電車とホームの間
滝澤真実
電車とホームの間
通勤ラッシュというものは、実に理不尽である。毎朝、今日も一日がんばって仕事をやるぞ! と気合を入れて会社に向かうわけだが、一日で使える気力体力の八割ほどは朝の通勤ラッシュで消費してしまう。
足が浮いてしまいそうなほどぎゅうぎゅうに押し込まれた車内で、好きでもない他人とひっつきながら、爪先で必死にバランスをとり続けるだけの時間。リュックを背負ったままのやつはいるし、ひじで押し返してくるやつはいるし、たまにケンカやら痴漢やらでゴタゴタするし、職場まで移動するという目的のほかには、まったく意味のない無駄な時間である。
そんな通勤ラッシュを避けるために、秋俊は早起きをしている。いったん職場とは逆方向に移動し、始発駅で座れる電車を待って乗る。同じように考えて並ぶライバルたちもいるが、それでも二、三本電車を待てば座って乗れないことはない。一時間ほど余計にかかるが、通勤ラッシュに巻き込まれるよりもよっぽどマシだった。
というわけで、だ。
今日も秋俊は始発駅で電車を待っていた。並び位置は、三人並びの前から四列目。無理なく座れる位置である。しかし、座れるかどうか微妙な五列目にいるライバルが、無言のプレッシャーをかけてきている。あわよくば割り込みをしようかというくらいの至近距離である。
横目で確認する。
男。スーツ姿。体格のいい男。おそらく三十代。
男の持つカバンが秋俊の脚に当たる。ふくらはぎで押し返すが、すぐにまたカバンをぶつけてくる。
不愉快きわまりない。
通勤ラッシュにともなう不愉快を避けるために始発待ちをしているのに、なんたることか。そんなに座りたければ、もう一本待てばいいのに。
ホームに空の電車が滑りこんでくる。
「二番線に到着の電車は、七時ちょうど当駅始発の急行新宿行きでございます」
駅員のアナウンスにともない、緊張感が高まる。
電車が止まり、ドアが開いた。
案の定、うしろの男がカバンを使って押してくる。
あっ。
と思った瞬間、秋俊はバランスをくずしてよろめいた。
踏み出した先は、車両とホームのすき間。あわてて電車の入口の床につかまろうとしたが、秋俊の両腕は落下する体を支えきれなかった。
すき間に滑り落ちながら、秋俊は駅員ののんびりとしたアナウンスを聞いた。
「電車とホームの間は広くあいている場所がございますので、ご注意ください」
手遅れだ、駅員よ。
そう思いながら、秋俊は落下した。
強く打った腰をさすりながら、体を秋俊は体を起こした。
あたりは暗く、はるか上に細い光の筋が見える。ぼんやりとした光に照らされた範囲で見えるのは、幅三メートルくらいの廊下のような空間らしいということだけだった。
電車とホームの間にしては、ずいぶんと風変わりな場所だ。そもそも、電車がどこにもない。両脇ともひんやりとしてなめらかな金属質の壁である。床も同じ材質でできているようだ。
「おーい!」
人がいるはずの上に向かって声を張り上げた。しかし、秋俊の声がむなしく響くだけで、当然聞こえるはずの駅の喧騒をはじめ、ほかの音は何も聞こえない。
これは、違うな。
秋俊は頭をかきながら考えた。
電車とホームの間に落ちたはずだが、どこにも電車はない。線路もない。電車もホームも見える範囲に終わりがあるものだが、ここは見渡す限りの暗がりである。
ありえそうにない話だが、電車とホームの間を入口にして、どこか別の場所に落ち込んでしまったと考えるほうが自然だ。
にしても。
ここは、いったいなんなんだ。
ひんやりとした壁をたたいてみる。中身のみっちり詰まった感じの、硬質な響きがする。壁と床の間にも継ぎ目がなく、ゆるやかにカーブしてつながっていた。壁と床をそれぞれ蹴ってみたが、へこみすらできない。
かんたんに抜け出せるような場所ではなさそうである。
背広のポケットからスマホを取り出す。
圏外。
秋俊はちいさく息を吐くと、壁にもたれかかった。
考える。
終わりが見えないとはいえ、無限というのは考えにくい。進めば、いずれどこかに行き着くだろう。
迷宮を抜けるためのルールは、常に同じ側に壁があるようにして進む、ということだ。とりあえず、左手で壁に触れながら歩き回ってみることに決めた。スタート地点がわかるように、目印を置いていくことにする。出発側の壁ぎわに一円玉三枚、向かい側の壁ぎわに十円玉三枚、それぞれ壁に触れながら歩くと踏んでしまう位置に置いた。
