序章


―――辺りに降り注ぐ、夏の日差し。

   何一つ変わらない、日常。

   そんなある日、あの人は目の前に現れた。



                  ◆◇◆



「あ、暑い…………」


 私は額に流れた汗を拭った。



 時は、夏休み。

 それも、あと少しで終わりそうな頃。

 私――――黒咲くろさきかなえは一人、道を歩いていた。

 はぁ〜、とため息をつきながら。


 それもそのはず。

 私は中学三年生なのだ。

 これでほとんどのみなさまはお分かりだろう。

 私が何故、勉強に励まなくてはいけない理由が。

 だから今日も……というか、この夏休み中ずっと塾に通い詰めだ。いわゆる『夏期講習』というもので。

 いい加減、疲れた。

(受験生っていう身分を返上していいって言うのなら、今すぐやってやる!)

 完全に気持ちがヤサグレている。

 これも、連日連日の塾通いのせいだ(多分)。

 ただ、本当にグレるわけにもいかないし(そんなことしたら、今までの努力が台無しだ)、かと言って一度始めたからには勉強から逃げるわけにもいかないし(塾代払ってくれている親に申し訳ない)。

(ああ………本当に現実とはままならないものだなぁ………)

 本当に、その通りである。

 現実とは、いつも楽しいもんじゃない(それはわかっている)。

 が。

 今ここで、“それが人生だよ”なんてことを笑顔で言ったやつがいたら、即刻殴ってやる。もちろん、問答無用で。

 そんなちょっと物騒なこと(?)を考えてしまうくらい、私の頭はおかしくなっていた。


 私はもう一度、額の汗を拭った。

 暑いことこの上ない。

(まあ、こんな時間帯だしね…………)

 私は右腕につけた、腕時計を見た。

 時計の針は、ちょうど正午を過ぎた頃だ。

 いつもなら、まだ塾にいる時間である。

 それも、だるそ〜に弁当をつっつきながら。

 しかし、今日は違った。

 なぜかお昼前に夏期講習が終わったのである。

 理由は知らない。

 まあ、知りたくもないけど。

 というわけで、当然、こんな真っ昼間に道行く人もなし。

 道どころか、近くの公園にも人っ子一人居そうにない。

 みんな、この暑さで家に引っ込んでいるんだろう。何と言ったって気温は38度越え、これじゃあいくら元気の塊である小学生も参ってしまうに違いない。元気なのは、もはや騒音レベルで鳴く蝉の声だけだ。

(いいなぁ〜、私だって家でゴロゴロしたりアニメみたりラノベ読みたい………)

 ついつい、したいことが頭に浮かんだ。

 どれもこれも受験勉強のせいで、最近出来ていない。

 そのせいで、鬱憤という鬱憤が溜まりに溜まっている。


 私は空を仰いだ。

 夏としては珍しく雲一つない、青い空。

 この空の遥か彼方には、入道雲があるのだろう。

そんな風に空を眺めていたら。


「…………ん?」


 ふと視界に黒いものが横切った。

 それも蝶のように、ひらひら、ひらひらと。

 それが、まるで秋の落ち葉のように、こちらへと落ちてくる。

(こんな所に、真っ黒な蝶なんて、いたっけ?)

 それとも、地球温暖化のせい(ほとんど人間の行いのせい)で、ここら辺にはもともといなかった南の方の蝶々か?

 しかし、そんな私の考えも、一瞬にして役立たずになった。

 その黒蝶は、私の目の前でいったん静止すると、眩い光を放った。

 私は思わず、瞳を閉ざす。

 その光が、消えた時。

 もう一度、目蓋を開けた私は、目の前の光景に息を飲んだ。

 そこにいたのは。

 全身真っ黒い服を着た、男の人。その人は、何と宙に浮いている。

 私は一瞬、カラスかなんかなに間違えそうになった。だってそのぐらい、真っ黒な服を着ていたから。


―――黒い天使。


 そんな言葉が思いついた。



                 ◆◇◆



「これが、姫さまか………」


 その人は、訳のわからないことを言った。


「……………………………は?」


 一瞬、私の目が点になる。

 ナニ言ってんの、この人?

 この暑さで、頭のネジが緩んだのか。

 しかし、冗談を言っているようには見えなかった。この、黒装束を纏った人は。

 しかし、言っている言葉が、内容が明らかにおかしい。

 大丈夫か? もしかして、どっか病院でも紹介してあげたほうがいい? 

 と、思わず私が思ってしまうくらい、ひどく現実離れしていた。

 そんな、私の考えなど知らず。

 彼は、ひとしきり私を眺めると、その重そうな口を、再び開いた。


「おまえ、今日死ぬぞ」


 初対面でそれを言われたら、誰だって激しく動揺するだろう。

 だがしかし。

 私はいたって落ち着いていた。


「ふぅん。………別に、いいよ。私は構わない」


 ついでに小さな笑みを浮かべながら。

 いいよ。

 このつまらない日常を変えてくれるなら。

 多分、これは現実逃避願望大の私が創り出した、幻でしょう?

 私は薄く笑った。

 夏の日差しの中で。

 それが、最期の言葉になるとは知らずに。



 トラックの――――――それも大きな急ブレーキの音が聞こえた。


 その音が、ひどくゆっくりに聞こえる。


 視界が傾いた後…………私の記憶は、そこで途絶えた。




―――こうして。私は死んだ。


   そして。冥界の王女になった。


(………………。ってええぇっ! ええぇぇぇぇ――――――――‼︎)

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