エイト・ドッグス

滝澤真実

第1話

「うて!」

 仁は叫んだ。味方のフォワードが、ペナルティエリアの外からボールを蹴る。低い弾道で敵ディフェンダーの間を抜けたボールは、反応良く跳んだ敵ゴールキーパーの手に当たり、ゴールポストに当たってはね返った。

 ディフェンダーの前に転がったボールは、高々とクリアされる。

 主審の笛が鳴った。試合終了。二対三だった。

 仁は唇をかみしめ、空を見上げた。負けたときこそ、上を見ろ。それが最初にサッカーを教えてくれた少年サッカーの監督の言葉だった。

『くやしがっていい。泣いてもいい。でも、うつむくな。これで終わりじゃない。サッカーを続けている限りは、次がある。だから、負けたときこそ、上を見ろ』

 その言葉を思い出しながら、仁はくやしさを飲み込んだ。くやしさ以上に、自分のふがいなさに腹が立った。ゴールキーパーとして、三失点は屈辱だった。

 肩を落として引きあげる仁の肩を、ぽん、と叩く者がいた。

「入江。ナイスファイト」

 キャプテンの山中だった。

「負けたら意味がありません」

「負けにも意味がある。次に向かっていこう」

「山中先輩、どうして勝てないんですか?」

「結果がすべてじゃない。最後まであきらめないで、いい試合ができたじゃないか」

「最後まであきらめないのは、あたり前です。それ以上のものを目指しているんじゃないんすか?」

「目指している。でも、勝てなかった。一人一人が努力を重ねて、上を目指すしかない」

「でも——」

 口を開きかけた仁を制して、山中が微笑みかける。

「本番は、インターハイの予選だ。今日の負けから、自分たちに足りないものを学べばいい。今日は、ディフェンダーの連携が悪かった。三点で済んだのは、おまえの好守のおかげだぞ。守備ラインをうまく修正できれば、きっと予選を勝ち進める」

 山中に背中を押されて、仁はピッチを後にした。

 インターハイの予選まで一ヶ月を切っている。練習試合は残り二試合。ここまで練習試合は三連敗である。決して楽観できない状況だと仁は考えていた。

「入江」

 引きあげてくる選手たちをベンチ前で出迎えていた西崎監督が、仁に声をかける。

「よく守ってくれた」

「でも、負けました」

「それが、今の僕らの実力だ。でも、差は少ないことがわかった。次の試合までに弱点を克服できれば、次は勝てる」

 仁はチームメイトたちの姿を見た。仁ほどくやしがっている者はいなかったが、くやしがるどころか、笑顔を浮かべている者さえいる。

 それが、仁には腹が立った。

「おまえら、なに笑ってんだ!」

 仁が怒鳴りつける。

 笑っている者たちは同級生だけでなく、上級生もいた。仁の怒声に、上級生たちの顔色が変わった。ディフェンダーをつとめる大岡が、仁に詰め寄る。

「おい入江。てめー誰に向かって言ってるつもりだ?」

「負けたのに笑ってるクソどもに言ってんだよ」

 仁が言い終わるか終わらないかのタイミングで、大岡が仁に殴りかかった。拳は仁の頬に当たった。しかし、仁も大岡の顔に拳を叩き込んだ。

 倒れこむ大岡の上に馬乗りになって、仁がさらに拳を打ちつける。

「クソをクソと呼んで何が悪い! クソ! 死ね!」

 誰かが仁をはがいじめにして、大岡から引きはがした。互いに顔を鼻血で染めた二人を遠目に見ていた山中が、苦笑しながらつぶやく。

「あーあ。暑苦しいったらありゃしない」

「いいんですか、山中先輩。笑ってる場合じゃないでしょう」

「笑うしかないんだよ。これが公式戦の後で、高体連のお偉いさんが観戦してたりしたら、最悪の場合には対外試合禁止になってたかもしれない。それからしたら、公式戦じゃないし、審判はボランティアだし、とくに問題になることもないだろ?」

「でも、殴りあったりしたら、チームの空気が悪くなります」

 心配そうな表情の後輩の頭を小突くと、山中は笑った。

「互いに思っていることを言わないダメなチームより、言い合って、ぶつかり合って、それでダメなチームのほうがいい」

「ダメなら、一緒っすよ」

「違うね。ダメの質が違う」

「そういうもんすか」

「そういうもんだ。キャプテンの俺が言うんだ。間違いない」

 したり顔で言う山中を、後輩は冷めた目で見た。

「格好つけても、説得力ないっす」

「だめか」

「だめっすね」

 山中は、頭をかいた。

「まあ、いいけど。心配なのは、入江だよ。あいつが求めているのは、ただ試合に勝つことじゃない。良い試合をして勝つことだ。でも、あいつは、わかっていないんだよなぁ。チームには、高校を卒業したらサッカーをやめるやつもいる。サッカーをやる以上、負けたいと思っているやつはいないが、入江が求めているレベルのサッカーを全員に求めるのは酷ってもんだ」

