひた隠しにしていたそれをついに吐き出してしまった。
「…………は?」
蛍の低くて少しだけ掠れた声が、いつもより更に低くなった気がする。
びくり、と肩を震わせてそちらを見れば、眉根を寄せて固まる彼が視界に入る。
「本気で言ってんのか」
「……冗談でこんなこと言うか、バカ」
「あー……。マジか……」
くしゃり、と歪んだ彼の表情に、真は溜息を吐き出した。
気まずそうに頭を掻きながら、蛍が「あー」やら「うー」やら声にならない声を上げる。
その様子に、溜息を吐くと真は彼の隣を急ぎ足で通り過ぎようとした。だが、あと一歩というところで腕を掴まれたかと思うと、いやに真剣な顔をした蛍と目が合った。
「……今は、無理だ。野球に専念したい」
「…………何だよ、それ」
「だから、今は無理なんだって」
釈然としない答えだった。
ずるい、とそう思うのに、心の中では、はっきりとした答えを聞かされなくて安堵しているもう一人の自分が居た。
「……私、あんたの隣に居てもいいの?」
「いいよ」
そう言ったきり、蛍は静かになってしまった。
黙ったまま、二人で並んで道を歩く。
何とも言えない空気が自分たちの間を渦巻くのを感じながら、真は笑った。
拳二つ分の距離、それが真と蛍にとって丁度良い距離だった。
――等と悠長なことを思っていた自分をぶっ飛ばしたい。
目の前で眦を見たこともないくらいに和らげた幼馴染に、真は本気で殺意を覚えた。
何が、部活に専念したいだこの野郎と今にも振り下ろさん勢いで握りしめた拳を、先輩の手前だと、理性で必死に抑え込む。
「美乃先輩、俺も一緒してイイっすか?」
デレデレ、と下心満載な顔でそんなことを言うものだから。
思わず足を踏みつけてしまったのは仕方がないと思う。
「て、め!? 何すんだよ!」
「ああ、ごめん。アリが靴の上を這っているのが見えたから」
良かれと思って、とにっこり笑いながらに言えば、蛍の目が忌々し気に細められる。
普段であれば、大事な選手の足だから、と踏ん付けることなどしない。けれども、この時ばかりは違った。
執拗にぐりぐりと足を踏みつければ、その度に蛍が眉根を寄せるが、真は彼が根を上げるまで止めるつもりはない。
「真。あんまり海野君を虐めちゃだめよ」
日本人形のように美しい先輩に咎められて、若干、心が痛んだ気がするが、ふるふると首を横に振る。そんな美乃の言葉に、蛍がまたデレデレと表情をだらしなくさせるものだから。つま先で踏んでいた足を、踵にシフトチェンジしてやった。
「虐めてません。アリに噛まれたら痛いと思って」
「……っ! お前のデカい足に踏まれる方がよっぽど痛いっつの!」
「デ、デカくないし!! 一般的なサイズですー!」
「いいや、デカいね!! 美乃先輩の足見てみろよ! どうして同じスポーツしてんのにそんなに差があんだよ!」
「よ、美乃先輩と比べるな! この人は特別なの! 特殊例!!」
ぎゃいぎゃいと途端に騒がしくなった二人に、美乃は苦笑を零した。
これが噂に聞く夫婦漫才か、とどこか遠目でそんなことを思いながら、部誌を開いて今日の活動内容を書き始める。
「あーもう! 煩えな!! ちょっとは美乃先輩を見習ってお淑やかになれよ!」
「なっ!」
痴話喧嘩に巻き込まないでほしいと心底うんざりしながら、美乃は顔を上げた。すると、真が今にも泣きだしそうな顔で唇を噛みしめているのが、目に飛び込んできた。
部活中、どんなに重い技が入っても決して泣くことのない彼女が、目に薄い涙の膜を張って、鋭い目付きで蛍を睨んでいる。
まだ何か言おうとした蛍に、美乃が待ったをかけた。
「……海野君、少し言い過ぎだわ。真も、先にちょっかいを掛けたのは貴女でしょう?」
「…………すみません」
「……っ」
美乃の言葉に真は喉が締め付けられるような痛みを覚えた。
涙が流れないように、必死で堪えながら、勢い良く頭を下げると急いでその場を後にする。