スマホで時間を確認する。
六時五十五分、探索スタートだ。
秋俊は運動不足でメタボぎみの中年男だが、歩くことが嫌いなわけではない。毎日駅までの三十分の道を歩いているし、五階くらいまでなら階段を使う。
しかし、かわりばえのしない暗がりの中を延々とまっすぐ歩き続けるのは、退屈な作業だった。
十分で、もう飽きてきた。
暗がりの中を慎重に歩いたので、時速は三キロくらいだろうか。十分で五百メートルということになる。五百メートルあれば駅のホームは終わり、外に出ているはずだ。信がたい話だが、やはりおかしな場所に落ち込んでしまったと考えるのが妥当だろう。
「これじゃまるで、トワイライト・ゾーンだな」
秋俊の口をついてぼやきがもれた。
「よくわかっているではないか」
予想もしていなかった返事が暗がりから聞こえてきて、秋俊は飛び上がるほど驚いた。
「誰だ?」
「哲学者、物理学者、詩人、剣客、音楽家。はたまた天界の旅人、打てば響く毒舌の名人、それが俺だ」
暗がりで姿の見えない男は、抑揚ゆたかに語った。
シラノ・ド・ベルジュラックのセリフ。
奇妙な場所に、奇妙な男。なんともおかしなことになってきた。
秋俊はスマホのライトを使って、男の姿を照らし出した。ぼさぼさの髪のすきまから、大きな目がギラギラと輝いている。鼻は……シラノ・ド・ベルジュラックとまではいえないが、まあ大きい。
「それで、シラノさん。ここはどういう場所なんだ?」
「学があるわりにトロいな。ここはトワイライト・ゾーンだと自分で言ったではないか」
男はあざわらうように言った。
「質問を変えよう。ここの出口はどこにある?」
「出口は入口でもある」
何かの引用らしいが、秋俊にはわからなかった。
「あんたは、どうしてここにいる?」
「コギト・エルゴ・スム」
ラテン語。我思うゆえに我あり、という意味である。
どこまでもふざけた男だ。
著名人の言葉の引用を好む者は、中身のないろくでなしと相場が決まっている。自信がないから、他人の言葉で理論武装するのだ。しかしその実体は、自分に都合のいい言葉だけを引用して自己弁護することしかできない。こういうろくでなしは、まじめに相手にせず、てきとうに受け流すのがベストだ。
が、今のこの状況では、少しでも情報がほしい。
「えらそうに名言を並べているが、本当は何も知らないな?」
秋俊はありったけの侮蔑を込めて言ってやった。
「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」
今度は孔子か。
知らないことを遠まわしに認めながら、論語を自己正当化に使う。思ったとおり、卑怯な男だ。
お返しに、澤柳政太郎の名言でも食らうがいい。
「知らないのは恥ではない。知ろうとしないのが恥である」
「学問に近道なし」
本居宣長。ならばこちらは福沢諭吉だ。
「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」
「智に働けば角が立つ」
夏目漱石。これも言い訳か。
「何かをしたい者は手段を見つけ、何もしたくない者は言い訳を見つける」
男もさすがに秋俊の意図に気がついたらしく、言葉につまった。
「……それは、誰の言葉なのだ?」
「忘れた。誰が言ったかなんてどうでもいいんだ。知りたかったことは、だいたい想像がついた。たぶん、あんたはずいぶん前にここに落ちてきて、出口を見つけられず、ずっとここにいる。そして、たまに現れる新入りを煙に巻いて楽しんでいる」
男の沈黙が、推測の正しさを物語っていた。
「俺は出口を探す。あんたは、ここで遊んでいればいいさ。今日も、明日も、永遠に」
秋俊が言うと、男はうつむいてぶつぶつとつぶやきはじめる。
「……ああ。明日、また明日、また明日。時は這うように一日一日と進み、行き着くのは歴史の最後の一節……」
マクベスの最後の独白か。絶望しきった引用男にはふさわしい。
無視をして、男に背を向けて歩きだした。遠ざかるにつれて小さくはなるものの、セリフは最後まで秋俊の耳に届いた。
「……われらの昨日はすべて、塵と化す死へといざなう虚しいあかり。消えろ、消えてしまえ、つかのまの灯火! 人生など歩き回る影、あわれな役者にすぎない。舞台の上でどんなにもったいつけていても、出番が終われば消えてしまうだけだ。白痴のたわごとだ。激情にまかせてどれだけわめきたてようが、意味などなにもない……」
