第9話 Whole Lotta Love
1
商店街をどんどん下っていくと、風俗店のネオンサインが明々と灯っていた。寝静まった昼の街から、夜の街へと彷徨い出たようで、自然と体が強ばった。
ファッションヘルスやピンクサロンといった店が通りの両側に身を寄せ合うように並んでいる。派手な電飾の看板の脇には客引きの男たちが通りを歩く酔客に油断のない視線を配っていた。
ヒカルは歩き慣れているのか、さして気にする様子もなかったが、私は自分がさらし者にされているようでどうにも落ち着かない気分だった。
すれ違う男たちが舐めるような視線を投げかけてくる。中には露骨に声を掛けてくる者もいた。
「ねぇ、ヘルス? どの店よ」
べっとりとポマードを塗りたくった革ジャンの男がヒカルの肩に手を掛けた。
街灯の灯りにテカテカ光っているリーゼントの下の顔はどう見ても四十代だ。目当ての物を探し当てたというような薄気味悪い笑顔を浮かべている。陰部を剥き出しにして私と渚の前に立ちはだかった怪人の姿となぜかダブって見えた。
(おかしな真似をしたら、あいつみたいにしてやる)
私は拳を強く握りしめた。そして顎を引いて、男の目を見た。
しかし、私が何か言う前にヒカルは男の手を振り払った。肩に落ちた埃を払うような静かな動きだった。男は一瞬、顔を強ばらせたがタバコを地面でもみ消すと、舌打ちを残して立ち去った。ふっと力が抜けると、背中を汗が伝った。
「一々、反応しちゃダメだよ。あんなのここじゃ挨拶みたいなもんだから」
ヒカルはラブホテルの入り口を顎で指した。明らかに不自然な歳の差のカップルが肩を寄せながらホテルに入っていく。
「若い女が二人、深夜にこんな場所を歩いているんだから、勘違いされても仕方ないさ」
ヒカルは自嘲するように言った。
「ああいうの許せないんだ」
私は目を伏せて言った。
女を快楽の道具のように見下す視線が我慢ならなかった。
「まさか本気であのロックンローラーをなぐるつもりだったの?」
「あれ以上しつこくしたらやるつもりだった」
「歳は食ってるけど、あいつケンカ慣れした目をしていたよ。それに体も大きかった」
「その方がいい。私みたいな小さい女には油断しちゃうからね。人間油断しているときに食らった一撃というのは予想外に効くんだよ。相手をKOするのに強いパンチはいらない。タイミングと角度が合えば大男でも一発で沈めることができるんだ」
小学生の私のパンチは怪人の顎を捉え、脳を揺さぶった。男は仰向けに倒れる瞬間に射精した。男の放った体液は渚の赤いチェックのスカートを汚した。私はハンカチでそれをゴシゴシと擦った。
「このことは二人だけの秘密にしよう、絶対に家の人にも友達にも話してはだめだよ」
私は棒立ちのまま泣き続けている渚に向かって言った。どうしてそんなことを言ったのか今もわからない。汚された渚の姿を人に知られたくなかったのかもしれない。しかし、そんな私の思いとは関係なく、その出来事は渚の心に拭いきれないシミを残した。
それまでの渚はお金持ちの一人娘らしいわがままではあるけど、気さくな性格の女の子だった。教室ではよく男子とふざけあったりもしたし、バレンタインデーにはクラスの男子全員にチョコレートを配るような活発な一面もあった。
しかし、あの夏の昼下がりの事件以来、渚は中身がそっくり入れ替わったみたいに人変わりした。いつもおどおどと人を警戒し、特に男子に触れられることを極度に嫌がった。
中学に入り男子たちの男らしさが増すと、その傾向はより顕著になった。話すことはもちろん、自分の持ち物に男子が触れただけで気が狂ったように喚き散らしたこともある。
