「幸せ」
桜人
第1話
「マリー、そろそろ寝る時間よ?」
ベッドのあるお部屋からお母さんの声が聞こえます。わたしを呼んでいました。わたしは大きな声で返事をしてお母さんのいるお部屋に向かいます。
「ご本を読んであげるからね。今日、新しく買ってきたの」
お母さんはわたしの頭を撫でながら、柔らかくて、あったかい声でご本を読み始めました。わたしと同じくらいの女の子が、不思議な世界に迷い込んでしまうというお話です。
「……」
けれども、わたしの心は全然わくわくしませんでした。それはご本がつまらないということではなくて、この毎日の生活が楽しくないということです。
わたしは、お父さんもお母さんも、学校の先生や友だちも、みんなのことが大好きです。たまにはお母さんや先生に怒られたり友だちとケンカもするけれど、いつもはみんなとっても優しくて、みんなといると、心があたたかくなるのです。
でも最近は違います。みんなのことが大好きなのは変わらないのに、何だかわたしはそれをつまらないと感じてきているのです。わたしにもよく分かりません。一体何ででしょう。
そんなことを頭の端っこの方で考えながらお母さんの読むご本を聞いていると、いきなり、どこかから声が聞こえていました。
「…ちゃん。マリーちゃん」
わたしはびっくりしてしまいました。その声はなんと、いつもわたしと一緒にいる、くまさんのぬいぐるみのものだったのです。彼はいつの間にかわたしの腕の中から抜け、さっきまでお母さんのいた所に立っていました。お母さんはお部屋のどこにもいません。
「安心して。マリーちゃんのお母さんは、マリーちゃんの知らない間にお部屋から出ていっちゃっただけだから」
誰もくまさんに触っていないのに、くまさんは一人で動いています。こんなことは初めてです。ひょっとしてさっきお母さんが読んでくれていたご本みたいに、魔法がこうしてくまさんを動かしているのかもしれません。
「そう、その通り。マリーちゃんが良い子だから、神様がご褒美に僕に魔法をかけてくれたんだ。こうしてマリーちゃんと話すことが出来て嬉しい!」
「わたしも!」
何ということでしょう。わたしはいつも、くまさんとしゃべることが出来ますようにって、流れ星にお願いをしていたのです。神様はきちんとわたしのお願いを叶えてくれたのです。わたしはここぞとばかりに、くまさんとたくさんのことを話しました。
「……それでね、みんなはいつもと変わらないのに、何だか最近つまらないの」
いろんなことを話すうちに、いつの間にかわたしは今の悩みについてくまさんに相談をしていました。
「ふぅん、最近のマリーちゃんはあまり元気がなかったから心配していたんだけど、そういうことだったんだね」
くまさんはわたしの悩みを真剣な表情で聞いてくれています。
「ねえ、くまさんはどうしてだと思う?」
「それはね、きっと、今のマリーちゃんの生活がとっても満ち足りているからだよ」
くまさんは優しく、ゆっくりとわたしに説明をしてくれます。
「満ち足りている?」
「そう。例えば、マリーちゃんが何かを欲しいってお父さんかお母さんに言えば、二人は何でも買ってきてくれるよね?」
「うん」
「でもね、それはとっても贅沢で、恵まれていることなんだ。今は科学が発達して世界中が豊かになったけど、マリーちゃんのお父さんとお母さんの、そのまたお父さんとお母さんが子どもだったぐらい昔には、食べるものもほとんどなくて、毎日たくさんの人がお腹をすかして死んでいたんだ」
「それは知っているわ。学校で先生が教えてくれたもの。だからね、わたしたちは食べものを残さずに食べなくちゃいけないの」
「うん、マリーちゃんは賢いね。でも、世の中にはその時の方が幸せだったって言う人もいるんだよ」
「えぇっ!?」
びっくりです。そんなこと、先生からはまったく教わりませんでした。
「その頃は食べものを手に入れることが目的だった時代で、だから、ただ普通の食事を食べられることが、何より嬉しくて幸せだったんだ。何もしなくても食べものを食べることが出来る僕たちよりも、きっとそのごはんはおいしかっただろうね」
「へぇ~」
わたしはくまさんの頭の良さにびっくりしながら、同じようにくまさんの話にもびっくりしっぱなしでした。何だかくまさんの言うその時代が羨ましくなってきます。
「羨ましいの?」
わたしの心の中を見たかのように、くまさんが聞いてきました。わたしは黙って、ゆっくりと頷きます。
すると、くまさんが目を輝かせて言いました。
「じゃあ、その世界に行こう!」
「えっ?」
「実はね、神様は優しいから、僕にしゃべることが出来る魔法のほかに、もう一つ力をくれたんだ」
くまさんは言います。
「僕は、マリーちゃんのお願いを三つだけ叶えてあげられるんだ。マリーちゃんが神様にお願いすれば、何でも三つ、どんなお願いでも叶えてあげられるよ」
「ほんとっ、すごい!」
わたしはさっきまでのつまらない気持ちなんて忘れて、くまさんと一緒にバタバタとベッドの上で飛び跳ねました。幸運が次から次へとやって来てはわたしにハイタッチをしてきたような、そんな感じです。
くまさんがわたしにアドバイスをします。
「科学水準をその頃まで遅らせるんだ。そうすれば、きっと今まで以上の刺激と喜びに出会えるよ」
『かがくすいじゅん』という言葉は分かりませんでしたが、とにかくくまさんはわたしの友だちです。嘘はつきません。
わたしは胸の前で手を組んで、目をつむって祈りました。
「神様。かがくすいじゅんを、わたしのお父さんとお母さんの、そのまたお父さんとお母さんがまだ子どもだった頃にまで戻して下さい」
わたしがお願いを言い終わると、急に大きな音と一緒にお部屋が明るくなりました。目をつむっていても分かるほどの明るさです。わたしは何だか眠くなってしまって、そのまま倒れてしまいました。
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