自分が女らしくないことなんて、自分が一番分かっている。
それを、好きな相手から言われて傷付かない訳がなかった。まして、憧れている先輩と比べられて、妬むなと言う方がおかしい。
(……蛍のあんな表情、初めて見た)
早歩きでロビーを通り抜けながら、先ほどの光景が瞼の裏で蘇る。
これ以上ないくらいに和らいだ眦に、楽しそうに緩む口元。そのどれもが、自分ではない者に対して向けられていたと思うと、嫉妬で気が狂ってしまいそうだった。
文部両道、才色兼備。
美乃を飾る言葉はいくらでも見つかるのに、それを自分に当てはめると途端に語彙が乏しくなったような錯覚を覚える。
「…………蛍のバーカッ!!!」
決壊したダムのように流れる涙を乱暴に拭いながら、真は家への道を全力で走った。
蝉がアスファルトの上でひっくり返っているのを、秋風が擽っていた。
二、
最初にそれを自覚したのは、いつだったか。
いつの間にか、隣に居ることが当たり前になって。もはや自分の一部であるといっても過言ではない。それだけ、真とは一番近くで過ごしてきた。
白い道着に身を包んだ幼馴染は、常と違って凛としたものを感じさせる。結んだ髪から滴る汗が、煌びやかな宝石のようにも思えた。
「……泣いたカラスが笑ってる」
「あ? 何言ってんだ、お前」
開け放たれた体育館のドアから覗く空手部を眺めながら、蛍はトンボの柄に顎を乗せて溜息を吐き出した。
「いいから手を動かせ。このむっつりスケベ」
「誰がむっつりだ、誰が」
「スケベは否定しないのな」
げらげらと笑いながら、トンボを持って走り去ったチームメイトに、蛍は苦虫をかみつぶしたような表情になる。
(男子高校生なんて、みんな性欲の塊だろうが……)
遠くから先輩の怒号が聞こえてくる。
それに生返事を返しながら、蛍はそちらに向かって走り始めた。
聞き慣れた声に呼び止められて、真は髪を結び直そうとしていた手の動きを止めた。
残暑の所為で自転車のタイヤがパンクしてしまい、今日は徒歩で来たのが災いした。目の前で自転車にブレーキをかけて行く手を阻んできた蛍に、大きな舌打ちが零れる。
「……何?」
「何で、先に帰ってるんだよ。送ってやるって朝言っただろ」
「いいよ。歩いて帰るから」
「いいから乗れって」
「いいってば!」
グ、と奥歯を噛み締めてそう言えば、蛍は一瞬だけ呆けたような顔をして、次いで眉間に皺を寄せた。
「歩いて帰ったら、暑いだろ」
「さっきまで汗かいてたし、あんまり変わんないからいいよ」
「……乗れ」
引き下がる気配のない蛍に、真は溜息を零すと、彼に向かってスポーツバッグを放り投げた。明日は部活が休みだからと溜まっていた道着を大量に詰めた鞄は宛ら鈍器のように重い。それを顔面で受け取った蛍は、若干頬を痙攣させていたが、何も言わずにペダルに足を掛けた。
真が荷台に跨ると、自転車が小さく悲鳴を上げた。中学の頃から愛用している蛍の自転車は、少し錆びていて、土の香りがする。――野球の匂いだ、とサドルを掴んで思った。
「……姉ちゃんが寄って行けって言ってた」
「明美ちゃんが?」
「おう」
緩んでいたゴムを取っていると、蛍が不機嫌そうな声で言った。
「来るだろ?」
「……うん」
明美は蛍の三つ上の姉である。芸能事務所で働く彼女は滅多に実家に帰ってくることはなく、事務所が持っているマンションに住んでいると蛍から聞いていた。
会うのは半年ぶりくらいだ、と明美のことを考えていると、胸に巣食ったもやもやが少しだけ晴れた気がした。
ふふ、と笑いながら、蛍の背中に額を預ければ、ペダルを漕ぐスピードが少しだけ上がる。それを不審に思って、前を見ると、歩道の信号が赤に変わろうとしていた。
「ちょ、蛍! 赤、赤だから!」
「う、煩えな! 分かってるよ!」
車道との境目ギリギリで、ブレーキをかけて器用に停まって見せた蛍に、真は溜息を吐く。昔から無駄に運動神経が良い所為か、こういう時でも遺憾なく発揮されるそれに関心を通り越して、呆れを覚える。これだから運動バカは、と真は小さく首を横に振った。