三十分経過。
どこまでもまっすぐな暗がりを歩く作業は、退屈さをとおり越して苦痛になってきた。
シラノ氏との会話とも言えないやりとりから論理的に推測すれば、次のようなことがわかる。
一、定期的に新入りがここに落ちてくるらしい。
二、しかし、シラノ氏以外には会わないことから、多くの者は出ていったと考えられる。
三、すなわち、どのような形であれ出口はあるはず。
四、出口が存在する以上、探し続ければ必ず見つけられるにちがいない。
要は、辛抱強く出口を探し続けるしかない、ということだ。シラノ氏のようにあきらめてとどまるようなことはせずに。
気持ちも新たに歩くスピードを上げたとき、悲鳴が響き渡った。
秋俊はその場に凍りついたが、悲鳴は上から落ちてきて、重々しい衝突音とともに床にぶつかって止んだ。
おそるおそるスマホのライトで照らすと、スカートからつき出した形のいい脚が見えた。ライトを動かすと、女の顔が照らし出される。
知っている顔だった。同僚である。
「いたーい。なんなのよ、ここは。って、カタブツ係長?」
女の口から秋俊のあだ名が飛び出した。
「カタブツではなく監物だ、相良ドジエさん」
「ひどーい。ドジエじゃなくて利恵ですから」
利恵が口をとがらせる。もはやそういう可愛い子ぶった態度が許される年齢ではなくなりつつあるはずだが、反射的に可愛い子ぶることがクセになってしまっているのだろう。
さて。
またひとつおかしな要素が加わってきた。
予想どおり、定期的に新入りが落ちてくることは確認できた。しかし、落ちてきた人間が同じ職場で働く知り合いというのは、なかなかありそうにない偶然である。
「係長、もしかして私を助けにきてくれたんですか?」
「まわりをよく見ろ、相良さん。君が落ちたのは、どこだった?」
「どこって、電車とホームの間ですよ」
「ここが電車とホームの間に見えるか?」
「だって私、電車とホームの間に落ちたんですもん」
利恵はぷうっと頬をふくらませる。
「怒るな。電車は? ホームは? どこにある?」
秋俊に言われてはじめて利恵は周囲の異質さに気がついたようだった。
「……係長、ここ、どこですか?」
「わからん。俺も電車とホームの間に落ちたが、ここは別の場所のようだ」
「でも、おかしいですよ。私、何度か落ちたことありますけど、こんな場所に来たことないですもん」
何度も落ちたことがあるのか……本当にドジなんだな。
と思ったが、それは口に出さなかった。
「最寄り駅は違うが、たしか同じ沿線だったな。だから、こうして同じ場所に落ちてきた。俺のほうが遠いから先に落ちて、ここにくるまで三十分ほど歩いてきた。そう考えれば、まあ辻褄があわないこともない」
「でも、やっぱりおかしいです。こんな場所、来たことないですもん」
まったく、女ってやつは。
男は理屈の生き物、女は感情の生き物、という。利恵は、理屈に関係なく感情的に納得できないと不満を感じる、いかにも女らしい感性の持ち主らしい。
まともにやりあっても疲れるだけなので、作戦を変えることにした。
「とにかく、出口を探そう。歩けるか?」
「……はい」
単調な一人歩きも、道連れがいると少しだけ気分が軽くなる。
秋俊は利恵の直属の上司ではないので、職場ではそれほど話したことがない。ひと回りほどの年齢差があるので、共通の話題がさほどあるわけでもない。互いに気詰まりな沈黙を避けるために、思いつくままに言葉を交わした。
その中でわかってきたこと。
利恵は大阪出身。姉がひとり。のんびりした性格から、大阪では「じれったい」「どんくさい」と言われ続けて育ったという。大学から東京に出てきて、そのまま就職。一人暮らし。趣味は映画鑑賞で、日本の恋愛ものをよく観るらしい。結婚願望はあるが、そのうちなんとかなるとのんびり構えている。
かわりに秋俊が伝えたこと(と利恵の反応)。
群馬県出身の四十二歳。趣味は読書。小学生のときからあだ名はカタブツ(そんな頃から?)。空気の読めない一人っ子(わかるー)。未婚だが、ホモセクシュアルではない(なーんだ)。パートナーが欲しいという気持ちはあるが、この歳まで結婚できないということは、致命的な人格上の欠陥があるのではないかと思っている(わかるー、あーウソウソそんなことないですよ)。