「山中先輩は?」

「さあな。俺は俺にできることをやっているだけだ。入江がどう評価しようが、関係ない」

 山中は静かに笑った。


 夜の里見公園は、静まり返っていた。

 ときおり遠くを走る車の音が、かすかに聞こえてくる程度である。春とはいえ、夜になると空気はひんやりとしていた。

 仁は公園の中でサッカーボールを抱え、昼間のくやしさをかみしめていた。

「ちくしょう」

 仁はため息をついた。人並みはずれた反射神経と瞬発力は、ゴールキーパーとしての仁にとって、とても大きな武器である。

 しかし、サッカーはチームプレーのスポーツなので、いかに仁の反射神経が優れていても、チームの協力が欠かせない。ディフェンダーが敵のシュートコースを限定させてくれなければ、大きなゴールマウスを守りきれるわけがないのである。

 今日の練習試合で敵に奪われたゴールが思い出される。どちらも、味方ディフェンダーを振り切った敵フォワードが、仁と一対一でシュートを放った結果であった。試合中、一対一のシーンを八回も作られて三回しか決められなかったのは、仁の反射神経が生きた結果だと言える。

 しかし、それでも、満足のできる結果ではなかった。

 くやしい。

 ただ、くやしかった。

「ジンちゃん!」

 声が響いて、仁は我に返った。道の向こうから、小柄で華奢な制服姿が飛び跳ねるように近づいてくる。

「おう、瑠奈。来たな」

 仁はボールを瑠奈のほうに転がした。

「えいっ」

 前置きもなく、瑠奈がボールを蹴った。仁は鋭く反応してボールをとめる。

「こら。いきなり何をする」

「あたしのドライブシュートを止めるなんて、やるわね」

「誰だよ、おまえ」

「ジンちゃんの幼なじみで、超ラブリー&セクスィーな瑠奈ちゃんでーっす」

 腰をくねらせながら、瑠奈がおかしなポーズをとる。

 仁は瑠奈に近づいて、瑠奈の頬の肉をつまんだ。

「これのどこがラブリーだ」

「はがひふ…」

 瑠奈が仁の顔をぽかぽか叩きながら、逃げようとする。仁はしばらく捕まえていたが、不意に瑠奈から手を離した。瑠奈は盛大にずっこける。

「なにすんのよーっ!」

「練習は、芝生の上で。こんな舗装された道の上では、危ない。何度も言ってるだろ」

「だから、飛び込まなくてもいい位置に蹴ってあげたでしょ。このあたしの、海のように広い愛がわからないかな」

「なんだそれ。膿? 腐ってる?」

「花も恥じらう乙女に向かって失礼だぞ、ジンちゃん」

 ぷうっと頬をふくらませて、瑠奈が仁をにらみつける。ころころとよく変化する瑠奈の表情を見ながら、仁は毎日のように繰り返している彼女とのかけ合いを楽しんでいる自分に気付いていた。

「さあさあ、練習だ。頼むよ」

 二人はいつもの場所に移動して、練習をはじめた。足元は芝生。仁の背後にはフェンス。瑠奈はそのフェンスをゴールに見立ててボールを蹴る。それを、仁が止める。

 黙々とボールを蹴り続けて、二百球。ボールセーブ率は八割くらいだった。悪くない。

「ふへー……」

 上気した顔を手で仰ぎながら、瑠奈がため息をつく。

「さあ、帰ろうか」

 仁はボールを拾い上げて、瑠奈の背に手をあてた。体を動かしたせいで体温が上がっていて、すこし汗をかいているようだった。

「今日は、調子がいいみたいだね。ぜんぜん決められなかったよ」

「おまえも、ずいぶんうまくなった。真面目に、女子サッカーチームに入ったらいいんじゃないか?」

「えー、めんどくさーい」

 そんな他愛のないやりとりをしながら、二人は帰宅した。手を振りながら隣の家に入っていく瑠奈を見送ると、仁は自分の家に入る。

「ただいま」

 声をかけたが、家の中は静まり返っていた。時間は午後九時。冷蔵庫の中身をあさったが何もなく、戸棚にポテトチップスを見つけたので、それを持って自室に入る。

 テレビをつけてポテトチップスを食べていたが、どのチャンネルに切り替えても面白くない。あきらめてテレビを消して、ベッドに横になる。

 じわり、と昼間のくやしさがよみがえってくる。

「しっかし、勝てないよなぁ……」

 ため息まじりにつぶやいた仁は、ふと、天井に何かがあるのに気付いた。ぼんやりとした白いものが、雲のようにゆらめいている。それはだんだんとはっきりした形をとりはじめて、やがて乳白色の玉になった。