いつもであれば、ここで口論になるのだが、いやに静かになった蛍に真は眉根を寄せた。
「……蛍?」
赤信号の先をじっと見つめる彼の視線を辿って、ハッと息を飲んだ。
そこには、笑いながら男の人の腕に自らの腕を絡める美乃の姿があったからだ。
美乃と頭一つ分くらい離れた身長の男が、やや照れたように頬を掻きながら美乃に笑いかける。それを見た彼女は、嬉しそうに唇を綻ばせていた。
「…………マジか」
先に沈黙を破ったのは、蛍だった。
信号が青になっても動き出そうとせず、呪詛のように「マジか」と言葉を連呼している。
「青、だけど……」
声が震えるのが分かった。ぎゅっ、と縋るように彼のユニフォームの裾を握れば、蛍の身体が慌てたように動き出す。
点滅寸前で渡り終えた歩道を超えてから、二人は無言のままだった。
触れている場所から伝わってくる心音は変わらない。
それが堪らなく悔しくて、同時にホッとしている自分が居た。
「…………彼氏だよなぁ、さっきの」
「……そうかもね」
「何、怒ってんだよ」
「別に」
動揺するのは、自分ばかりで嫌だ。
何年も見てきたのに、最近蛍の知らない顔ばかり見ている気がして、気持ちが悪い。
自分が一番蛍のことを知っていると思っていた。――それなのに。つい最近、好きになった先輩に対して、蛍が見たことのない顔ばかりするものだから。それが何だか知らない人を見ているようで怖かった。
堪えていた砦が崩壊してしまったように、涙が溢れる。
泥だらけになった練習用のユニフォームに頭突きをすれば、蛍が驚いたようにブレーキを掛けた。
「真?」
急に泣き始めた幼馴染に蛍は、怪訝そうに後ろを振り返った。
だが、見るなと言わんばかりに、顎に掌底を撃ち込まれて、痛みのあまりに、鈍い声が喉を出る。
「……何、泣いてんだ?」
顎を押さえながら聞けば、真はふるふると弱々しく首を横に振った。
「泣いてない」
「泣いてるだろーが」
溜息を吐きながら、路傍に自転車を寄せると、蛍は後ろ向きに座って、しゃくりあげる真の顔を覗き込んだ。
まるで幼子のように泣く姿に、何だか見てはいけないものを見ているような気分になる。
「真」
名前を呼ぶと、一瞬だけ華奢な身体が震えた。
「なあ、何で泣いてんのって聞いてるだろ」
「…………言いたくない」
「ふーん」
しゃくりながら、タコの出来た手で涙を拭う真に、蛍はムッと唇を尖らせた。
「……俺の所為?」
「……っ」
「俺が、美乃先輩のこと好きになったから?」
蛍が言葉を紡ぐ度に、真の涙が大粒に変わっていく。
夕暮れに反射した涙が、肌を伝って、ジャージにシミを作る。
「……ごめんな?」
「謝るな、ムカつくから」
「ごめん」
「だからッ!」
濡れた頬に手を伸ばすと、真はブリキの人形みたいに固まってしまった。
こつん、と額を合わせると、触れた場所からじわりと熱が伝わってくる。次第に熱くなっていくそれに、蛍はにやりと意地の悪い表情を浮かべた。
「顔、真っ赤だぞ」
「誰の所為だと……!」
「俺の所為?」
「おまっ」
喚こうとした真の唇を掌で覆うと、蛍はその上から唇を重ねた。
「な、に」
近付いた距離に、真の顔が更に赤みを増す。
「今はこれで、勘弁しろよ。な?」
「い、みが分からん」
「はあ? 結構分かりやすかったろうが」
肩を竦めて、真の唇に触れた掌に口付けると、幼馴染の顔が爆発したのかと言いたくなるくらいに赤くなるものだから。
蛍はけらけらと笑ってみせた。
「初心だねぇ、お前」
「う、煩い……!」
「ははっ。間接チューでそんくらい騒ぐとか、ガキかよ」
「か、間接ッ!??」
「かわいいな」
蛍、と怒鳴りながら背中に拳を下ろされるが、力の入らない真の正拳は痛くも痒くもない。
ずっと変わらず、隣に居てほしい。
――そう思うのに。
このぬるま湯のように心地良い関係を超えるのが、少しだけ怖かった。