「まあ、俺のようなカタブツはあまり好かれない。それは自分でもわかっている」
思わず自嘲的に言うと、利恵の驚いたような声が返ってきた。
「わかってるなら、なおせばいいじゃないですか」
「なおせない」
「どうして?」
その利恵の問いは、秋俊にとってあまり触れたい話題ではなかったが、絶対に答えたくないというほどの話でもなかった。わずかなためらいの後に、秋俊は答えた。
「自信がないからだ」
「……話がどうつながるのかがわかりません……」
「自信がない。それでも、社会生活を送らなければならない。だからよって立つためのルールが必要になる。ルールに従うことを重視すると、まわりからは融通のきかないカタブツと言われてしまう」
「ルールだったら何でもいいわけじゃないですよね?」
「もちろん。でも、毎朝九時に出勤するとか、仕事上よくわからない書類を出さなきゃいけないとか、どうでもいいルールには従う。人をだましてはいけないとか、そういう大切なことについては、ルールが間違っていたら反抗する。それが俺のルールだ」
「でも、部下にとっては面倒な上司ですね」
利恵は笑った。
「部下に好かれるために仕事をしているわけじゃない」
「でも、部下に嫌われるために仕事をしているわけでもないですよね」
ごもっとも。
しかし、認めるのは秋俊の自尊心が許さない。
「仕事は顧客の利益のためにする、部下のためにするわけではないということだ」
「じゃあ、はじめからそう言えばいいのに」
おっしゃるとおり。
この話題では勝ち目がなさそうなので、話を戻すべきだと判断した。
「いずれにしても、ルールは大切だ。九時出勤のルールがなければ、わざわざ目覚ましをかけて早起きすることもない。制約があるからこそ、漠然とした人生に輪郭が生まれる。いわば、俺たちの生活にリズムを与えてくれるものだ」
「人生の輪郭って、ちょっとステキな表現ですね。係長はどんな輪郭を目指しているんですか?」
この質問には虚を突かれた。
「……考えたことがなかったな。与えられた役割をきちんとこなすことしか考えてこなかった。そうすることで、自分にとって望ましい輪郭が見つかると思っていたのかもしれないが……」
「目標とか、なにかないんですか? お金をたくさん稼ぐとか、モテるとか」
「金なんて、無事に一生過ごせるだけの蓄えができればいい。百人にモテるよりも、一人と深く愛し合いたい」
「ふうん……ロマンチック係長なんだ……」
「うるさい」
照れ隠しに必要以上に強い口調で言ったが、利恵はくすくすと笑った。
「やっぱり係長は結婚して子供を持つべきですよ。そうすれば、妻子のためにも稼がなくちゃ、っていう目標ができるでしょ。そうやって、自分で前向きに人生の輪郭をデザインしなくちゃダメですよ」
大きなお世話だ。受け流すことにした。
「まあ、こんなカタブツのオヤジでもいいという女の子がいたら紹介してくれ。相良さんは? どんな輪郭をデザインしようと思ってるの?」
「浮気をしないダンナを見つけて、子供は二人以上産みたいです。でも、具体的な行動は何もしてないですけどね。典型的な『明日から本気出す』ってタイプなんですよ、私」
「そんなのんびりした性格も、逆に小さなことには動じない長所でもある。それが相良さんのいいところだ。君の課の山田課長とも、飲みながらそんな話をしたことが——」
足元でジャリ、という音がして、秋俊は立ち止まった。
かがんで床を探ると、硬貨が落ちていた。十円玉が三枚。ずっとまっすぐに歩いていたつもりだったが、出発地点の反対側の壁に戻ってきたようである。
道が分岐した記憶がないのに、元の場所に戻ってくるのは奇妙きわまりない。しかも、居ついているはずのシラノ氏にも会わなかった。
論理的に考えるとこの場所そのものが説明できず、頭がおかしくなりそうだ。あきらめて、状況の矛盾点を考えるのはやめた。
「どうしたんですか?」
「ここが、俺が落ちてきた場所だ。どこかでぐるっと回って戻ってきたらしい」
「その小銭を目印に置いていったんですか? すごい、頭いい……」
この程度で頭がいいもなにもないので、その発言は無視することにした。
問題は、出口だ。
見上げると、変わらずはるか上方に光の筋が見えるだけである。
いや、変わっているのではないか?
