第10話 Have You Ever Seen The Rain

私たちは国道沿いにあるラブホテルに入った。モスグリーンのひどく派手な建物だ。

部屋の内装の写真が並んだパネルから好みの部屋を選べるのだが、空室は二部屋しかなかった。それぞれ青とピンクを基調とした部屋だ。

「どちらにする?」とヒカルが訊いた。私は「任せる」と答えた。

ヒカルは迷うことなく青い部屋を選んだ。二階までエレベーターで上がると、あとは電飾の矢印が誘導してくれた。


部屋に入っても、ヒカルは大切な話をなかなか切り出そうとしなかった。デニムのジャケットをきちんとハンガーに掛け、ティーバッグの紅茶を二人分作った。ベッドに腰掛け、物珍しげに部屋の中を見回している私と違って、そういう点ではヒカルはとても女らしい。

母親の居ない暮らしが自然と自分の身の回りのことは自分でするという習慣を身につけさせたのかもしれない。

ヒカルの父親は娘が水商売に手を染めていることを知っているのだろうか、

娘の帰りが深夜に及んでも深く考えもせずに飲んだくれているのだろうか。

私は彼女の普段の生活について何も知らない。聞くつもりは全くなかった。私にとって大切なのはひかるがヒカルであることだけだ。そしてヒカルの前では私はレオナである。ただそれだけで良かった。

だから、ヒカルの大切な話が学校を辞めることであっても、狼狽えることもないだろうし、引き留めるつもりもない。彼女が学校から居なくなってもこうやって逢えるなら、何も問題はない。


「今から話すことを聞いたら、レオナは私のことを嫌いになるかもしれない」

ティーカップの取っ手をもてあそびながら、ようやくヒカルは口を開いた。

「たぶん、ならないと思う。その自信はあるよ。学校を辞めることと関係があるの?」

彼女はカップをガラスのテーブルの上にコツンと置くと、決意を固めたように私を見た。

「私はもうすぐここを去らなければならない」

「ここって?」

「私は地球の人間じゃないんだ」

冗談のニュアンスは含まれていなかった。ヒカルはとても真剣な目をしていた。

「それは私はレズビアンであるという告白以上に衝撃的ね」

実際にはそれほど驚いたわけではない。

「やっぱり電波だと思うよね」

ヒカルは力なく笑った。

「いや……ごめん、茶化したりして。先を続けて」

私の脳裏にはあの体育館跡で見たイメージが再生されていた。

あの映像はやはりヒカルの記憶の一部だったのだ。今その秘密が解き明かされようとしている。私はベッドから体を起こし、居ずまいを正した。

ヒカルは紅茶を手に取ると、息を整えるように一口啜った。


「十年前、一隻の宇宙船が地球に不時着したんだ。彼らは幾つもの銀河を渉って太陽系にやってきたんだけど、制御系に重大な故障が生じて、彼らはこの街の近くの山の中に着陸したんだ」


迷彩シールドが施されていたので住民がそれを目撃することはなかった。彼らは――銀河を超えてはるばる地球にやってきた宇宙人という意味だが――他の惑星の知的生命体との接触を固く禁じられていた。すべてを秘密裡に自力で行う必要があった。幸いクルーたちには航海のトラブルに対応できる十分な知識とスキルがあったので、程なく制御系の修理は完了した。

しかし、ただひとつ未解決の問題が残った。彼らのエンジニアたちは制御系の修理に生命維持装置のパーツを流用した。そのためクルー全員の生命維持装置を確保することができなくなった。生命維持装置は彼らが長い航海を送る上で必要不可欠なものだ。

彼らのリーダーは乗組員のうちの一人を地球に遺残す決断を下した。


「その残された一人が私なの」と、ヒカルは言った。

もし彼女の言っていることが真実なら、私は人類にとって偉大な瞬間に立ち会って居ることになる。

「ということは、私の目の前に居るのはエイリアンってわけね。でも見かけはほとんど地球の人間と区別がつかないように見えるけど?」

「この体は地球人のものだから。綾瀬ひかるという少女のね」


隣室からニワトリを締めたような女の喘ぎ声が漏れてきた。エアコンは猛暑に負けまいとコンプレッサーをフル回転させていたが、私の額にはうっすらと汗がにじみはじめている。


「どういう意味?」

「私たちが宇宙船に迷彩シールドを施したとき、不幸なことにその内側に少女が入り込んでいたんだ。そこには強力な電磁場が働いている。私たちはすぐに彼女を救出したけれど間に合わなかった。リーダーは決断した。まだ無事だった細胞の一部を取り出して彼女の肉体を再生し、そこに私の記憶情報を移したんだ」

エイリアンたちの科学は地球の遥か先を行ってるらしい。

「つまり綾瀬ひかるの中身をあなたとそっくりそのまま入れ替えたということ?」

私の問にヒカルは頷いた。


「私という個を成り立たせているのは私が持っている情報の連鎖なの。それは経験や記憶のネットワークと言い換えても良い。肉体はただの器に過ぎない。もちろん肉体の制約によって記憶や経験が影響を受けることはあるけれど、それは二義的な問題なんだ。私を成立させている情報のネットワークが保全されている限りは、別の肉体においても私という存在は保たれる」

「じゃあ、その情報のネットワークをコピーすれば無限にあなたを作れるってわけ?」

「理論的にはそうなる。でも、情報のネットワークは絶えず変化するものなんだ。コピーされた瞬間からオリジナルとは違うものになる。同質性を保つためには同期する必要があるんだ」

「あなたや私を成り立たせているのはただの情報の集まりで、ハードディスクにデータを書き込めば、それで一丁あがりってわけ? いくら完全に情報をコピーしてもそこには意思は存在しないことにならない? コンピューターだってそれを使う人間が居なければただの箱よ」