だからかもしれない。春風のように何でも包んでくれそうな、そんな雰囲気の美乃に惹かれたのは。けれども、それは一瞬で終わってしまった。
中途半端な思いで真を悲しませるくらいなら、他の誰かを好きになろうと思っていたのに。
結局、隣に居るのは真じゃないと落ち着かなくて。それなのに、真とは幼馴染のままで居たいとそう思ってしまう。
「……ごめんな」
小さく呟いた声は、風によってかき消されてしまう。
殴り疲れたのか、ぐりぐりと抗議するように背中に額を押し当てられて、蛍は苦笑を零す。
触れる体温が愛おしい。
それでも、それを伝えてしまえばこの関係が変わってしまうから。
臆病な自分には、想いを伝えるなんて大層なこと出来そうになかった。
「真」
「……何」
「不細工になってんぞ」
「お前の所為だろ!!」
げらげら、とどちらからともなく笑いだした二人の頭上で、カラスの群れが鳴いていた。
三、
香ばしい焼き菓子の香りに、真はこれでもかと顔を顰めた。
目の前に差し出された綺麗にラッピングが施されたクッキーが山盛りになった紙袋に、眉間に皺が刻まれる。
「お願いします!! 海野先輩に渡してください!」
「いや、渡してくださいって本人のクラス隣じゃないの」
「真先輩にしか頼めないんです!」
「ここまで来たんなら本人に直接渡した方が……」
「お願いしますッ!!!」
可愛い後輩に頼まれてしまえば、無碍に断ることなんて出来るわけもなく。真は溜息を吐きながらもその紙袋を受け取った。
ここ一週間ほど毎日のように、先輩や後輩から蛍に大量の差し入れを渡すように頼まれている気がする。
理由は野球部が先週行われた秋大会の県予選を突破したからだった。惜しくも夏の県予選では初戦敗退と残念な結果で終わったからか、このニュースはあっという間に校内を駆け巡っていた。
夕方のニュースでも取り上げられた所為(特にサヨナラホームランを放った蛍と九回裏で三打席連続奪三振を決めたエースの先輩が大々的に取り上げられていた)か、蛍は女子に限らず、男子の株も上げていた。
現に、先ほど男子空手部の後輩からもプロテインを押し付けられたほどだ。サヨナラホームラン恐るべし。
そんなことがあった所為か、あの後、蛍は球場の駐輪場に現れなかった。
後から彼の母から聞いた話によると、スポーツライターやらニュースの取材やらで帰って来たのは夜の九時過ぎだったらしい。
試合が終わったのは五時だったから、真は一時間ほど駐輪場で蛍が来るのを待っていた。
自分も翌日に試合を控えていたので、あまり長く待つことが出来ず、結局その日は早々に帰ってしまったが、家も近所だしすぐに顔を見ることになると思っていた。――そう、思っていたのだが、どういう訳か徹底的に避けられてしまっているようだった。
「意味が分からん」
「うん、それ俺も今猛烈に思ってるとこ」
正拳突き宜しく差し出した紙袋とプロテインを半泣きで受け取ったのは、蛍のクラスメイトで、チームメイトの吉沢だ。
「どうして私が来るタイミングで居なくなる訳?」
「知らねえよ。直接聞けばいいだろ、幼馴染なんだから」
「ケータイも無視。野球部の練習が遅くて家にもいない。学校でも徹底的に避けられる……。どうしろって言うのよ!」
「……あー、じゃあヒントだけな」
「は?」
それから吉沢はとても言い難そうに口を開いたり、閉じたりを繰り返して、漸く決心したのか、こほんと一つ咳ばらいをした。
「バッターサークル」
「それが何?」
「……あんな大観衆の中で聞こえるくらいの声でお前に伝えたんだぞ? 他にも聞いてる奴がいてもおかしくないだろ」
「は」
「しかもあそこはカメラの指定席になってた」
脳裏に蘇るのは、試合に勝ったら好きだというと言った蛍の少し照れたような表情と、スタンドに響く大歓声。