光の筋が細くなっているような……。
「上の光の筋」
秋俊が言うと、利恵も見上げる。
「……遠のきました?」
「そのようだな」
「やだ。暗くなってきてるし。出られなくなるんじゃないですか?」
「なんとしても出る」
脳裏には、あきらめて居ついたシラノ氏の姿がよみがえってくる。あれは、秋俊自身の未来の姿に思えてならなかった。だからこそ、ここから出ることをあきらめたくはない。
「どうやって出るつもりなんですか、出口が遠のいているんですよ?」
そう。出口だ。
出口を探さなければいけない。
「人は上を見ない」と言ったのは誰だったか。人は目の位置よりも下のものに注目しやすく、高い場所にあるものは見落としがちだという。
スマホのライトで、壁の上のほうを照らしてみる。
「あった」
ライトが照らし出した場所には、四角い穴があいている。高さは二.五メートルほど。
ジャンプしてみると、どうにかフチに手がかかりそうな位置だった。出口と決まったわけではないが、行ってみる価値はある。
「係長、私はそこまでジャンプできません」
「わかっている。肩車しよう」
「え……」
利恵は、自分の服装を見下ろす。ヒザ丈のスカート。ぴっちりしているので、あまり脚を大きく広げることはできそうにない。
「非常事態だ。見ないから安心してまくりあげろ——というわけにもいかないか。先に俺がのぼって、引っぱりあげよう」
「はい……」
秋俊はジャンプをして、穴のフチにぶら下がってみた。手がかりとしては十分だった。しかし二本の腕だけで体を穴まで引き上げられるかどうかは不安だった。十代だったら、できただろう。二十代前半でも。しかし、運動不足の四十代の体では、どうだろう。
一度降りて、腕のストレッチをする。
「どうしたんですか?」
「準備運動だ。若い頃のつもりで体を動かすと思わぬケガをする。もうオヤジだからな」
「自覚はあるんですね」
利恵はくすりと笑った。
「だまれ、小娘」
秋俊も笑いながら言うと、穴に飛びついた。
ぶら下がった両腕に力をこめて、体を引き上げる。穴のふちに顔が出るところまで上がって、アゴでも体を支えながらよじのぼる。どうにか上半身までのぼったところで、少し息をつく。
「係長、大丈夫ですか?」
「だい、じょう、ぶ」
息を整えながら言ったが、自分でも大丈夫そうには聞こえないことがわかった。
気持ちをきりかえて、じたばたと穴によじのぼる。入ってみると、穴は立てるほどの高さがある広い通路であることがわかった。
秋俊はうつぶせになり、身を乗り出して利恵に声をかけた。
「いいぞ。俺の手につかまれ」
「係長。格好つけてるけど、のぼりかたはダサダサでした」
利恵はまだ笑っている。
「いいからつかまれって。置いてくぞ」
「はーい」
緊迫感のない返事をして、利恵が秋俊の手につかまってきた。
秋俊は、その手のあたたかさにひるんだ。
あわてて気持ちを切り替えて、利恵の体を引き上げる。途中、無理な体勢になった瞬間に、腰にぴりっとした痛みが走ったが、そのまま利恵を引き上げた。最後にバランスを崩して倒れると、そのまま利恵も秋俊の上に倒れこんできた。
利恵の髪が顔にかかり、花のように香った。
「係長、大丈夫ですか?」
「……大丈夫だから、上からどいてくれ」
秋俊は顔が熱くなった。暗いせいで顔色がはっきり見えなくてよかった。ここ何年か女性と密着することなどなかったので、ひどく心臓がバクバクする。
「あ、すみません」
利恵は秋俊の胸に手をついて体を起こす。心臓の高鳴りが伝わるのを避けるため、秋俊はあわてて体をずらし、利恵の下から抜け出した。
「さて。ここが出口につながっていると信じて、行こうか」
「係長、照れてます?」
「うるさい。行くぞ」
