第3話 モンスター
1
私は綾瀬の下敷きになり、マットで後頭部をしたたかに打った。フッと意識が飛んだが、それでもほんの一瞬のことだった。
薄く目を開くと綾瀬の冷たい視線が見下ろしている。あわてて体を起こそうとしたが、両肩を押さえつけられて身動きが取れない。見た目の細さからは想像もつかない強い力だ。
「質問に答えて、なぜここにあなたがいるわけ?」
馬乗りのまま綾瀬が言った。
「好奇心よ。綾瀬さんが教室を出ていくのを見かけたから、どこに行くのかなと思って、つい後を追いかけた」
「私が昼休みに教室にいないのはいつものことよ。それなのにあなたは今日、にわかに好奇心にかられたってこと?」
綾瀬は疑いの目で私をみつめている。
押さえ込まれているという状態で、目をそらせば完全に綾瀬にペースを握られてしまう。
「前から綾瀬さんに興味があったのよ。だから話しかけるチャンスを待っていた」
私は彼女をしっかりと見返して言った。
「いつから?」
「ずっと前、一緒のクラスになったときから」
「ふうん。それで興味って、いったい私の何に興味があるわけ?」
私は少し考えてから言った。
「いつもひとりでいるから。どんな人なのかなと思って」
「かわいそうと思った?」
綾瀬は薄く笑った。
「違う」
私は強く否定した。
「じゃあ何?」
「そんなのわかんないよ……」
いったい彼女は私に何を言わせたいのだろう。
背中がじっとりとする。綾瀬の額にも汗がにじんでいる。さっきまでの穏やかな太陽が嘘みたいにギラギラと照りつける。
「普通、女の子が男の子に興味を抱けば、それって好意を持っているってことよね。でも女の子が女の子に興味を持つ場合でも、同じことが言えるのよ」
「え? なに言ってるの? 私は……友達になりたいだけ……」
膝を立て、腹筋に力を込めて綾瀬の腰を浮かせた。しかし、抵抗はそこまでだった。綾瀬はお尻をずらして、すぐに私の膝を押さえ込んだ。体がピッタリと密着して、綾瀬の端正な顔が間近に迫る。
「友達なんていらない。私が欲しいのはこんな関係」
綾瀬はイチゴみたいな赤い舌で唇を舐めた。瞳が妖しい翳りを帯びる。
いきなり押しつけられた唇。生まれてはじめての感触に頭の中は真っ白になっていく。一気に流れ込んだ情報を処理しきれなくてフリーズしたCPUみたいに。
綾瀬の舌が生き物みたいに私の唇をこじあけて、侵入してきた。抵抗しなければならないと思いながら、体に力が入らない。カウントを聞いているダウンしたボクサーみたいに立ち上がろうとする意思と、このまま寝てしまえばいいという誘惑の狭間に私はいた。綾瀬の掌が私の胸に伸びたとき、ようやく私は彼女を跳ね返すことができた。
もうあとは無我夢中だった。恐怖に駆られて私は走って逃げた。後ろから、綾瀬のあざ笑う声が聞こえてくる。
(はめられた。あの女は最初から私をからかうつもりだったんだ)
手に負えるような相手じゃない。彼女はモンスターだ。
ぼろぼろになりながら何とか教室に逃げ帰った。
「どこ行ってたのよ?」
席に着くなり渚が詰め寄った。
「だから急用って言ったでしょ」
「お昼も抜くくらい大切な用って何よ?」
心底、鬱陶しかった。いったい何だってこの子はいつでも私に纏わりつくのだろう。子供の時からずっとそうだった。
「ごめん、ちょっと疲れてるんだ」
私は午後の授業の準備を始めた。
「今日の玲於奈、なんかヘン。ずっと上の空だったし」
今、口を開けば取り返しのつかないくらいひどいことを言いそうだ。
「ほらほら、玲於奈は疲れてるって言ったでしょ。それくらいにして席に戻ろ」
夢乃が渚を無理やり回れ右させて、背中を押した。夢乃は去り際に振り向いて軽く片目をつぶってみせた。
夢乃は大人だ。私たち三人、いや美亜も含めて四人のバランスをいつも考えて立ち位置を決める。もし彼女が居なかったら、私は渚をとっくに持て余していただろう。
午後の始業のチャイムが鳴っても、綾瀬は教室に戻ってこなかった。数学の教師が綾瀬の不在を気にとめなかったのは早退の届け出がでていたからかもしれない。
午後の授業は何が何だかわからないまま過ぎた。
どれだけ追い払おうと努力しても、綾瀬の感触、匂いがまとわりついて離れない。あんな出来事の後では英語の単語も数学の公式もどうでもいいことのように思える。
放課後になると、私は「職員室に寄るから」とだけ夢乃に告げた。渚は隣でそっぽを向いていたが、かまわず教室を出た。
2
私が職員室に姿を見せると森島碧は書きかけの書類を指さし、「これを片付け次第、すぐに行くから相談室Bで待っていて」と、言った。
彼女は私を見ても大して驚いた様子はなかった。私がやって来るのを予め知っていたかのような自然な対応だった。
相談室は廊下を挟んで職員室の向いにあった。三つ並んだ扉は右から順にABCと並んでいる。Aの部屋には使用中の札が掛かっていた。