そう言われて初めて、隣にはカメラを持った男の人が数人いたのを思い出す。県予選の決勝ではテレビ中継が行われると以前蛍が言っていたような気がする。真が来ていたのは高校のジャージだ。同じ高校の生徒であると分かれば、カメラは自然とそちらに向くこともあるかもしれない。
そこまで考えて、真は顔全体に熱が広がるのを感じた。火照った背中を冷たい汗が流れていく。
「まさか」
「そのまさかだよ。ニュースでも取り上げられてたくらいだぞ」
「嘘でしょ」
「逆に今知ったお前に俺は驚いてる」
恥ずかしさのあまり、思わずその場に蹲る。
何だ、何だと野次馬根性を発揮する同級生たちから真の姿を隠すように吉沢は彼女の前に立って笑いながら言った。
「うるせえ、松岡に遅めの春が来ただけだ」
「ちょっと!」
「何だよ、ほんとのことだろ?」
「ち、違うわよ! バカ!」
照れ隠しに立ち上がりざまに膝蹴りを繰り出すと、そんなことをされると思っていなかったらしい吉沢の鳩尾にクリーンヒットした鈍い音が昼休みの廊下に響いた。
――暑い。
いくら日差しが弱くなったとはいえ、練習着に身を包んで走り回れば嫌でも汗は掻く。
背中に張り付いた練習着を忌々しく思いながら、蛍は打ち上げられた白球に向かってグローブを差し出した。
パシ、と軽快な音でグローブの中におさまったそれに、満足そうに顔を綻ばせていると、少し離れた場所で同じようにフライを捕る練習をしていた吉沢が恨めしそうな顔をして近付いてくるのが視界に入った。
「何だよ?」
「何だよ、じゃねえよ。お前の所為で県大会二位の女の膝蹴り食らったじゃねえか」
「はあ?」
「松岡だよ、松岡。あいつ照れ隠しに鳩尾狙ってきやがって……」
死ぬかと思った、と魚が死んだ目をしていう級友に蛍は首を傾げる。
「何で真がお前に膝蹴りなんか……」
「お前があいつのこと避けまくってるから、今日も怒りながら誰かに頼まれた差し入れ持って来たんだよ」
「……ふーん」
「ふーんって、何だ。ふーんって! 言わせてもらうけどな! 元はと言えば、あいつにニュースのこと言ってないお前の所為だぞ!」
まるで猿のようにキーと怒る吉沢の言葉に、蛍は表情を強張らせた。
「おいやめろ。傷口に塩を盛り込んでくるな」
「いいや、やめないね! お前の所為で連日不機嫌な同級生に襲われるなんてごめんだから、教えてやった」
「……何を」
「お前がバッターサークルから出て、松岡に言ったことがニュースで取り上げられたこと」
心底楽しそうに表情を歪める吉沢とは対照的に、蛍は全身から血の気が引くのを感じていた。
さっきまで暑くて堪らなかったのに、何だか寒気を覚えた。
「……嘘だろ」
「嘘じゃねえよ。ちなみに、今日の練習が何時に終わるかも伝えておいた」
「おま、ふざけんなよ!」
「いい加減じれったいんだよ! 素直になれ、男だろ!!」
「他人事だと思って……!」
「うるせえ! リア充爆発しろ!!!」
お前絶対それが言いたかっただけだろ、と笑いながら逃げ惑う吉沢を追いかける。
いつもなら夕食を楽しみにし始める時間帯なのに、ライトが照らされたグラウンドから堪らなく離れ難かった。
すっかり日が短くなったな、と六時半なのに薄っすらと群青がかった空を見上げながら真は思った。
どちらかというと七月から八月にかけての夕暮れ時が好きだ。明るく澄んだ橙色や薄紫が綺麗に見える、あの夏空が恋しい。
「……げ」
蛍の家に帰るには絶対通るしかない公園のブランコで待っていると、泥だらけのユニフォームに身を包んだ彼が、気まずそうな表情をしてこちらを見つめていた。
「げ、って何だよ。げって」
「別に」
バットを入れているのだろうか、重そうな野球道具を抱え直しながら、蛍が怠そうな動きで真の座るブランコに近付いてくる。
「……何してんだよ、こんなところで」
「お前を待ってた」
じっと蛍を見つめると、彼は居心地悪そうに頬を掻いて、それから溜息を零した。漕いでいる子にぶつからないように設置された小さな鉄棒に腰を下ろして、真剣な表情を浮かべる。
「…………あのよ」
「うん」
「……俺、」
グッ、と蛍が唇を強く噛み締めるのが分かった。
心なしか頬が赤くなった彼から次の言葉が発せられるのを、真はじっと待った。
ここで何か言えば、素直じゃない蛍は口を閉ざしてしまうことが分かっていたからだ。幼馴染であるからこそ、そういった小さなことも真はすぐに察知できた。
すっかり群青色に支配された空を、赤とんぼが連なって飛んでいく。
子供の頃に見た夕焼けの色を思い出して、真は少しだけ眦を和らげる。
遅くなった所為で親に怒られるのではないかと泣き始めた真の手を蛍は優しく握って笑いかけてくれた。
「俺が守ってやる。だから泣くなよ」
そう言った蛍に汗で湿った野球帽を被せられて、安心したのを覚えている。
蛍がいるなら怖くないねって、笑っていたあの頃がひどく懐かしかった。
「無理に変えなくてもいいんだ」
「は?」
不意に、真の小さな声が夕闇の中に響いた。
「ずっと幼馴染のままでもいいんだよ、私。――お前の隣にいられるなら、何だって」
「真」
ブランコに座る真の表情は、俯いてしまっている所為で分からなかった。ゆっくりと鉄棒から離れて彼女の方に近付くと、華奢な身体が少しだけ震えていた。
「……怖いんだ。お前の隣にいられなくなるのが。ずっと一緒にいたから、離れるなんて考えたこともなかった」
ぽつり、と真の服に染みが広がる。
伏せた睫毛の先から雫が零れ落ちるのを、蛍は黙って見つめることしか出来なかった。
「重いって自分でも思う。でも、苦しかったんだ! お前の隣にいるのに伝えられないのが。あの時も本当は言うつもりなんてなかった。でも、気が付いたら口に出してて……。拒絶されたらどうしようって考えてたのに。――それなのに、お前があんな、期待させるようなこと言うから」
さめざめと悲しそうに泣く幼馴染に蛍はどうすればいいのか分からないと思うのと同時に、彼女が流す涙が美しいと思ってしまった。
自分の所為で彼女が泣くのが昔から苦手だったのに、今はひどく心が凪いでいた。
そっと手を伸ばせば、真が顔を上げるのが分かった。
生温い雫が掌に纏わりつくのにも構わずに、少しだけかさついた真の頬に手を滑らせる。
「……俺も、」
「え?」
「俺も、お前の隣が良い」
お前が笑ってくれるなら、それだけで。
――初めて触れた唇は少しだけしょっぱくて、甘い味がした気がした。
四、
触れた唇は、意外にも柔らかいものだった。
起き抜けに自分の唇に触れながら、真はにやける口元を抑えられなかった。
「……練習、行かなきゃ」
時計の針を見ると八時を少し過ぎたところを示している。慌ててベッドから飛び降りると、クローゼットの中からジャージを引っ張り出し、急いで着替えた。
乱雑に散らかったままの部屋の中からスポーツバッグを掘り起こすと、その中に必要なものだけを詰めていく。
今日は走り込みをすると部長である美乃が言っていたから、日焼け止めも塗らねばならない。だが、時間的にそんな余裕があるわけがないので、日焼け止めを鞄の中に無造作に突っ込んだ。
タオルや替えの道着、それからデオトラントシートを詰めチャックを閉めると、早足で階段を駆け下りる。
「母さん! スポドリ!!」
「はいはい、出来てるわよ。さっさと食べて用意しちゃいなさい」
「ありがと!」
昨夜うっかり伝えるのを忘れていたので、スポーツドリンクは諦めるしかないと思っていたのだが、流石母である。冷蔵庫の前に張り出した部活日程表を見て作ってくれたのだろうと胸の前で両手を合わせて拝み倒してから食卓に向かった。
「お前ね、毎度そうやって母さんに何でも頼むの止めなさい」
「低血圧だから、頭が起きるまで時間がかかるんです~!」
「そうやって屁理屈ばかり言って!」
「……父さん? 八時半から会議なんじゃなかったの?」
口煩い父親ににこりと笑いかけながらそう言えば、慌てたように朝食を口に詰めて玄関を飛び出していく。
「まあ、父さんの言うことにも一理あるわね」
