イッショニオフロニハイル!
☆ ☆ ☆
「なんか、えらく立派なんだが……」
純和風の瀟洒な温泉旅館――そうとしか言いようがない。伊豆の修善寺にある夏目漱石の定宿「菊屋」と比べても遜色ないレベルだった。
「大丈夫ですよ。うちの親の知り合いが経営者なんです。ですから、安く泊まれるんです」
とはいうものの、普段はスーパーで値引きした惣菜なんぞ買ってる身からすると、目の前の高級感溢れる玄関を見ただけで、あとずさってしまう。
「そもそも来未なんか、あのメイド服姿で入れるのか……? 問答無用で叩き出されるんじゃないのか……?」
「なんとかします。さ、先輩、まずは温泉にでも入ってリフレッシュしてください。わたしは、挨拶してきますから」
旅館に入り、俺は若女将に案内されて、部屋へ入った。なぜだか、俺は蔵前のイトコということにされていた。……まぁ、確かに赤の他人が女の子と同じ部屋に泊まるわけにはいかないからな。って、俺、蔵前と同じ部屋に泊まるのか?
なんか、とても……いやな予感がしている。
なぜだ? この胸騒ぎ。ドキがムネムネしているのが、非常に気持ちが悪い。いや、ムネがドキドキだ。埴輪型の土器がムネムネ動いてたら、すごい怖い。
「まぁ、まずは風呂に入るか。風呂だけが俺の人生における唯一のオアシスだ。人生は思い通りにならないが、風呂は裏切らない」
浴衣とタオルと着替えを手に、階段を下りて、一階にある大浴場に向かう。が、タイミング悪く掃除中――。
『ご迷惑をおかけしております。家族風呂を解放しております。そちらをご利用ください』となっているので、廊下の奥まったところにあるそこへ向かってみた。
そこには、『末広新次様』と立て札がしてある。
……ははぁ、なんかしらんがヴィッッップ待遇じゃないか。人を疑わないピュアな心の持ち主である俺は、そのまま暖簾をくぐって、家族風呂に入った。
服を脱ぎ、タオルでシャイなマイサンを隠して、ガラガラと引き戸を開ける。総檜造りの豪華な浴槽を前に何度も満足げにうなずきながら、まずは身体を洗うべく、洗い場に座った。
「ふんふんふ~ん♪」
身体を洗いながら、自然と鼻歌なんかも出てくる。いい香りだ。リラックスできる。だから、気がつかなかった。他の人物が入ってくる可能性なんて。
「……先輩、お背中流しましょうか?」
「そうだなー♪ お願いしちゃおっかなぁあああうぅあおうあぁあうぇええええ!?」
俺は椅子から転がりながら、なんとかタオルで股間を隠して、声の主を見た。
「くっ、……クックックッ……蔵前……!」
「なんですか、その悪役のような笑い方は」
「ち、ちげえっ! 笑ってうんじゃなくて動揺してんだ! なっ、なんでおまえ風呂俺いるぅ!?」
「先輩、日本語がかなりあやしいです……落ち着いてください……」
バスタオルを全身に巻いているとはいえ、その……む、胸の谷間とか……見えていると認めざるをえない! いやあああーっ!