スマホで道を照らしながら、先に歩く。うしろから、ばたばたと足音が追ってくる。
「待ってくださいよー、係長ー」
秋俊のスマホの電池が切れて、利恵のスマホで照らしていたが、その利恵のスマホの電池も切れた。
電池が切れて暗闇に閉ざされる直前に見た時間は、十時半だった。
自分の鼻の頭さえ見えないような真っ暗闇の中で、秋俊はため息をついた。
「参ったな」
「係長……どうしよう……怖いです……」
「仕方ない。はぐれないように手をつないで行くか」
「はい。ありがとうございます……」
暗闇の中で、利恵の手が秋俊の手を探り当てて握ってくる。
覚悟していたので、今度は利恵の手のあたたかさにひるむことはなかった。
「足元を確かめながら、ゆっくり歩くぞ。俺はこっち側、相良さんはそっち側の壁を触って進む。お互い何か気がついたらすぐに知らせる。いいな?」
「はい」
二人は歩き始めた。
すり足で足元をさぐる音ばかりが響く、気詰まりな沈黙が流れた。
「係長」
「なんだ?」
「どこかに落ちそうになったら、ちゃんとつかまえててください」
「意外にネガティブなことを考えるんだな」
「何があるかわからないから、こわいじゃないですか」
「悪いことを考えたら、そのとおりのことが起きるぞ。出られると信じれば、出られる」
「信じたら夢はかなうなんて、そんな話を信じるほどウブじゃないです」
思わず秋俊は笑った。
「そういう問題じゃない」
「どういう意味ですか?」
「成功する前に投げ出すから、失敗する。成功するまで続ければ、成功する。成功するまでしつこく続けるには、信念が必要だ。だから、信じる」
利恵は沈黙した。
「すまん」
「なんで係長が謝るんですか?」
「偉そうなことを言った」
「別にそんなふうに思ってないです」
「いや。俺のほうの問題だ。信じることは難しい。口ではご立派な理屈をこねくりまわせても、実際にできるとは限らない。いや、できないことのほうが多い。自分でもできないようなことを、俺は偉そうに押しつけた」
利恵は、ため息まじりに言った。
「あーあ、やっぱりカタブツ係長だわ」
「どこが」
「まじめすぎです。信念が必要っていう話、いいこと言うなぁと思ったんですよ。でも、別に百パーセントそのとおりにできる人なんて、そうそういないこともわかります。逆に、係長もそんな不完全なところのあるダメカタブツだってことがわかって、ちょっと親近感がわきました」
秋俊の手を握る利恵の手に、きゅっと力が込められた。秋俊は心がじんわりと暖かくなるのを感じたが、照れ隠しにぼやいた。
「ダメカタブツでは、語呂が悪い。ほかに呼び名はないのか」
「じゃあ、ダメ鷲鼻」
「俺の鼻はそんなに大きくない」
「監物係長、下の名前はなんでしたっけ」
「秋俊。四季の秋に、俊敏の俊」
「……んー、じゃあ、あっくんで」
「あほか」
「だって、トシのほうだと、私の名前とかぶるじゃないですか」
「そういう問題じゃなくて」
「どういう問題ですか」
秋俊は押し黙った。
女はこれだから手に負えない。
しかし、こんなふうに女の言動に振り回されるのも、悪くはない。
暗がりでにやりとしたところで、爪先がなにかにぶつかった。おそるおそる足先で探る。
「のぼり階段のようだ」
「見てください。上に光があります」
利恵の言うとおり、ななめ上方に小さな光が見える。
「よかった。出られそうだ」
「階段が途中でなくなったらどうしよう」
「ネガティブ小娘」
「うるさい、ダメカタブツ鷲鼻あっくん」
「だから語呂がだな……」
他愛のない言い合いをしながら、二人は階段をのぼった。光が近づくにつれて、あたりの様子が見えるようになってくる。
「明かり、ほっとします」
「そうだな」