そして男嫌いに反比例するかのように彼女は私への依存を深めていった。
2
ヒカルのとっておきの店はドブ臭い路地裏にあるラーメン屋だった。今どき珍しい木の引き戸には赤い布地にラーメンと白く抜いただけの暖簾が掛かっていた。父の部屋に飾ってある昭和のレトロなジオラマにそのまま出てきそうなお店だ。
一坪ほどの店内はカウンターだけで、テーブル席はなかった。初老の客が端の席で壁に凭れて、餃子をあてにビールを飲みながらテレビを見上げていた。
「ちーすっ」と、ヒカルは大鍋の湯気に煽られながら急がしく手を動かしている店主に声をかけると、丸椅子に腰を下ろした。店主は目で挨拶を返しただけで、すぐに元の作業に戻った。餃子の具材を刻んでいるのだろう。ニラの匂いが漂ってくる。
「汚い店だけど、味は絶品なんだ。お店の帰りによく来るんだよ」
ヒカルは水差しを取ると、コップを二つ並べて注いだ。
朱色のメラミンのカウンターは所々、表皮がはげ落ちていて、醤油やラー油の小瓶が並んだトレイのあたりはゴキブリが好んで生息しそうなくらい油でギトギトしていた。
「ラーメンとか中華は汚いお店のほうが美味しいのよ」と、夢乃が訳知りに言ってたことを思いだした。
「お勧めはなに?」
壁のメニューを見上げて私は訊いた。
「味噌チャーシュー! もうね。ここはそれ一択」
味噌チャーシュー八百五十円、ちと高いなと思ったけど、一択となればそれにするしかない。
ヒカルは私が返事する前に、味噌チャーシューとチャーハン二つずつを注文していた。
「そんなに食べられないよ」
私が抗議すると、ヒカルは「ここのチャーハンもレオナに食べて欲しかったんだ。食べ残した分は私が食べるから」
心配しなくていいよというようにヒカルは微笑んだ。
こんなに明るくて優しいヒカルの素顔を皆が知ったらたちまち人気者になるだろう。人目を引く端正な顔立ち、女の子が思い描く理想の王子様のようなすらりとしたスタイル。私でなくてもメロメロになる子が続出するのは間違いない。ヒカルはそうなることを見越して、自分周りに高い塀を築いていたのかも知れないと私は思った。そしてその塀の門は私にだけ開かれたのだ。学校ではひかるのままで居て欲しい、ヒカルで居るのは私の前だけいいと強く願った。
「どうかした?」
私の眼差しに気づいてヒカルは言った。
「どうもしてないよ」
私は甘えるようにヒカルの肩にもたれかかった。
「そうだ、先にこれ渡しておく」
ジーンズのポケットからヒカルは白い封筒を出してカウンターの上に置いた。
「なにこれ?」
「レオナがお店で使ったお金」
封筒の中には三万二千円入っていた。
「いらない!」
私は封筒ごとお金を突き返した。
「お金は大切にしないとだめだよ」
「そんなのわかってる。でもこれは半端な気持ちでヒカルに近づいたんじゃないつていう私の覚悟を示したお金なの。だから受け取れない」
「その覚悟はちゃんと受け止めたよ」
ヒカルも譲らない。
「レオナって頑固だな」
「そういうヒカルも頑固じゃん!」
お金を挟んで私たちはにらみ合った。
「へい! お待ち。ケンカはこいつを食ってからにしてくれ」
店主が二人の間に割って入るように湯気の立つ鉢を二つカウンターの上に置いた。
味噌と胡麻の香ばしかおりが空腹を刺激する。黄金色のスープの真ん中には青々とした葱が山のように盛られている。その周りを厚切りの炙ったチャーシューが隙間なく並んでいた。
「チャーハンもじきににあがるからな」
店主はそう言うと再びカウンターの向こうに引っ込んだ。
蓮華でスープをすくって口に運んでみた。濃厚なうまみが口の中に広がっていく。胡麻の風味が味噌の味を引き立て、なんとも言えない調和をもたらしていた。