「意思というものは霊的で高次の存在ではないんだ。脳だって神経細胞の複雑で緊密な繋がりによって機能しているだけで、誰かに命じられているわけではないんだよ。情報のネットワークは自立的で排他的な存在で、他のネットワークと繋がることはない。それ自体が自己完結的なんだ。個というものがあるなら、その独立性によって担保されてることになるね」

「ところでそれが綾瀬ひかるの肉体なら、あなたの体はどうなったの?」

「さあ? 破棄されたんじゃないかな。航海している間は肉体を離れ生命維持装置に入るからね。私たちが宇宙空間を移動するときに使う航法はネットワークに甚大なダメージを与える危険性があるんだ。生命維持装置はその危険からネットワークを保護してくれる」

「つまりここを離れなければならないというのは、その生命維持装置の修理が終わって仲間たちが迎えにくるということ?」


私たちの間に深い沈黙が訪れた。ヒカルは言葉を探すように視線を彷徨わせていた。私は自分の発した言葉の意味を考えていた。


「私たちが初めて接触した日のことを覚えている?」

「ええ、もちろん。一生忘れないと思うわ」

「あの日、仲間たちからメッセージが届いたんだ。今、地球に向かっているとね。彼らがやって来る正確な日付を確認しようとメッセージを返したとき、レオナが現れた」

あのときヒカルは「途絶えた」と呟いた。それは通信が途絶えたという意味だったのだ。

「正確な時間はわからないけど、それはそんなに遠い将来じゃないと思う」

「それでヒカルは私にどうしてほしいわけ?」

私は努めて冷静にそっけなく言った。

「私がこれまで誰とも接触を持たなかったのは今話したような秘密を抱えていたから。それに関心を引くような人も居なかったしね。仲間が迎えに来るのを粛々と待てばいい、そう考えていた。でも、あの日レオナに出会ったことですべてが変わった」

「どう変わったの?」

「あの日、あの瞬間、私たちの心は共鳴した。そんな存在には母星ですら出会わなかった。まさかこんな宇宙の果てに失われた自分の欠片を見つけるとは思わなかった」

ヒカルは私の肩にかかった髪を愛おしげに指先ですくい取った。


あの時私は宇宙にいた。互いに共鳴しあう幻想的な音の織りなすメロディが空間を満たしていた。そこで私は二筋の川をみた。川の水面にはモンタージュのように脈絡もなく貼られた私の記憶の欠片がイメージとなって、通り過ぎていく。もう一筋の川に目を移してみた。そこには奇妙な造形をした巨大な建物が林立する都市の風景があり、天をも焦がすような夕焼けが広がる鉛色の空があった。それが通り過ぎると、世界の灯りをすべて集めたような魚の形をした流星群が窓の外を通過するのが見えた。それはすべてヒカルの記憶だった。

やがて二つの川は一点で激しくぶつかり、一つの川の流れへと姿を変えていく。しかし、もうそこにはどんなイメージも映しだされてはいなかった。

私たちのネットワークはあの日、あの時、繋がったのだ。


「要するに、一目惚れしたんだね!」

一瞬、ヒカルは目を大きく見開いて私を見た。そして目を細めるとクックッと忍び笑いをはじめた。

「なんかへんなこと言った?」

ヒカルはとうとう耐えきれないというように、体をくの字に折り曲げて大笑いした。

「ごめん、ごめん。ほんとその通りだよ。私はレオナに一目惚れしたんだ」

ようやく笑いが収まって、ヒカルは言った。

「別れの日が来て、悲しませることになるのはわかっている。でも、自分の気持ちを抑えることなんかできない。私はレオナが好き」

「そんなに好きなら、ここに残るという選択肢はないわけ?」

「それはできない。私が帰還を拒めば、仲間は私を抹殺する。そしてたぶんレオナも……」

「消されるというわけか」

「他の天体の知的生命体との接触は厳しく禁じられているんだ。それはわたしたちの歴史の苦い教訓でもある」

「なるほど。あなたたちの科学技術の一端でも漏れれば、野蛮人にライフルを渡すような結果に繋がりかねないものね」

言葉にはしなかったが、ヒカルの目は私の言葉を肯定していた。


自分が言うべき言葉なんてもうとっくに決まっていた。

「ヒカルはやっぱり陰険で陰湿で、イジワルね。こんなに夢中にさせておいて、いまさらそんな話をもちだすなんて」

私はすべすべしたヒカルの頬を両手で挟んだ。力を込めて挟むとしょぼくれた猫みたいな情けない顔になった。

私ははじめて自分から彼女に口づけた。そして力一杯抱きしめた。

ヒカルは少し驚いたのか、しばらくされるがままになっていたけど、私の腰を抱いて持ち上げると、そのままベッドに押し倒した。

私たちはもう地球人でも宇宙人でもなかった。互いに求め合う情欲の塊だった。

「愛してる」

ヒカルはそう言いながら、私の胸をキャミソールの上から揉みしだいた。薄い布地が敏感になっている突起に触れて、私は思わず声を漏らした。

手は私の脇腹を愛撫しながら、ジーンズのホックに伸びた。

「ねぇ、あのとき馬乗りになって私にキスしたでしょ? あれは……そのどういう意味だったの?」

「そのままの意味だよ。愛しさが止まらなかった」

ヒカルはもどかしげにホックを外しながら言った。

「一目惚れの瞬間に? 宇宙人ってすごく情熱的なのね」

「嫌だった?」

「嫌じゃないけど、ちょっと怖かった」

「泣いて、逃げ出したもんね」

「でも、今は逃げない。ただその前にシャワーを浴びよう」

ヒカルは手を止めて肯いた。


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