階段をのぼるスピードが自然と速まり、とうとう最後までやってきた。
出口は頭上が金網になっていて、そのすき間からビルが見えた。
押してみる。重いが、動く。
「よし、開けるぞ」
両手と肩で、金網を持ち上げる。
腰がまた、ぴりっと痛んだ。
金網のすき間から利恵が外に出る。続いて、秋俊も金網とアスファルトにはさまれながら外に這い出す。
脚を引き抜くと金網ががしゃんと閉まった。
しかし、腰の痛みのせいで、外に出られた開放感を味わう余裕はない。恥も外聞もなく、歩道の上で大の字になった。
「大丈夫ですか?」
心配そうにのぞきこんでくる利恵。そのうしろを、一般の歩行者たちが怪訝そうな視線を向けながらとおりすぎていく。
場所は、秋葉原だった。
「そうか。地下鉄の万世橋駅の入口だ」
「なんですか?」
「昔、地下鉄銀座線に万世橋という駅があった。ここは、その入口だ」
「そんなの、おかしいです。私が落ちたのは地下鉄じゃないですよ」
理屈に合わないことばかりが続いたのに、そこを指摘しても仕方がない。あいかわらず利恵の論点はどこかずれている。それがおかしくて、秋俊は笑った。
「寝たまま笑ってないで、起きてください」
「ちょっと、腰が」
「うわ。ほんとにオヤジだ……」
「やかましい」
言いながらも、秋俊はどうにか起き上がって、ビルの壁によりかかった。
ふと、電気店の店頭に駆け寄った利恵が、首をふりながら戻ってくる。
「あっくん、もう十一時です。会社に連絡しなくちゃ」
「俺は、今日は休みにする」
「腰が痛いから?」
「いや。電車とホームの間に落ちて、何時間も暗闇の中を歩いて、旧万世橋駅から出るなんて、なかなかあることじゃない。心身ともに疲れた」
「そんなこと言って、腰が痛いからでしょ?」
利恵がにやにや笑っている。
「うるさい。とにかく、連絡するためにもスマホの充電器を買わなきゃならん」
「充電器は腰の痛みに効かないですよ」
「俺の腰には効くんだよ。充電器をヘソにさせば、元気百倍だ」
「うわ、オヤジギャグ」
調子を合わせてやったのに、この言われようである。
苦笑しながら、歩き出した。ぱたぱたと利恵がついてくる。
「今日は私も休みにします」
「そうか」
「どうせ休むなら、一緒に映画観ません? 観たいのがあるんですけど」
「恋愛ものは退屈だ」
「そんなことないです。恋愛こそ、人生の縮図です」
するりと秋俊の手の中に利恵の手がすべりこんでくる。自然で、違和感がなかった。
利恵のあたたかな手を握りしめる。
恋愛が人生の縮図だとは思わない。しかし、こういう始まりも悪くない。
「なにがおかしいんですか?」
利恵が秋俊の顔をのぞきこんでいる。いつの間にか笑っていたらしい。
「入口は出口、出口は入口だって話を思い出してね」
「なんですか、それ」
「電車とホームの間を入口にして、奇妙な空間に落ち込んだ。でも、そこは家と会社を往復するだけの毎日からの出口でもあった。意外に身近なところに出口があったんだなと思ってね」
「その出口の先には、どんな世界が待ってると思います?」
利恵が秋俊の手をきゅっと握る。
「なにも待ってはいないさ。でも、創っていくことはできる」
言ってから、秋俊は軽い自己嫌悪におちいった。
なんという軽薄で気取った言葉か。
言葉は不完全な道具で、感情の百分の一も表現できない。ほかに手段がないから仕方なしに使っているが、結局のところ言葉はその限界を超えられないのだ。
秋俊は万感の想いをこめて、利恵の手を握った。
静かに。
そして強く。
電車とホームの間 滝澤真実 @MasamiTakizawa
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