今はもういない猫の話

破死竜

名前は、『みぃちゃん』

 猫について話そうと思う。


 その猫は巨大で鋭い爪と牙を持っていた。

 ・・・・・・という初対面の印象は、自分が小さな子供だったからだろう。生まれたばかりではなかったが、大人の猫とは違い、幼く軽く、むしろ、怯えていたのは猫の方だったと言っていい。

 けれど、大人の人間に抱かれていたその方向へ指を伸ばすのも怖かったことは、良く覚えている。


 家で飼うことになった仔猫は、爪とぎ、トイレを、覚え――その度に、用具の場所へ連れて行くと、やがて自ら向かうようになる――次第に、ずうずうしくなってきた。

 ある日、父の椅子で丸くなって寝ていた彼――牡猫だった――は、蹴り飛ばされ、走ってベランダから出て行った。

 「もう少し優しくして」

 「そうだー」

 「そうだー」

 妻子に責められ、一人悪役となってしまった父は、しぶしぶながらも、戻ってきたら二度と蹴りはしないことを誓うのだった。

 なお、猫は翌日には帰宅した。


 猫の名前は、「みぃちゃん」と決まった。人により、「みー」であったり、「ミィ」であったりもしたが、猫にとっては、人間ごときの差異など些細なこと。どの呼び方か誰が呼んでいるか、よりも、その腹具合で返事をする相手をえり分けていた。


 みぃちゃんは、すくすくと成長し、1年もしない内に米袋の重さを超えた。子供には抱えるのも難しく、テレビを見ているときなど、膝に乗って来られると、思わず「うっ」という悲鳴が漏れ、我が子から押し入れ二階からのライダーキックを喰らう休日の父親のような気持ちになったものだった。


 引っ越しの日が迫り、みぃちゃんは、親戚の家に預けられることになった。インターネットによる助言などの無かった時代、母お手製の網籠に入った彼は、駅員毎にころころ変わる指示に従いつつ、バス、電車、新幹線と乗り換えて、ようやく到着した頃には、少々もどしてしまっていたほどだった。


 どれだけ高くても家具の上に落ちる(※落される)物を置かないこと、朝晩以外はエサをあげないことなど、様々な注意事項を伝えられた飼い主の元、彼は新居の生活を始めた。


 帰省した際には、その鋭い爪で仕留められた蝉の躯(むくろ)、外出用に窓へ設けられた専用通路、余所の牡猫とケンカして返り血で真っ赤になって帰ってきた話、などを見聞きして、その近所で発揮された野性を実感したものだった。



 既に20年以上前の話である。

 預けられていた家の主人も既に他界し、更にそれ以前に猫は死んでいる。

 けれど、寒い冬に冷たい床から脚を持ち上げたときなど、ふと思うのだ。このあぐらの中へ彼が飛び込んできたならば、と。



 おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

今はもういない猫の話 破死竜 @hashiryu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