「きゃーっ!」
俺は慌てて両手で視界を覆った。
「ですから、女子みたいな反応はやめてくださいよ。なんで先輩はいつもそーいう反応なんですか」
「ばっ、おっ……お前が、常軌を逸しているからだ!」
「失敬な。恋する乙女を舐めないでください。……それに、常識に従ってたら面白い小説なんか書けませんよ。芸術は爆発、文学は暴発ですから」
「そんな格言聞いたことねぇ!」
俺は情けなくも動揺していた。な、こいつ着やせするタイプ……ってか、健全な男子諸君はこの状況で平静を保っていられるのかね? ど、どうしよう……どうしても、おっぱいに目がいっちゃう。
「な、なんだ……なにが狙いだ? あの、ほんと……ひどいこと……しないでね?お、お願いだから……」
「ほんと、先輩って、切羽詰まると乙女ちっくになりますよね……まぁ、今回はわたしも先走っていることは認めます。ただ、やっぱりいつまでも答えを待ってられません。ここは迫ります。ずずい」
「や、やめろっ! ここをどこだと思ってるんだ! いままで築いてきた心洗われるピュアでハートフルな青春物語が破壊されてしまうんだぞ!」
「そんな要素なかったと思いますが……。ともかく、洗いますよ。貸し切り時間長くないですし」
「くっ……お、おーけー、わかった。……せ、背中を流すことだけは……許可しよう。お、俺の素肌に指一本でも触れたら叫び声を上げる」
「触れないと、背中、流せないじゃないですか」
「な、なら、タオル越しなら許可する!」
謎の攻防。こんなわけのわからない緊張感は人生十七年で初めてだ。
「ふふっ……もうっ。先輩はかわいいんですから」
妖艶に微笑む蔵前に、胸の鼓動がヒートアップ。やばい、なんでこんな色気たっぷりなんだ。まさか蔵前からここまで積極的な色仕掛けをされるなんて思わなかった。
「じゃ、妥協します。ほら、先輩、背中向けて座ってください」
ああ、もう俺は蔵前のことがわからないよ……。言われるままに、背中を向けて(もちろん、股間のタオルはしっかりと離さない。ダメ、ゼッタイ)、椅子に座る。
こう、なんというか……相手が見えない状態で、背中を……素肌を晒すのは……すっごく恥ずかしい。
「ふふふっ……」
蔵前の意図のよくわからない笑いが、すげー怖い……。
俺、本当にこれからなにされるんだろ……。こ、こういうときは素数を数え……るのは数学が赤点レベルの俺にはできない。
えーと、鎌倉幕府の執権全員を思い出そう。えーと、初代、北条時宗……いきなり間違った!
――ぬるっ。
「っひょぉおおおおおおおおおおおおう!?」
背中にヤバい感触を感じて、俺は奇声を上げた。
「ちょ、ちょっと先輩。ちょっとボディソープ垂らしただけで、騒がないでください!」
「ハァハァ……待て。やはり、俺には刺激が強すぎる……!」
「別に背中流すだけじゃないですか」
「だ、だがしかしっ」
「貸切時間そんなに長くないんですし、さっさと洗っちゃいますよ……もう無駄な抵抗はよしてください」
「あ、ああああうぅう……」
蔵前に強引に押し切られてしまって、背中をタオルでゴシゴシされてしまう。
う……ぅうっ……? き、きもちいい……なんだこの未知の世界は……。
人生十七年間で、他人に背中を洗われたことつてあつただろうか。
だが、ここで流されてはいけない。背中を流されても、俺は状況に流されない。
ハァハァ……つらい、きつい、くるしい、かなしい、むなしい、世知辛い、鬱勃とする、この世は地獄……。
置かれた現状と正反対の言葉を思い浮かべて、煩悩を振り払う。こんなところで、理性を失ったらだめだ。
俺が葛藤している間も、蔵前は無言で、丹念に背中を洗ってくれる。……その静寂が、息苦しい。
「……どうですか、先輩? 気持ちいいですか?」
「あっ……あぅぅ……」
俺は、弱った動物みたいにうめく。
「前は……どうしますか?」
いま、ひどい台詞を聞いた気がした。
これ以上踏み込むことは社会的な死を意味する。
「……だ……だめだ、それだけは、ぜったい……」
かすれた日本語で、力なく否定する。
「じゃ、うしろから失礼しますね」
蔵前の言ってることを理解する前に、タオルを持った手が背後から伸びてきて、俺のヘソのあたりを擦り始めた。
「ひぅうううううううっ!?」
思いっきり、仰け反る俺――。そんな俺に対して、蔵前は俺の耳に息を吹きかけるように囁いてくる。
「無理……しなくて、いいんですよ?」
……む、無理って、なんの無理ですかっ!?