隣のヒカルは麺をスープに絡めながら豪快に啜っている。私も真似をして箸で麵を一気に掬いあげた。
「ねえ、お金の件だけどこうしない?」
私は俄に思いついたことを口にした。
ヒカルは箸を止めてこちらを見た。
「二人のデート費用」
もう付き合っていることを前提にしているみたいな言い方に少し気恥ずかしさを覚えながらも私は言った。
「出所はレオナのお金なんだから、それだと一緒じゃん」
「だからそれが無くなったら、今度はヒカルが出すの」
「無くなったらか…………いいよ。それで」
一瞬、ヒカルの表情に影が差したのを私は見逃さなかった。
学校を辞めると口走ったことと関係があるのだろうか。気にはなったが、私はそれ以上深入りはしなかった。
せっかくの良い雰囲気を壊したくなかったからだ。
私たちはラーメンとチャーハンを堪能し店を出た。
時計は零時を回っていた。今から駅に向かっても終電には間に合わない。
国道沿いの夜道には人の姿もなく、時折車が通るだけだった。
ヒカルは何処へ行くとも言わずに黙々と歩いていた。物憂げな横顔をみると声を掛けずらい。
デート費用の話を持ち出した辺りから明らかに彼女の様子がおかしくなった。ひょっとすると私は踏み込みすぎたのかもしれない。今日の私の態度は友達の一線をはみ出してしまっている。彼女はそれに戸惑いを感じはじめているのかもしれない。
「迷惑だった?」
横断歩道が赤になったタイミングで、私は思い切って声を掛けた。
「え、何が?」
彼女は不意を突かれたように私を見た。
「こんなふうにヒカルに付きまとってること」
「付きまとうもなにも、誘ったのは私だよ?」
「でも店にまで押しかけたり、きっかけを作ったのは私だもん」
信号は青に変わったが、ヒカルは渡らなかった。代わりに私の頭を引き寄せると口づけをした。息が止まるような強いキスは背中の芯まで蕩けさせてしまいそうだ。
「うれしかった。レオナの姿を見たとき、心臓が張り裂けそうになるくらい愛おしかった。なのに、レオナはあんな女に肩を抱かれていた。すごく腹が立った」
彼女は私の額に自分の額を押しつけて言った。
「してないもん!」
「してた。あれは私にとって浮気だよ」
「いや、浮気もなにも……」
ヒカルは私を黙らせるように口を塞いだ。差し入れられた舌に自分でも驚くほど積極的に応えた。激しく舌を私が絡ませると、ヒカルは小さく息を漏らし、私の腰を引き寄せた。私たちは一つに溶けあうくらい強く、そして熱く抱き合った。そこが国道沿いの交差点であることも忘れて。
突然、強い光が顔に浴びせられた。バイクに跨がった男がヘッドライトをこちらに向けていた。挑発するように男はエンジンを空吹かしした。
見覚えのある革ジャン。さっきのロックンローラーだ。
「おまえらレズだったのか! こいつはいいや。俺と同じで半端者ってわけか」
その声はまるで呪いのように夜の静寂に反響した。
「放って置いてよ! あんたには関係のないことでしょ」
私は奴に向かって叫んだ。
「半端者にはそれに相応しい末路が待っているのさ。覚えておけ」
「うるさい! もう黙れ! 私たちは誰にも迷惑なんてかけてない」
膝から崩れ落ちるように私はその場に蹲った。
男の高笑いとバイクの爆音が遠ざかっていくのが聞こえた。
「大切な話があるんだ」
ヒカルが言った。
私は彼女の顔を見上げた。その目からはどんな表情も読み取ることはできなかった。
「でも夜の街は私たち二人をそっとしてはくれない。ホテルに泊まることになるけど構わない?」
私は黙って頷いた。
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