「うっ」
「でもね、母さん的にはもう少し子供で居てほしいから、高校卒業するまでは手伝わせてちょうだい」
少しだけ寂しそうに笑う母に曖昧に笑い返すと、優しい掌がそっと髪を撫でてくれた。
「……はよ」
部室棟に行くと、丁度グラウンドの方から蛍が歩いてきた。
硬球が大量に入ったカゴを持ちながら、ゆっくりと近付いてくる蛍に、真は思わず数歩後ずさる。
「……お、おはよう」
蛍の顔を見ていると昨日のキスを思い出してしまって、じわり、と頬に熱が上がるのが嫌でも分かった。
「今から?」
「うん」
「……何時まで?」
「今日は昼までだけど、どうして?」
今日は土曜日だから、空手部は男女ともに昼までしか体育館を使えない。
来月の初めにバスケ部が試合を控えているからだ。通常であれば夕方からバスケ部の練習が始まるのだが、今週から土日の空手部の練習時間を早めに切り上げて交代することが部活会議で決まったと美乃が言っていた。
「俺も昼までだから、帰りにどっか行こうぜ」
「え」
「な? デートしよう?」
デート、と聞き慣れない言葉を発した幼馴染に、真は瞬きを繰り返した。
その意味を理解するのに、十秒ほど要するとすっかり納まりかけていた熱が再び全身を支配して、動きを鈍らせる。
「……いいだろ?」
「う、うん」
校門で待ってるから、という声を背中に受けながら、真は部室に逃げるように駆け込んだ。
白球を追いかけている間は、何も考えなくて済む。
ただ、一心に白い球を追いかけて、泥だらけになりながらも、伸ばしたグローブの中に白球が落ちてくるその瞬間が蛍は好きだった。
微かに冬の匂いを纏った涼しい風が吹く朝の時間の練習は、土とグローブの匂いに包まれていて、少しだけ落ち着いた。
「ナイスキャッチ、海野」
「うっす」
「お前、最近調子良いね~。さてはアレか? 彼女でも出来たな?」
「はあ、まあ」
「うっそ、マジで!? 吉沢から聞いてたから絶対デマだと思ってたわ~」
誰だよ、と詰め寄ってくる先輩に曖昧な笑みを浮かべると、左隣でにやにやと笑う吉沢の鳩尾に軽く拳を叩きこむ。
「松岡ですよ、松岡」
「あ、てめえ! 言うなって!」
「ほほう、あの空手美少女か~」
途端に吉沢と同じくにやにやと厭らしい顔つきになって、こちらを見る先輩から目を逸らすと、ベンチでキャプテンが集合と叫んでいるのが聞こえてきた。
「ほ、ほらキャプテンが呼んでますって」
「あ、こら待て海野!」
「吉沢てめー後で覚えてろよ!」
捨て台詞にそれだけ残すと、蛍は全速力でベンチまで走った。
デオトラントシートで一通り汗を拭きとったものの、背中には未だ汗が残っている。
ぺたり、と張り付くTシャツに真は顔を顰めた。
腕に顔を近付けて匂いを嗅ぐと、さっぱりとした石鹸の香りが広がった。
荷物を纏め、部室を出て校門に向かうと少しだけぐったりとした様子で花壇の淵に座り込む蛍が目に入る。
「待った? てか何でそんな疲れてるの? 練習きつかった?」
「し、質問攻めにあった」
「何を」
「お前のこと」
首を傾げると、蛍は溜息を吐いて先に歩き出してしまう。
「別にさ、隠すつもりもねえし話したんだよ。つーか、吉沢の野郎が先輩たちにチクってたんだけど」
「え、」
「野球部公認のカップルだから、お前の試合も見に行って良いてさ」
悪戯っ子のように笑う蛍に、真は頬が熱くなるのが分かった。
「……あっそ」
「おう」
鼻歌交じりに先を行く蛍に、真は顔を片手で覆う。
野球部公認って何だ。やたらと声を掛けられたと思っていたら、そういうことか。
恥ずかしさで顔を上げられない。
「な、これ貰ったから行ってみねえ?」
「……どれ?」
「アクアリウム。今日までらしいんだけど、先輩が余ってたチケットくれた」
「へえ」
お互いに部活一筋な所為か、こういった物には疎い。
きっと気を利かせてくれた先輩が蛍に渡してくれたのだろう。ありがとう名も知らない先輩、と心の中で合掌すると、真は蛍からチケットを一枚受け取ってしげしげと眺めた。