……だ、だめだ、まずい、あかん、いかん、これ以上は、死守せねばならない。
「…………こんなの、不健全だろ……? やめよう」
俺が言うのも説得力がない気もするが、やはりこんなふうになし崩し的に関係を持ってわけにはいかない。
それは、おそらく過去のピュアだった俺たちに対しても、冒涜になる。
「…………。先輩の意志は固いようですね。わかりました」
すっと、蔵前は身を引いた。少し、いや……かなり残念な気持ちもあるが……これでいいんだ。これで、平和な日常が帰ってくる。
「じゃ、前は先輩が洗ってください。そのあと、一緒にお風呂に入りましょう」
前言撤回。未だにピンチは続いていた。
イッショニオフロニハイル……イッショニオフロニハイル……イッショニオフロニハイル……イッショニオフロニハイル……イッショニオフロニハイル……。
ゲシュタルト崩壊が始まっている。
ハイルとかついてるしこれはたぶんドイツ語かなんかだそうに違いない。
茫然自失のまま……俺は、自分の体を洗った。
蔵前は……、蔵前も、バスタオルを解いて、隣で体を洗い始めた。もちろん、俺はそちらを見ない。見たらダメ、ゼッタイ。
「先輩、先にお風呂に入っててください。準備がありますから」
この上、さらにナニをするというのか……。俺は、恐怖に似た気持ちを覚えながらも、湯船に浸かった。
白く濁った湯はいい具合の熱さだった。だが、温泉を味わう余裕なんて一寸たりともない。なんか、引き戸の向こうで、蔵前がごそごそやってるし……その、曇りガラス越しに、裸が見えてるわけだし……。
蔵前は、片足を上げてナニカを穿いているような仕草だ。
なんだか女の子の着替えはドキドキする。
って、まずい。持ってくれ、俺の良心理性モラル倫理道徳その他諸々……。
そして、ガラガラと引き戸が開かれて、再び蔵前が入ってきた。その姿は……スクール水着だった。え……なにやっとん、おぬし?
「いったい、なんの真似だ……」
「先輩の趣味嗜好を考えて、ベストの選択をしたと思うんですけど……どうですか?」
ちょっと顔を赤らめながら、首を傾げる蔵前。
お前、俺のことをなんだと思ってるんだ。
「……それじゃ、失礼しますね」
蔵前も、湯船に入ってくる。俺の目の前に、だ。
「いい湯加減ですね」
「そ、そ、そ……そうだな」
まさか、蔵前と向かい合って一緒のお風呂に入る日が来るとは……。
これじゃ俺たち恋人同士……。
だが……そのとき、妻恋先輩の清純そのものの笑顔が脳裏をよぎった。
……そうだ、俺は、妻恋先輩のことが好きなんだ……引きこもり化していた俺を助けてくれて、いつも優しくて、ちょっと天然なところがあって、綺麗で……。
でも、だが、しかし――。
幼い日の約束とはいえ、俺は蔵前と結婚を約束したんだ。そして、俺のために、こいつはここまで尽くしてくれている……!
そして、次に脳裏に浮かんだのは――
……うわぁ、こんなところ来未に見られたらどうなるんだろう。俺がラノベ的なラッキースケベイベントをこなそうとすると強烈な制裁をいつもしてくるんだが……な、なんか嫌な予感が……。
「どうしたんですか? 先輩。冷や汗かいてるように見えますが」
「俺は、嫌な予感が当たるタイプだからな」
そのとき。
ドガーン!と。
まるで、爆発したかのような衝撃音が聴こえた。しかし、それは引き戸がこの上なく乱暴に開かれた音だ。下手すりゃ、ガラスが割れる。
(ほら……)
俺は、血の気の引いた顔で、微笑んだ。ほら、当たつただろ?
でも、強張った表情筋は、ピクリとも動かない。
「嫌な予感がしてきてみたら……このエロ新次! あんた、なに不健全なことやってんのよ! 希望おねーちゃんがいながらっ!」
「せ、先輩、逃げてくださいっ!」
どこへ逃げるというんだ蔵前。袋の中のドブ鼠だ俺は。
「このバカエロ先祖ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおー!」
結局、俺は混浴を満喫するどころか、来未から殴る蹴るの暴行を受けて、風呂の湯の上に浮くことになったのだった――。
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