 仁はベッドを降りると、机の中から定規をだしてベッドの上に立った。

 玉の表面はつやつやとしていて、なんとも美しい。その表面を、仁は手にした定規でつついてみた。

 こつ、と玉は硬質な音をたてる。玉は何かに固定されているような感じで、定規で押してもびくともしない。

 定規をおろして、今度は指先で玉をつついてみる。

 ひんやりとして、すべすべしている。

 仁は玉をつかんだ。玉はなんの抵抗もなく仁の手の中におさまった。直径は十センチほどで、ずっしりと重い。

 玉が浮いているときには見えなかった場所には、筆で書いたような文字が黒々と浮き上がっていた。

【仁】

 自分の名前だと思ったが、ふと思い出して本棚を探した。幼いときに読んだまま埃をかぶっていた本を手にして、表紙を見つめる。

『南総里見八犬伝』

 ぱらぱらとページをめくると、探していた情報が出てきた。

 物語の主人公・犬江親兵衛は【仁】と書かれた宝珠を持ち、同じような宝珠を持つ仲間たちと活躍する。そんなシーンの挿絵に、仁が手にしている玉とそっくりの宝珠の絵が描かれていた。

「そんな、ばかな」

 仁は玉を見つめてつぶやいた。

 南総里見八犬伝は、江戸時代に書かれたフィクションだ。現実にそのようなことが起きるわけがないのだ。しかし……。

 乳白色の玉は、かすかに光を発しているようである。現実に自分の手の中にある玉を、仁は否定しきれない。それでも本に書かれた宝珠とは無関係だと思い、仁は玉をベッドの隅に放り出した。

 再びベッドの上で横になり、ポテトチップスを口に放り込む。しかし、カロリーはあるが、ポテトチップスは腹にたまらない。ポテトチップを食べきった仁は、食い足りなかったので、コンビニへ買い出しに行くことにした。

 家を出て夜道をしばらく進むと、路上に玉が落ちていることに気付いた。乳白色で、かすかに光を放つ、直径十センチほどの玉。近づいて見ると、表面には【仁】の文字がある。

 仁の背筋を冷たいものが這い上がった。

 玉は、部屋に置いて出てきたはずである。こんなところに落ちているわけがなかった。常識的に考えれば、同じ玉が複数存在している、ということだった。

 仁は玉を迂回して、道を進んだ。

 コンビニで唐揚げ弁当を買って帰る途中、さっき玉が落ちていた場所を通ったが、何も落ちていなかった。

 内心で胸をなでおろしながら家に帰って部屋に戻ると、ベッドの上に置いていた玉が消えていた。布団をめくったり、ベッドの下をのぞいたりしたが、玉はどこにもない。落ち着かない気分で弁当を袋から出したが、弁当を出しても袋が重い。覗き込むと、そこに乳白色の玉があった。

 おそるおそる玉を出すと、玉には【仁】の文字が書かれている。

 あの玉だ。

 仁は気味が悪くなって、玉を床に放り出した。弁当を食べようにも、玉が気になってそんな気になれない。

 ベッドの上に転がる玉をしばらく見ながら仁は考えた。

 ありえない。

 置いて出かけた玉がいつの間にか消えていて、行く先の路上に転がっていたり、コンビニの袋に入っていたりする。物理的にありえない話なのである。

 しかし、物理的にありえないというのであれば、そもそも天井近くに玉が浮かんでいた最初の状況からして異常だった。

 仁はしばらく考え込んでいたが、昔から考えるのは得意ではなかった。腹が減っては戦はできぬ、と適当ないいわけをしながら、とりあえず考えることを保留して弁当を食べることにした。

 唐揚げ弁当を開けて、唐揚げの塊を口に放り込んだとき、気配を感じて仁は窓を見た。

 窓の外には、にこやかに微笑む中年男の顔があった。

 仁の部屋は二階である。人が姿を表すような場所ではなかった。仁は驚きを隠せずに中年男を呆然と見ていた。中年男はうれしそうに笑うと、仁に手を振った。

 異常者か。

 とりあえず、仁はカーテンを閉めて男の姿を視界の外に追い出した。

「おーい」

 窓の外から、男の声が聞こえた。

 夜中によその家のベランダに立つ犯罪者まがいの男にしては、その声はのんびりとしている。

「なんなんだよ」

 仁はカーテンを開けた。

「まあ、話をきいてくれ」

「消えてくれないと、警察を呼びますよ」

「待て。それだけは勘弁してほしい」

 男は慌てたように集金カバンのようなバッグの中をさぐった。そして、おもむろに乳白色の玉を取り出した。

【孝】

 玉の表面に描かれた文字を見て、仁は身をこわばらせた。

「俺たちは、仲間だ。俺は大塚隆、またの名を第三十代・犬塚戍孝」

「歌舞伎役者かなんか?」

「一般的に通りのいい名前は、犬塚信乃だな。南総里見八犬伝は知ってるだろう?」

「あんなの、子供向けのおとぎ話だろ?」

「おとぎ話だったら、こんな不思議な宝珠は降ってこない」

 大塚は自分の宝珠を仁に見せびらかして、ベッドに放置されている仁の玉を指した。

「さあ、窓を開けてくれないか。ちょっと不思議な『おとぎ話』に付き合ってくれよ」

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