「夏季限定、金魚の展示?」
「珍しい金魚いっぱいいるんだってよ~」
どこかウキウキとした声音なのは、昔から生き物が好きだからだろう。
小学生の頃、決まって生き物係に立候補していた蛍の姿を思い出して、真は小さく笑った。
アクアリウムが開催されている場所は、学校から差ほど遠くない場所にあった。
少しだけ蒸し暑かった外とは違い、ひんやりとした過ごしやすい空調に思わず目を細めていると、受付にチケットを持って行った真が少しだけ頬を染めてこちらに戻ってくる。
「どうした?」
手には先ほど渡したチケットが二枚とも握られたままで、不思議そうに首を傾げれば、真は恥ずかしそうに蛍の手を引いて、受付へと引き摺って行く。
「あ、あの、か、『彼氏』連れてきました。こ、これで、割引してもらえますか?」
「それでは、キス写真を撮りますので、ほっぺか口にキスをお願いします」
「え」
「は」
にこにこと綺麗な受付のお姉さんが、悪魔のようなことを言うものだから、蛍と真は引き攣った表情でお互いを見つめた。
「……手、とかはだめですか?」
「ダメですねぇ~」
「額も?」
「はい。決まりなので」
表情は崩さずに、冷たさを帯びるお姉さんに蛍は片手で目を覆った。
次いで真に掴まれたままの腕から熱が広がるように全身を駆け巡っていく。
「……割引してもらわなくてもよくね?」
「だめ。カップル割引じゃないと、限定キーホルダー貰えないんだもん」
「はあ」
顔を真っ赤にしているくせに、視線は受付のポップから動こうとしないのだから凄い。
はあ、と溜息を吐き出すと、蛍は目線をお姉さんに移した。
お姉さんは蛍の視線に気が付くと、真には気付かれないように小さく頷き返してくれる。
「真」
「な、に――!?」
ちゅ、と触れるだけの口付けを交わせば、お姉さんがカメラのシャッターを押す音が響いた。
真の頬が先の比ではないほど、鮮やかな赤に染まる。
それが可愛くて、思わずもう一度唇を重ねれば、ひ、と引き攣ったような声が聞こえた。
「も、いいから」
「はい、キス確認しました~! こちら限定品のキーホルダーになります~」
どこか遠い目をしたお姉さんに、どうもと愛想笑いしながらキーホルダーを受け取り、真っ赤になったまま動かなくなった真の手を引いて歩き出す。
「きゅ、急にキスしないでよ」
「だって、お前あれ欲しかったんだろ?」
「それは、そうだけど……」
羞恥で俯いてしまった真の腕を微かに引くと、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……うわぁ」
「綺麗だな」
「うん!」
風鈴をそのまま大きくしたような形の水槽にたくさんの金魚が泳いでいる。
光に照らされて、尾びれが揺れる度に宝石が水の中を漂っているような錯覚を覚えた。
「真」
「何?」
繋ぐ手に力を込めて、じっと彼女の目を見つめる。
少し赤みを帯びたこげ茶色の目に、金魚とそれから自分が映り込んでいるのに蛍は小さく笑った。
「無理に変わらなくていいよ」
ゆっくりと自分にも言い聞かせるように蛍がそう言うのに、真は目を見開いて固まった。
「え?」
「お前が言ったんだろ」
「……うん」
「ゆっくり俺らのペースで変わっていけばいい」
握られた手が指に絡まるのに、真は眦を和らげて笑う。
いくつになっても、本質は変わらない彼の優しさに、そっと蛍の胸に頭を預けた。
「……何だよ」
「好き」
「……知ってる」
何よ、それと開こうとした唇は音を無くした。
代わりに響いたリップ音に、じわりとお互いの肌が染まっていくのを見て、どちらからともなく笑みが零れた。
――紅葉に似た金魚がゆらゆらと揺れる水面に、二人の影がまた重なった。
蛍と白球 神連カズサ @ka3tsu0
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