Act.8

「――永瀬はきっと、俺を今でも恨んでる……」


 俺は相変わらず、公園のベンチに座ったまま、砂夜から贈られたジッポーを見つめ続けた。


 自称〈天使〉も、先ほどまでの剣幕からは想像出来ないほど、神妙な顔付きで俺を見下ろしている。


「けど、俺はいい加減な気持ちを永瀬に伝えることも出来なかった……。永瀬が、あまりにも真っ直ぐに俺を見つめていたから、なおさら……。

 最期に見た永瀬の涙も、未だに忘れられない……。俺の心に突き刺さって、ずっと離れな……」


 全てを言い終える間もなく、俺は嗚咽を漏らした。


 仮通夜の時だけではなく、本通夜の時も、葬儀の時も、火葬の時も全く泣けなかったのに、今になって、涙が止めどなく零れ落ちてゆく。


 砂夜がこの世から消えてしまってから気付いた想い。

 俺にとって、砂夜がこれほどまでに大きな存在だったとは、考えもしなかった。


 と、その時、俯きながら涙を流す俺を、仄かな温もりが包み込んできた。


 自称〈天使〉に、抱き締められていた。まるで、我が子を慈しむように。


「――恨むわけ、ないじゃない……」


 自称〈天使〉の声が、穏やかな川のせせらぎのように、ゆっくりと流れ込んでくる。


「私は、ずっとあなたを見てた。私のために、苦しみ続けてきた姿を……」


 俺はハッとして、涙で濡れた顔を上げた。


 そこには、金髪と蒼い瞳を持つ天使の姿はなく、代わりに、肩より長めの黒髪に、茶味を帯びた双眸の女が、穏やかな笑みを湛えながら立っていた。


 俺は声を発するのも忘れ、瞠目したまま女を見つめる。


「ビックリした?」


 女は肩を竦めながら、俺に訊ねてきた。


 俺はやはり、呆然としたまま、ゆっくりと首を縦に振る。

 まさか、こんな所で砂夜と再会するとは夢にも思わなかった。


「〈天使〉なんてガラじゃないでしょ?」


 つい先ほどまで、『こーんな麗しい容貌を持った魔物がどこにいるってんだいっ?』などと踏ん反り返っていたのが嘘のように、砂夜は照れ臭そうに頬を指先でポリポリと掻いている。


「ほんとは、この姿のままで宮崎の前に出るつもりだったんだけど……、いきなり出たら、宮崎が怯えて逃げちゃうんじゃないかって思って、全く違う姿に化けてみた。でも、どっちにしても脅かしちゃったのには変わりなかったみたいだね」


 悪戯っぽく笑う砂夜に、俺もようやく、「卑怯じゃねえか」と苦笑いを浮かべるだけの余裕が生まれた。


「けど、どうして天使なんだ? 幽霊として出てくるってんならまだしも……」


「なにそれ? だったら私に化けて出てきてほしかったわけ?」


「いや、そうじゃなくて……」


 口調は俺の前に出てきた時よりはソフトになっていたが、どちらにしても、俺を黙らせてしまうほどの気の強さは、生前と全く変わっていない。


 どうしたものかと頭を抱えていると、砂夜からクスクスと忍び笑いが漏れてきた。


「ほんと、宮崎って相変わらずからかい甲斐があるわ」


 砂夜は笑みはそのままで、俺の隣に腰を下ろした。


「宮崎と別れてから、私は、ただひたすら歩いてた。どんなに力んでも、涙は止まるどころか、どんどんと溢れてくるんだもん。凄く困っちゃった。

 泣いて、ずっと泣いて、だんだんと体力も消耗されてきちゃったんだね。すっかり注意力がなくなってて、気付いたら……、自分のすぐ目の前に、眩しい光が猛スピードで迫ってた……」