私はBの部屋に入ると布張りのチェアーに腰掛けた。六畳くらいの部屋は熱気でむっとしていた。会議用の長いテーブルの上にエアコンのリモコンが置かれている。点けようかどうか迷っているうちに森島碧がドアを開けた。
「うわっ、暑いわね。この部屋」
森島碧は部屋に入るなり壁のスイッチに手を伸ばした。エアコンが鈍い音を立てて回りはじめた。
「どう、首尾の方は?」
彼女は私の向かいに座ると、一週間ぶりに会った友達に話すみたいな口調で言った。
グレーの麻のジャケットに胸元を大きくカットした山吹色のサマーセーターをラフに着こなしている。相変わらず教師らしくない。顔つきからして、こちらの要件は先刻承知ということか。
「その事なんですけど、やっぱり私には無理みたいです」
できるだけ冷静に言った。
「彼女と何かあった?」
見られていたんじゃないかと、一瞬ドキリとした。
「いえ、何も……接触する前にあきらめました」
フッーと彼女は口を尖らせて、息を吐き出した。
「それならいいけど……昼休みのあと、綾瀬さんが早退届けを出しに来たから、ちょっと気になっていたんだ」
教室に戻らなかったのはそういうことか。すべてが計算されていたような気がして、背筋がぞくっとした。
「淺香さんならと思ったんだけど、やっぱり無理か。わかった。ごめんね、変なこと頼んで」
森島碧は意外なほどあっさりと諦めてくれた。なにか私は吹っ切れないものを感じた。彼女なら理由を問いただし、あの手この手で説得してくると私は予想していた。森島が綾瀬にお節介を焼くのにはもっと根深い理由があるのだと思っていたからだ。こんなに簡単に引き下がられては拍子抜けもいいところだ。もっとも、私では役者不足だと気づいたというなら、返す言葉はない。
いじめっ子に捕まった子猫みたいに弄ばれてしまったのだから。
「いえ、お力になれず申し訳ありません……でもなぜなんですか? 担任という立場はわかりますけど、先生の場合、綾瀬さんに肩入れするのはもっと別な事情があったんじゃないんですか?」
少し皮肉っぽく私は言った。
森島碧は何かを探すようにジャケットのポケットに手を入れた。私の視線に気づくと、「話題がマジになっちゃうと、ついタバコに手が伸びちゃうんだ」と、照れくさそう笑った。
「タバコ吸うんですね」
「意外? 私って結構、不良よ。ここだけの秘密だけど、高校生の頃から吸ってたんだから」
彼女は首をすくめて、人差し指を唇に当てた。いちいちオーバーアクションなのは相変わらずうざいけど、私は少しだけ今の彼女に親しみを感じた。
「校内は全面禁煙だからつらいでしょうね」
彼女は首を振った。
「マジメに先生してるときはそうでもないんだ」
「じゃあ、今はマジメに先生してないんだ」
「少し踏みはずしてるかもね……私がなぜ綾瀬さんに肩入れしてるかって話だったね。やっぱりそう見えるよね」
森島碧は足を組み替えた。そしてリモコンを取り上げて、温度を下げた。
「まあ、淺香さんなら話してもいいか。綾瀬さんは家庭に問題を抱えているんだ」
「問題?」
「彼女、母親が小学三年生の時に家を出て、それからはずっと父親と二人暮らしなの。問題というのは、その父親でね。定職にもつかず昼間から酒ばかり飲んでるロクでなしなの。生活は綾瀬さんがアルバイトして支えている。校則で禁止されているのは知っているけど、止めろなんてとても言えない」
完全に教師という立場を離れて、友達に話すような口調だった。
確かに問題と言えば問題だが、今どきの世間にはよくある話だ。
「それだけじゃないんでしょ?」
「私の生い立ちと同じなんだ」
森島碧はポツリと言った。
「どういうことですか? 先生のお父さんもアル中だったんですか?」
「腕のいい職人だったんだけどね。仕事中の事故で体が不自由になってからは、母に働かせて、お酒ばかり飲んでいたわ。両親はいつも喧嘩をしていた。最後は父の暴力。私と妹は母のすすり泣きを子守歌代わりに聞いて育ったようなものよ。妹はね、足が不自由なの。父に階段から突き落とされた母を庇って……」
森島はそこで言葉を詰まらせた。
愕然とした。彼女の話は私が森島碧という女に抱いていたイメージを簡単に突き崩した。物わかりの良い両親のもとに育ち、多くの友達に恵まれ、明るい青春を謳歌し、適当に羽目ははずすけど、コースからは絶対に外れない、典型的な要領の良い優等生。そんな私のイメージとはほど遠い生い立ちだ。
「同じ境遇の綾瀬さんに思入れがあった。そういうことですね? それはわかったけど、なぜ私に白羽の矢を立てたのですか?」
「ほんと冗談みたいに聞こえるかもしれないけど、似てたの。私の恩人で、なおかつ親友だった人と」
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