第四章 龍の射手
抜けるような蒼天の一日、劉厳を乗せた総員五十人の帆船は広州
珠江口まで一気に南下し、南海に出ると陸地を右に見て、ひたすら西に進む。東は大海が果てしなく続くーいまの太平洋だ。水平線がゆるやかな弓なりを見せて天空に接している。丸二日海上に浮かび、三日目の払暁、暗い海面がしだいに朝焼けを映し出すころ、前方に島が現れた。
「これが
いまは海南島という。起きぬけの仁安が、星を見て夜を明かした劉厳の耳元でささやいた。星の動きで位置を測るのは航海術の基本で、天文・雲気とも方術修行の一環だ。劉厳は、この技術を葛業から学んだ。
海の男は朝が早い。すでに全員が甲板に集まり、東方の旭日に向かって遥拝している。
「海峡を抜け直進すると交州だが、いまは立ち寄らず、このまま海岸沿いに南に下り、チャンパに直行する。戦の荒仕事が待っているから、こんばんはよく寝ておけ」
常になく緊張した面持ちで仁安が指示した。分かったとうなずきながら、立ち上がって伸びをした劉厳は、帆柱のほうを見た。葛業が黙々と帆を降ろし、たたんでいた。
ーーまてよ、この帆船は交易船ではなかったのか。戦の荒仕事とはなんだ。
葛業が劉厳を呼んだ。舳先に立って前方を
「若よ、鏑矢をつがえて、いつでも放てる用意をしておけ」
海流は陸沿いに南に向かっている。一見、のどかなベトナムの岸辺の風景だ。
後代、海の
「ハロンは下龍と書く。文字どおり、龍が降り立った湾だ。三千個をかぞえるさまざまな形の小島が、景観をもたらしてくれている。いまでこそ鏡のように静まりかえっているが、遠い古代、このあたりの海は押し寄せる大津波で、たえず
劉厳を脇におき、仁安は淡々とものがたった。葛業にも聞かせている。
「わしの生涯賭けた仕事も、これに似ている。封州一帯の河川からはじめた漕運権の独占支配はいまや嶺南全土の河川におよび、みかじめ料(運行取締り料)は莫大な利益を劉氏にもたらしてくれている。陸上の兵権支配にあわせ、沿岸一帯の海上もわが水軍の目の届く限り、劉氏の支配下にある。洋の東西を問わず、運行する船舶からはすべてみかじめ料をとり、海盗の襲撃から守っている」
「かれらが支払いを拒否した場合は、どうなりますか」
劉厳は、腹にたまった疑問を口にした。仁安は噛み砕いて、ていねいに答えた。
「支払いを拒むなら、われらは安全を保障しない。海盗の蹂躙するにまかせ、そののち海盗を一網打尽にする」
「海盗に奪われた積荷や人はどうしますか」
「気の毒だが、見せしめになってもらわなければならない」
人も積荷も海盗の所有物として没収する。人は奴隷として売買されるという。
「それくらい厳しい掟がなければ、海の安全は保障できない。われらもまた命がけで海に対峙している」
水軍がなければ、沿岸一帯は海盗のほしいままに
「唐朝の官軍ではない。劉氏の私軍が海盗や国外の侵略から嶺南の海を守っている。台風や津波の被害を最小限に抑えるため防波堤を高く築き、船舶の避難する
だから、みかじめ料を取るのはとうぜんの権利であり、支払いを拒否するものは応分の報いをうけなければならないと、仁安はいう。
船はベトナムの中部沿岸にさしかかっている。いまのフエからホイアンにかけて、この時代、東西交易の中継地として栄えた港町が海岸に沿って軒を連ねている。
小高い山々が海に面して迫ってくるのが見える。細長い帯状の国土を形成している。銀白色の砂浜が青い海に対比して美しく光っている。
森林が切れて開けた山上に、海に向かって立つ寺院がいくつも散見される。
「チャンパの祠堂、トードゥオンだ。信仰心の篤い、敬虔な王国だが、軍隊が弱い。ことに海上は野放し状態で、ここを通過する交易船がたびたび海盗に襲われている。われらは王に請われてこの海盗を退治しに来た。海盗の本拠地の島を襲い、根絶やしにする。そのうえでここに劉氏水軍を配備し、東西交易の航行の安全をチャンパの海でも保障するのだ」
仁安は日ごろの好々爺の表情を一変し、厳しい目つきで前方をにらんでいる。
「劉隠は陸に王国を建てる、弟のおまえは海の王国をめざせ。『武装商人』でも『
とつぜん船がかしいだ。小島の陰から大小さまざまな大きさの船がいきなり躍り出て、劉厳らの帆船を取りかこんだ。そのうちの一隻が体当たりをかけてきたのだ。
「われらはチャンパ王から許された交易取引権を持つ唐土の商船である。ただちに引け。さもなくば、海盗の一味とみて、一隻残らず打ち沈め、南海の藻屑にしてくれる」
舳先に立って、葛業が大声をあげた。嶺南の方言だ。チャンパでも大概通じる。葛業が振り返り、目で合図した。
「ここで鏑矢か!」
劉厳は大弓を手にし、船上で仁王立ちになった。長い両腕をぞんぶんに開いて弓弦を引き絞り、敵船の帆柱めがけて鏑矢を射掛けたのだ。鏑矢は唸りを上げて飛び進み、帆柱をふたつに折り裂いた。味方はどっと沸いた。敵の海盗は度肝を抜かれて声もない。続けて二本目、三本目の鏑矢が唸り声を立てて、次の獲物を追った。海盗の船はいずれも舳先を返した。
やがて沖合に、劉氏の水軍が列をなして姿を見せた。葛業は軍列に旗を振った。
「われらが
劉厳は初陣の海戦で圧勝し、「龍の射手」の異名をとった。
「唸りを上げて迫ってくる鏑矢が龍の顔に見え、金縛りにあって身動きできなかった」
捕らわれた海盗が、口をそろえて誉めそやした。しかし劉厳は追従に乗らなかった。
「おれの功など軽い。すでにおじじは、海盗の掃討とその後の治安維持を条件に、チャンパ領海の運行取締り権を得ている。真の功績とはこれをいうのだ」
葛業が劉厳のことばを仁安に伝えた。仁安は目じりをこすった。涙もろくなっている。
「あの劉厳がそこまで成長したか。連れてきた甲斐があったというものだ。葛業よ、こののちも劉厳がこと、よしなに頼む」
もはや孫に龍を望まずともよい。どのような形にせよ、自分の遺志を継ぎ、南海に海の王国を建ててくれれば、己の人生は報われる。
仁安は老衰の身を船室の寝台に横たえ、眠るがごとくに息を引き取った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます