Prologue2 襲い来る過去
生まれ来る者、去り逝く者
(右、左……右、左……左)
視界が左右にぶれる。いや、俺はそう動いている。
相手の顔は分からない。だが、その相手につかまれた途端、一気に投げ飛ばされた。
そうして目が覚めた。
「う……」
ぼんやりしていて気づくのが遅くなったが、体の上半身がベッドから落ちていた。
――また負けた。
はあ、と息をついて右手で額を押さえた。
今見た夢は警察の人たちとの組み手の夢だ。最近何度も見る。
だが、一度も勝てない。誰にも勝てない。
当たり前か……って考えて負け癖がついてしまいそうだ。一度捕まると柔道や柔術、捕縛術であっさり床に叩き落される。そうなってしまったらどんなにもがいても抜け出せない。まあ、先日までなんの武道もやっていない素人、勝つどころか善戦するほうがおかしい。相手は対人戦のプロだ。勝てるわけが無い。
だけど――
(いつかは勝てるぐらいに腕を上げなきゃならない)
額に手を当てていた右手を見る。
エルガイアの右腕。
姿形は自分自身の腕に見えるが、それは擬態能力のせいであり、本当は筋肉質な腕にプロテクターのような硬い皮膚がついている銀色の腕だ。
ここ最近ずっと学校が終わったら、舘山寺さんと木場さんがいる中央警察署での道場でひたすら警察官達と組み手をして体を鍛えている。
(……強くならなきゃ)
とりあえず、体を起こして立ち上がり、大きく体を伸ばしてから自室を出てキッチンへ向かった。
ぐうぅぅぅ……
「はらへったー」
朝食の臭いに誘われながら食卓に座る。
今日は味噌汁。焼き鮭。それから納豆か……嗅覚が鋭敏になっているが、なぜか納豆はぜんぜん臭く感じなかった。死んだ親父は納豆が嫌いだったが、俺は好きなほうだ。
そして欠かせないのがどんぶり飯。
米は力だとは良く言ったもので、もうずっと朝食はパンよりも白飯をリクエストしていた。パンは消化が早くてすぐに腹が減る。
ああ、体がクソだるい。筋繊維があちこち切れていて全身が筋肉痛だ。
ぼーっとキッチンで朝食の用意をしている祖母を見ていると、大きなあくびをしながら叔母がやってきた。
自分と同じように食卓に着く。
「できたわよ」
祖母が焼けたばかりの鮭をテーブルに置いた。
「うい~っす」
「朝からなにその声」
俺の生返事に叔母がぴしゃりといってきた。
「体が痛てえ……」
「しゃきっとしなさいよ、もう」
「あ~い」
なんか最近、叔母の小言が多い気がする。しょっちゅうイライラしていたり、俺の小さな言動、ぱきぱきと指を鳴らしただけでも「それ怖いからやめてくれる?」と言うから、もう一挙一動に文句ばかり垂れてくる。
かと思えば、気だるげにソファーを占領して女性雑誌を読みふけっていたりもする。
正直、こっちのほうがうっとおしい。
「いただきまーす」
叔母の声は無視して、どんぶり飯を手に取ってがっついた。
おかずの焼き鮭はちょっとだけ摘み、ありったけの白飯を口いっぱいにほおばる。
「たっくん、食べ方が汚いんだけど」
「うるひゃいなあ……」
「うるさいって何よ」
朝からイライラしている叔母を無視して白飯に夢中になる。
一体何が気に入らないのか……。ここまで細かく突っつかれるとむしろ相手をするのも呆れてくる。
そんな中で祖母は「やっぱり男の子よねえ」とこちらを楽しげに見ていた。
朝から俺と叔母とでそんな口喧嘩しながら、それを楽しそうに眺める祖母。
これが最近の我が家の食卓風景だった。
だが――
「うっ!」
食事中の叔母が突然にえずいて頬を膨らませた。
ばっと立ち上がりトイレに駆け込む。
なんだ、突然?
叔母がトイレで嘔吐している。
そしてはっとなった祖母が立ち上がり、頼子姐さんの元へ駆け寄る。
祖母があまり聴いたことのない切羽詰った声で姐さんへ、
「頼子、アンタまさか……」
叔母がそれに応えるように、お腹をさすった。
「わからない。だけど……」
いったい何なんだろうか? 体調が悪い?
…………。
あ――
気がついた。気づいてしまった。
「今日は仕事を休んで、産婦人科ね」
祖母が真剣に言っている。
「……うん」
「どこがいいかしら」
「全然考えてなかったから。ドコにすればいいのか分からない」
「あなた達が生まれた産婦人科はもう潰れちゃったし、中区の病院にいきましょう。電話して予約からかしらね」
動揺している姐さんの背中をさすりながら祖母がなだめる。
「調べるなら検査キットでも」
「だめよ! ちゃんと診てもらわなきゃ」
それから祖母と叔母で病院やら電話予約やらバタバタし始めた。
まさか……自分にとってはまさかの事態だった。
妊娠。叔母が妊娠したのかもしれない。
バシャ! バシャバシャ!
顔を洗って、ぴしゃりと頬を叩く。
タオルで顔を拭いて、ふうとため息をつき。
そして無心になった。
今日はなんて日だろうか……。
叔母がソファーに座って体を休めていた。
祖母は病院へ電話をかけて予約を取っていた。話に聞き耳を立ててみると、どうやら待ち時間が長くなるが外来で受け付けてくれるらしい。
とりわけ、心配しても自分ができるようなことは無いようだ。
自分の部屋に戻り、学校の制服を着る。
真っ白いワイシャツを着て、ズボンをはいてベルトを着ける。靴下を履く。
ただしネクタイは『黒』
本来は学校指定の銀色のネクタイだったが、今回は事情が違う。
そしてブレザーの上着を――一応着ておくか。
もう六月も終りに差し掛かり、梅雨も晴れ始めて気温も上がってきた。学校でも、ブレザーを脱いでワイシャツネクタイで過ごす生徒も多くなった。そろそろ衣替えの時期だ。
あとは持っていくバッグだったが。
肩掛けのメッセンジャーバッグ、ワンショルダーのバッグ。トートバッグ。
……これも無難に学校指定のバッグにしよう。
中身はそれほど大したものは入っていない。財布に学生証メモ帳は制服に入っているのでバッグはほとんど空っぽだ。せいぜい暑くなって脱いだブレザーを淹れるために持っていくような、そんな程度だ。
ピンポーン
タイミングでも狙ったかのように、支度を終えた途端インターフォンが鳴った。
小走りで自室を出る。
「俺が出るよ」
祖母と叔母にそう伝えて玄関口へ向かい、ドアを開ける。
「やあ、おはよう。拓真君」
「おはようございます。舘山寺さん」
中央警察署の警部補、舘山寺晃一さんが玄関前に立っていた。
「準備は良いかな」
「はい、大丈夫です。ちょっと待ってください」
いったん自室に戻り、空っぽの学校バッグを持って家を出ようとする。
「拓真」
「うん?」
「これ、忘れちゃ駄目でしょ」
祖母が白い封筒を差し出してきた。
――それは香典だった。
「ああ、ありがと」
「粗相の無いようにね」
「わかってるさ」
一度渡された香典をじっくり眺めてから、呼吸を整えるように大きくため息をつく。
今さっき起こったどたばたも、気持ちを切り替えて、玄関口にいる舘山寺さんの元へ向かった。
今日は中央警察署、機動隊員隊長の子安静雄さんの、
――葬式だった。
―――――――――――――――
「ええーーーーー! お姐さんが妊娠ですか!」
車内での突然の優子の大声に耳がキーンとする。
頬に両手を当てて驚く優子。
「ってことは、先輩の血が通っているハーフの赤ちゃんが! 男の子だったら先輩の要素に白人男性のハーフでイケメン! 女の子だったらああもう可愛いすぎてたまらないいいいい!」
「まだ本当に子供ができたかはわからねえよ」
「はっはっは、拓真君も十ヶ月後にはお兄さんになるんだね」
運転している木場さんが簡単に言ってきた。
「はっ! 先輩がお兄ちゃんに! 先輩が赤ちゃんを慣れない手つきであやしたり、一緒に遊んであげたり、高い高いしてあげたらびっくりして泣かせちゃったり、一緒にお昼寝とかして。さらにさらにその経験が私との赤ちゃんにも!」
何もかもが飛躍しすぎてツッコミが追いつかない。
ここまで盛り上がられると、逆にこっちが冷めてしまう。
まるでエネルギーでも奪われているかのようだ。
「第一、姐さんは別に妊娠しているような素繰りは全く無かったよ。なんかだるそうにごろごろしてたり、かと思えば俺のする事なすことにイライラして、食べ方にまで文句を言ってくる。全然元気だよ、たまに何か頭とか腰とかが痛いとかぶつぶつ言ってるけど。姐さんが妊娠したなんて……なんつーか対岸の火事みたいな感じってやつだよ。全く実感がねえ」
「…………先輩」
「あん?」
「それ、妊娠の初期症状ですよ。大体妊娠して二週間ぐらいから起こる症状です」
「え……」
「それで今回の朝のつわり。これってもう妊娠確定じゃないですか」
「ええーー」
「御懐妊おめでとうございます」
「俺に言うなよ!」
「二人とも」
助手席に座ってずっと黙っていた舘山寺さんが言ってきた。
「そろそろ到着するよ。ここをもう少し進むと子安さんの家だ」
「あ、はい」
「はい」
落ち着き払った舘山寺さんの鶴のひと声に、車内の中が静まり返った。
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