第16話 絶望
あの出来事の答えは出ないまま朝を迎えた南田は早くに出社した。
何故か奥村の出社も早かった。
「おはようございます。」
いつも通りの挨拶に「あぁ。おはよう」としかいえなかった。
南田は奥村が何を考えているのか、全く分からなかった。
午後からの仕事では珍しく奥村は心あらずだった。容赦ない厳しい言葉を浴びせても何も響いていないようだ。
朝は普通だった。何故だ。
ますます理解できない南田はため息をつく。
「らしくない。何を言っても食らいついてくるのが君の取り柄なのではないのか?」
けなしたつもりだったのに、ただ耳をすり抜けていくだけようだった。
「もう定時になる。今日は帰れ。…僕も今日は帰ろう。」
南田の言葉通り定時を告げるチャイムが流れた。奥村は抜け殻のまま帰り支度をしていた。
会社の外に出ると風が冷たく頬を刺した。奥村はボーッと歩いている。そんな奥村の手を引っ張った。
一緒にいるのに心あらずなのは些か許容できない。
よろめいた奥村を支えた南田はそのまま顔を近づける。
「やっ…。」
小さくそう聞こえて、余計に苛立ちそうになる。
昨日は自らしたじゃないか。
南田は頬にわざと眼鏡を当てた。そしてそっとくちびるを優しく触れさせた。無理矢理だろうと愛おしいのは変わらない。傷つけるような真似はしたくなかった。
ピッ…ピーッ。認証しました。
手を取り認証させた。
「どうして眼鏡…。」
それが気になるのか…。
「当たるのを所望していたようだ。」
より中毒になってもらわなければ困る。
「だいたい外で認証なんて…。」
失念していた。というよりも衝動に駆らてしまうのだから仕方ない。
「僕もマンションの方がいいことは理解している。外では指紋認証するまで重ねていなければならないが、登録済みのマンションならすぐ離しても大丈夫だ。」
やはり奥村さんは純粋だ。丁重に扱わなければならないな。
そう気持ちを新たにした。
そこへ急に声をかけられた。
「湊人!探したぞ。」
呼ばれて視線を移すと友人の宗一だった。
「どうしたんだ。まさか…。」
嫌な予感がして無表情を取り繕えなくなる。苦痛に顔が歪んだ。
「この人は?」
奥村に気づいた宗一が南田に質問した。
「無関係だ。」
この子を巻き込みたくない。そう思っていたのに…。宗一は「関係ないわけないだろ」と南田を一蹴してから「あなたも一緒に来て」と奥村に告げていた。
宗一のマンションまで連れて来られ、やはりそうだと確信する。
「どうにか食い止めようとはしたが、僅かな流出は免れなかった。これを見た人が湊人の周りの人間にいなければいいんだが…。あとは少し後処理をする。」
「あぁ。頼む…。」
南田は力なくスマホを宗一に渡した。宗一はスマホをパソコンに繋げて処置をしてくれていた。
「あなたのスマホも貸してもらえませんか?」
宗一は奥村にまで声をかけたため「こいつは関係ない」の言葉を重ねた。
「関係ないわけないだろ?…これでもか?」
会話中に届いた奥村のスマホへの通知音にまさか…と南田はますます顔を歪ませた。観念すると奥村に話しかける。
「悪い。スマホを宗一に渡してくれないか。僕の連絡先や…様々なものが悪用された。宗一はそれを正常化できる。」
奥村は自分のスマホを取り出した。そして視線をスマホに落とした。
南田は素早くスマホを奪い「見るな」と冷たい言葉をかけた。平常心でいられない南田の代わりに宗一が奥村に声をかける。
「大丈夫。関係ないメールだったら何もしないから。」
奥村にスマホを返す宗一が「この子に説明した方がいいんじゃないのか?」の言葉を投げてきた。
「関係ない…。」
この子に知られたくない…。
「じゃ俺のしたことの説明をするのは俺の自由だろ?」
南田はそのことについては何も反論できなかった。宗一は奥村に視線を移して話し出した。
「突然で驚かせちゃったね。根も葉もない情報が流されたんだ。あなたはハッカーって知ってるかな?」
「…パソコンに違法に浸入してデータを壊したり盗んだりする人のことですか?」
「まぁそんなとこかな。それを南田がやられたんだ。」
「でも私は南田さんとは連絡先を交換していません…。」
そうだ。それなのに…。
「そこは…どうやったのか分からないが…。でもそれほどまでにってことだ。」
南田は目の前が真っ暗になっていく気分だった。もうこの子の側にはいられない。もう奥村さんとは無理なんだ。迷惑をかけるつもりはなかった。そしてこんな醜態をさらすつもりも…。
「俺は普段SEとして働いてる。だからそれなりの知識があって、悪用されたデータなんかを少しは回避することができる。」
「もういいだろ?」
南田は立ち上がり帰ろうとする。
「おいおい。そりゃないだろ?ちゃんとこの子に説明してあげろよ。俺は席を外すから。」
気を遣ったのか宗一は部屋を出て行った。
ため息とともに椅子に腰を下ろした南田は口を開いた。
「契約を解消しよう。」
南田は続けた。
「ペアも元に戻してもらえばいい。」
僕には彼女を手にする資格など最初から持ち合わせていなかったのだ。
「やっぱり南田さんがペアを変えたんですね?」
南田は何も言えなかった。代わりに奥村が続けた。
「自分勝手にコロコロ変えないでください。私の元ペアの内川さんは、南田さんとペアだった加藤さんとお付き合いを始めたそうです。それなのに仲を裂くようなそんな真似…。」
「それはすまないことをした。」
謝罪を述べ、そのまま一番言いたくない言葉を口にする。
「君が内川さんと付き合っていたかもしれないのにな…。」
楽しそうに内川と話していた奥村を思い出して胸をズキッとさせた。
あのまま、あの腐っていた頃のまま、奥村さんを手放していれば、こんなことにならなかったかもしれない。
「無能って…無能って言ったくせに。社員だからですか?派遣の子より仕事の成果が出やすいからですか?私が総合職へのキャリアアップ試験に受かれば南田さんの評価も上がるからですか?」
「……そうだ。…そういうことだ。」
周りで噂されていたことを聞いたのか。それでいい。そう思ってくれればいいんだ。
南田は奥村の前から姿を消した。
南田は嫌がらせを受けていた。大学の頃に近づいてきた女性に無理矢理キスされた。その写真とともに誹謗中傷の文面を南田の連絡先を悪用され送られる。
もう収まったのかと思っていた。もう気が済んだのだと。しかしそれは甘い考えだったと思い知った。
次の日、会社に行くと部長に呼ばれた。南田の願いも虚しく広範囲に被害があったようだ。
きっと奥村さんもどこからか内容を知ることになるだろう。
絶望にも似た気持ちだった。
「南田くん。前にもこのようなことがあったのは報告を受けている。」
「はい。ご迷惑をおかけしてすみません。今度こそ…。」
南田は覚悟を決めていた。
「今度こそ何かね?変なメールは来たが、今回は実害はない。あのメールにあるようなことが実際にあったわけではないんだろう?」
部長の顔を見ると優しく微笑んでいた。
「私も飯野さんと同じ気持ちだ。若い芽は潰したくない。飯野さんの気持ちに応えて頑張ることが南田くんに今できることだ。」
飯野さん…。前にも同じようなことがあった時に身を呈して南田が会社を辞めることを止めてくれた。今回は部長まで…。
南田は頭を下げて会議室を後にした。
南田は席に戻って仕事を始めた。しかしミスが続く。せっかく奥村と隣で仕事をしていても余計につらいだけだった。
その南田に奥村が声をかけてきた。
「あなたは無能なのですか?」
「は?」
思いも寄らない言葉に南田は苛立ちの声を出す。
優しい言葉をかけて欲しいと思っていたわけではない。それにしたって…。
奥村はやめない。
「無能ですよね。ご自分に身に覚えのない誹謗中傷に心惑わされるなんてガッカリです。」
ハンッっと鼻で笑うと、ズレいない眼鏡を押し上げた。
「君に無能な印象を与えたとは心外だ。はなはだおかしい。」
「そうですか。じゃ今日は残業なんてしなくて帰れますよね?」
全くこの子は…。
「言わずもがなだ。」
奥村さんにはっぱをかけられるとは…。
しかしそのおかげで一時的にはいつもの自分に戻れた。感謝すべきなのか複雑な心境だった。
定時になると二人揃って職場を後にした。会社のビルの前で「じゃ」と南田は奥村に背を向ける。
飯野さんの気持ちも部長の気持ちもありがたい。でも僕は…奥村さんを失ってしまった。
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