最後の温血種

さいとし

最後の温血種

 わたしはカーミラを抱きしめたまま、クローゼットの中で息を殺していた。彼女のこげ茶色の髪に顔を埋め、木蓮に似た香りに夢中になろうとした。けれど、わたしの耳は一階を歩き回る軍靴の音、押し殺した恫喝、うわずった声を聞きつけていた。

「ローラ」

 カーミラがわたしの耳元で囁いた。ハープの音色のような声。わたしは返事をしなかった。

「ローラ」

 カーミラがもう一度わたしの名前を呼んだ。その言葉には抗いがたく、わたしはゆっくりと顔を上げた。カーミラはこちらをじっと見つめていた。察して、わたしは再びカーミラを抱きしめる。

 カーミラの細い指が、わたしのチョーカーに伸びた。チョーカーが外れ、かすかな吐息が首筋を撫でた。目を閉じる。食い込む短剣の感触。瞼の裏に光が瞬く。川を遡る、心地よい感覚と共に、体が芯から冷えていく。抱きしめる腕に力を込めていられなくなり、わたしはカーミラに体を預ける。カーミラはぐったりした私の手を取り、自分の指から抜き取った指輪をはめてくれた。赤い宝石が光る、小さな指輪。

 クローゼットが乱暴に開かれた。光に目がくらむ。力強い腕が何本も伸びてきて、わたしとカーミラを暗闇から引きずり出した。いたぞ、娘と一緒だ。太い声が叫ぶ。足が立たない。わたしたちは男たちに抱えられ、一階へと連れていかれた。

 一階に下りると、父親が走り寄ってきて、カーミラとわたしを引き寄せた。母親は暖炉の脇で不安そうに手をこすり合わせている。制服の男は全部で五人。入り口に立っていた、背の高い男が口を開いた。

「ご存知でしょう。そのようなものの所有は国際法で禁じられています。重罪ですよ」

 男はじろりとカーミラを見た。

「ましてや、娘さんに与えるとは」

 父親は下を向いたまま、何も言わない。男の言葉が諭すような口調に変わった。

「お子さんに遊び相手が必要なのはわかります。しかし、人形に自意識を与えるのは倫理的観点からも、許されるものではありません。残酷ではありませんか。ただ血を吸われるだけの生き物に意思を与えるなど」

 男の言葉は、わたしにはむなしく聞こえた。カーミラの手を握りしめる。その手が、しっかりと握り返してくるのがわかった。

 さあ、と男が促す声。父親はやはり口をつぐんだまま、立ち上がった。そして、わたしを男たちのほうへ押しやった。男がにこりと笑い、鋭い犬歯が露になった。

 わたしは部屋の隅を見やった。そこにいるのは無表情で立ち尽くす、二体の造血人形。カーミラの父親と母親のための食料。慎重な遺伝子操作であらかじめロボトミーを施された、血を作るだけの人形。彼らはこの騒ぎにも何の関心も示さず、視線をうつろにさまよわせている。処置のされていない、わたしのような人形は違法だ。

 けれど、わたしは望んでカーミラに血を与えた。意思があることは残酷でもなんでもない。わたしはあの人形たちよりずっと幸せだ。

 外は冬の嵐。わたしには堪え難い寒さだ。けれど、男たちは平気な顔をしている。永い冬を生きるために別の生物種へと姿を変えた人々。

 黒いトラックが玄関先に待ち受けていた。二人の男が後部の扉を開いた。わたしは両側を固められたまま、引きずられていく。

「ローラ」

 振り返ると、カーミラがいた。わたしは駆け寄ってきたカーミラの冷たい両手をとり、わたしの両手で包んだ。わたしの血は暖かい。カーミラたち、血を糧として生きる人々が持たない温み。すでに滅んだ、旧い人類の残り火。それを望んでカーミラに与えられるのはわたしだけだ。

 わたしはカーミラにそっと口づけして、手を離した。目を上げたカーミラの顔。それと同じ表情を、彼女もきっとわたしの顔に見ている。喜びと喪失。そして理解。

 与えられた時間は、それで終わりだった。わたしはトラックの中に押し込まれ、カーミラは父親に連れられて家の中に戻る。重い扉が閉められ、ほどなくしてトラックが動き出す。助手席の男たちが話す声が聞こえた。本当によくできた人形だよ、欲しくなる気持ちもわかる、味見してみたいもんだ。

 白衣を着た男が近づいてきた。手には注射器。わたしはカーミラのくれた指輪に目をやった。赤い、小さな宝石が光る。それだけ憶えて、わたしは目を閉じる。手首に食い込む針の感触。やがて、もやに包まれていく意識。でも、わたしはカーミラの中にいる。カーミラもそれを知っている。それで十分。

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