 ここまで言うと、砂夜の表情がわずかに曇った。


 考えるまでもない。

 それからすぐ、砂夜の生命の灯は消えてしまったのだ。

 ほんの数秒という、一瞬の時間で。


 砂夜もきっと、その時のことを想い出すのは辛いに違いない。

 俺はそう思っていたのだが、全てを伝えなくてはならないという強い意志が働いたのか、砂夜は一呼吸置いたあと、再び口を開いた。


「車に撥ねられたほんのわずかな間に、赤ちゃんの頃から今までの記憶が一気に駆け巡った。いわゆる、〈走馬灯〉ってやつね。その瞬間に、ああ、私はこのまま死んじゃうんだな、って改めて実感した……。

 ほんとは、まだまだやりたいことがあったし、生きていたかった。けど、これも私の運命なんだって思ったら、自分でも驚くほど、すんなりと受け入れてた」


 砂夜は手を伸ばし、俺の頬にそっと触れてきた。


「生きてるうちに、宮崎に私の想いを伝えられた。それだけでも最高に幸せだった。もし、何も出来ずに死んじゃってたら、今でもずっと、魂だけの存在になって、この世をさ迷い続けてたと思うから……」


 にこやかに語る砂夜に、俺は眉をひそめた。



 何故、幸せなんて言える?

 俺は、砂夜を傷付けてしまったのに。

 それなのに、どうして笑えるんだ……?



「――どこまでお人好しなんだよ……!」


 気付くと、俺は砂夜の華奢な両肩を力を籠めて掴んでいた。

 その拍子に、手に持っていたジッポーと手紙が箱ごと地面に落ちた。


「俺は、お前に酷いことをしたんだぞ? 俺があの時、自分の気持ちにちゃんと気付いていたら、お前は……、今でもここにいたかもしれないのに……!」


 肩を揺さぶられた砂夜は、俺の手を振り払うこともなく、ただ、哀しげに笑みながら首を横に振るだけだった。


「宮崎の気持ち、凄く嬉しいよ。けどね、決められた〈宿命さだめ〉を覆すことは、例え神様であっても出来ないのよ。もちろん、時間を戻すことだって……。

 私が宮崎の前に現れたほんとの目的は、私のために、ずっと苦しみを抱えたまま生きてほしくない、って伝えたかったから……。

 宮崎が宮崎自身を恨み続けている姿は、見ているこっちが一番辛いもの……。ボケているようで、実は結構思い込みが激しいのも知ってるから……、ちょっとしたきっかけで、間違いを犯すんじゃないか、って、凄く心配だった……」


 砂夜の指摘に、俺の鼓動が強く波打った。


 確かに、ほんの一瞬でも、砂夜を轢き殺した相手に報復してやりたいとか、自分の存在もこの世から消してしまおうとか考えた事はあった。けれども、実行には移さなかった。やはり、心のどこかで、そんなことをしても砂夜は決して喜んでくれないと分かっていたから。


「――俺は、どうしたらいい……?」


 絞り出すように、砂夜に訊ねる。


 砂夜は、俺を真っ直ぐに見据えたまま、「幸せになればいい」と答えた。


「私の分も生きて、私の分までうんと幸せになってくれれば、私はそれだけで充分。

 宮崎はまだ若いんだし、これから、私よりももっと素敵な人を見付けて、その人と温かい家庭を築いて、悔いのない一生を過ごしてくれれば……」


 砂夜の指先が、俺の輪郭をゆっくりとなぞる。


 俺は愛おしさが込み上げ、その手を握り締めた。


 砂夜は瞠目した。

 今の彼女は、俺の心が読める。

 ならば、この先に何をしようとしているか察しが付いているはずだ。


 俺はもう片方の腕で、砂夜の肩を抱き締める。先ほどとは違い、壊れ物を扱うように優しく抱き寄せた。


 砂夜の瞳が閉じられた。微かに、唇が震えている。


 俺も躊躇いつつ、砂夜に口付けた。


 初めてで、これから、二度と触れ合うことのない唇と唇。

 この柔らかくて温かな感触を忘れたくない。俺は、祈るように強く想った。

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