どこがまちがいなのかを、解説しましょう。
時は十九世紀のロンドン。霧の都のなかをゆっくりと、一台の馬車が停まる。そこは伯爵家の広大なお屋敷だった。
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《ロンドンに広大なお屋敷はありえません。なぜなら、ロンドンは過密都市だからです。大きなお屋敷を舞台にしたいときは、地方の田舎屋敷という設定にしましょう。》
ドア馬車からひとりの少女が降りた。両手には買い物が入った箱でいっぱいだ。
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《伯爵令嬢は自分で荷物を持ちません。同行した侍女(メイド)か従僕に荷物を持たせるようにしましょう。》
「お帰りなさいませ。ユリアお嬢さま」
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《架空世界ならばまったく問題ありません。しかし舞台をイギリスにした以上、名前は英語名にしましょう。ユリアはドイツ語になります。英語ではジュリアです。》
お屋敷に帰ると、執事のセバスチャンがあたしを出迎えた。
「ただいま、セバスチャン」
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《セバスチャン、はアニメ、アルプスの少女ハイジで有名になった執事の名前。ドイツでは名前で呼ばれるのかもしれませんが(知識不足のため断定できません・汗)、一般的に執事へは敬意を払い、姓(ラストネーム)で呼ばれます。ミスター・○○。ちなみに、ランクが下の従僕だと、ファーストネームです。》
「お気に入りのドレスは見つかりましたか?」
「デパートにあったわ! ローズピンク色の夜会用のが。パールのビーズが縫い付けられていて、とってもきれいなの。来週の舞踏会で着るのが楽しみ!」
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《貴族といった上流階級や、裕福な中流階級の紳士淑女はデパートで服を選びません。自分にぴったり合ったサイズを着用することがステイタスなので、仕立て屋で注文をするのが普通です。》
「それはようございました。お疲れになったでしょう。お茶をご用意します」
「いちごのタルトを食べたい。クリームをたっぷりつけてね」
「もちろんですとも」
黒いタキシード姿のセバスチャンは、ほほ笑みを残して地下にある台所へ消えた。
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《タキシード。それは19世紀末のディナー・ジャケットがルーツです。20世紀初頭ごろから略式の礼服として、アメリカのタキシード邸で着られたのが始まりです。なので、19世紀では明らかにおかしいです。》
あたしは自分の部屋で着替えをすませて、居間に行った。セバスチャンが紅茶のカップをテーブルに置いていた。たった数分のあいだなのに、とっても仕事が早い。
なんでもセバスチャンは以前、公爵様のお屋敷で働いていて、そこで執事頭をしていたそうだ。優秀な執事だったけど、公爵様が亡くなったあとを継がれた公爵令嬢と、うまくいかなくなって辞めたときいたことがある。
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《執事に頭、が付くのはありえません。なぜなら、筆頭が執事で、その部下に従僕がいるからです。メイドだと家政婦(女中頭)がそれに該当しますから、執事頭というフレーズが生まれたのかも。実際、某商業小説で見かけたことがあります。》
その公爵令嬢はセバスチャンの何が不満だったのか。あたしにはさっぱりわからない。
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《女性が爵位と領地、屋敷を相続するのは、19世紀当時のイギリスではありえません。限嗣相続――長男のみ相続が許されていました。》
だってセバスチャンはとても背が高くて、美形だ。代々、執事をしていて、セバスチャンはエリート執事の家系だ。二十五歳に見えない落ち着いた物腰は、インドにいるあたしの父様も大絶賛している。
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《二十五歳で執事は……厳しいかも。なぜなら、いきなり執事にはなれず、長い下積みが必要だからです。まず下男から始まり、従僕、執事へと転職&ステップアップする必要があります。だれでもなれるわけではありません。だから、代々、執事の家系、というのもおかしな話です。余談ですが、高身長は従僕になるための必須要素ですから、これは正解です。》
セバスチャンがあたしのお屋敷に来る前は、口ひげを生やした年老いた執事だった。ロマンスグレーどころか、真っ白な髪で、二年前に老衰で死んでしまったのだ。お爺様が若いときから、ずっと働いていた大ベテラン執事だったので、セバスチャンが来るまでとても寂しかったなあ。
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《サブカルでは口ひげとロマンスグレーの老人という、執事をイメージしがちです。しかし使用人である執事は、ひげを伸ばすことは許されません。あと、執事は大きなお屋敷で働く肉体労働者ですから、老衰するまで奉公できるのかは疑問です。》
白いポットから熱い紅茶がカップに注がれる。それをセバスチャンがあたしの前へ置いた。
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《濃い紅茶が入った陶磁器のポットは、お嬢さまみずからカップに注ぎます。その背後で、熱い湯を足す役割を執事が担います。これでいつでも温かい紅茶が飲めるというわけですね。執事が持つポットは銀製です。》
「ユリアお嬢さま」
「なに?」
「転職することに決めました」
「ええ?! きゅ、急にどうして!」
あたしは血の気が引いた。
真顔のまま、セバスチャンは静かに答える。
「このお屋敷は不可思議なことがありすぎます。まだ旦那さまの姿をお見かけしたことがありませんし、伯爵家のはずなのにわたくしの部下もおりません。メイドはたったふたり。過労死しそうでございます」
「そんな理由ってあり? だってさ、執事が登場する小説って、超有能なイケメンと、かわいらしい少女メイドと、少し強気なお姉さんメイドの組み合わせが主流でしょ? 部下って、セバスチャンのほかにまだ執事が必要なの?」
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《セバスチャンが言いたいこと。「だいだい普通、執事っていうのは大きなお屋敷のマネジメントするのが仕事だぞ。有能なのになぜ、従僕を兼任しなくてはいかんのだ。これでは、ただの名ばかり執事。つまり、中流階級が見栄を張って雇った、男性使用人。もちろん、部下などいない三流だ」》
「……」
無言のまま、セバスチャンは白いポットをテーブルに置く。
「最後にお嬢さま。紹介状をお願いします」
「なにそれ?」
「転職するときの必須アイテムです。正式名称は、人物証明書といいます」
「履歴書みたいのもの?」
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《使用人たちは新しい職場に就くとき、必ず紹介状が要ります。前の雇い主が、その人物に問題がないことと、身元を証明するためです。だから紹介状がなければ、最悪、失業してしまいました。あっても、ろくなことが書かれなかったら、良い転職ができません。まさしく命綱。》
「…………話にならん。さよならお嬢さま」
そう言い残して、セバスチャンは居間を出ていった。その顔はひどく冷淡だった。
あまりにもあっさりした態度に、あたしは困惑する。
これからセバスチャンとの禁断のロマンスが始まる予定だったのに。
もうラストだなんて、ひどすぎるっ!
「待って、セバスチャン! あたし、もっとリアルな執事にする。だから、転職しないでっ!」
あたしはセバスチャンの背中に向かって、懇願した。
「ユリアお嬢さま」
立ち止まったセバスチャン。
「そのお言葉。信じてよろしいのですね?」
「ええ、もちろん。部下――えっと、従僕もつけるわ」
「そうですか。ありがとうございます!」
くるり、と振り向いたセバスチャンの顔は――美形ではなく、赤ら顔な中年のそれだった。目元にはしわがあって、顎がたるんでいる。執事は酒飲みが多いから、ビール腹をしているのが大半だったというし。
「末永く、ご奉公いたします、ユリアお嬢さま」
「え、ええ、そ、そうね……」
あたしのロマンスは一気に崩壊した。
おじさん執事との恋愛なんて。
わくわくしない。
でも、これがリアルな執事小説なんだろう。
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