第八章 時空のさざ波

せめてサヨナラだけは

 俺は間違っていた。


 この二週間、寝ても覚めても翔の側にいたものだから、まるで世話のやける弟の面倒をみるように、手を差し伸べるまでもない事柄にも首を突っ込み、あいつの運命を狂わせてしまった。


 翔だけにとどまらず、周りに集まる人の運命さえも。


 今まで、世のため人のためだとか、これぽっちも思っていなかったくせに、一度歩んだ経験が優越感を生み、上から目線で人に物申すことに快楽すら覚え、親友であるドクの忠告に耳を傾けることもなかった。彼の言うとおり、この世界の住人と干渉すべきではなかったのだ。


 誰かの肩にぶち当たり、足がもつれ転びそうになっても、走り続ける。


 ――止まるな。


 あれほど拒絶したので追ってくることはないと思うが、万が一ということがある。早急にドクの元へ向かい、あの世界に帰らなければならない。


 帰る……


 その言葉に、ともに過ごした掛け替えのない日々が想起され、早くも決意が揺らいでしまう。


 翔の落ち込んでいる姿。頬を膨らませてすねる仕草。かわいらしく笑う顔を思い出し、腹の底がぎゅっと締めつけられる。


 風圧で狭まる視界が涙でにじむ。


 遅かれ早かれ別れがくることはわかっていた。けど、もう二度と会えなくなると思うだけで、こんなにも胸が痛くなる。本音を言えば、翔とまだ一緒にいたかった。でも、


「これ以上一緒にいてもアイツのためにならねえ。ここが俺の潮時なンだッ」


 揺らぐ決意を抑え込むように涙を拭い、白夜のような空に向かって俺は叫んだ。


「俺は、未来に帰るンだああああああああああッ!」


 周りに変な目で見られようがかまわない。どうせこの世界から消えてしまうのだから。それにこんな薄汚い小娘が何を喚こうが、周りは夜空に散りばめられた星々を追いかけるので忙しい。それが人として当たり前の行動。そういう当たり前の行動が選択できる人間で在りたかったと思う。その他大勢の中のひとりで、俺は在りたかった。


 困難にぶち当たるといつもこれだ。


 後になってから、やはりあの時こうするべきだった、と後悔して、物事の選択を無難にこなす人々を妬んだり、自分だけがいつもこんな目に遭うなど、そのような被害妄想を勝手に膨らませ、自己を蔑み、いつまでも根に持つこの腐りきった根性に嫌気がさす。


 この世界にきても、この性格だけは直らなかった。


 旧校舎にたどり着き、西側の壁に向かって、しがない自分を罰するように両手を叩きつける。


「なんのために俺はこの世界に来たンだ! 翔のため? 違うだろッ、自分のためだろうが! 30年間、人様に自慢できる生き方をしてこなかった俺が、唯一、正しい選択をしてこの世界にやってきたのに、他人のことばっか気をもンで、結局なにも成し得なかったッ。クソッ、俺は何様のつもりだッ。やることなすこといっつも裏目に出やがって。これが俺の運命かッ、クソッタレが!」


 グランドからはほど遠いこの場所は、喧騒とは無縁で、夏の夜に鳴く虫の声だけが耳元に流れてくる。自分を呪う言葉を吐きながら、壁を何度も叩いていると、やがて荒くれだった心が静まりはじめる。


 心が穏やかになっていく。


 冷静に考えてみると、悪いことばかりではなかった。16年前に知り得なかった両親やみんなの気持ちを知ることができたし、違う世界だとはいえ罪滅ぼしをすることができた。あの世界にいた頃よりも、ほんの少しだけ成長したようにも思える。

 選択した先の結果はいまだ後悔の連続でうんざりするけれど、その時、最善と思って選んだ道だ。それで失敗しようが、決断した自分に納得すると俺は決めた。それで十分だ。俺は気づくのが遅いだけで、人生というものは最初からそういうものなのかもしれない。


「親父、お袋、みんな……最後の別れを言えなくてごめんな」


 右腕を見ると、肘から指先までがほんのりと白光しながら透過しており、普段では見ることができない領域の景色が見えた。


「やっぱり気のせいじゃなかったンだな……」


 握ると感触がまだ残っていた。


「やべえ、こうしちゃいらンねえ」


 未来に帰ろう。

 結局、この世界に来た意味が分からず終いになるが、あきらめるしかない。強引に気持ちを振り切るように濡れた頬を拭い、旧校舎の昇降口に向かって再び走りはじめた。


 意匠を凝らした門を駆け抜け、立ち止まるのが惜しくて、走りながら足を上げて靴をむしり取り、後ろへ遠ざかる下駄箱に向かって投げ捨て、二段飛ばしで階段を駆け上がる。旧校舎の中は当然のごとく常夜灯はなく、窓から入り込む青白い月の光だけを頼りに秋田杉の廊下を走り、ぼんやりとした暖光色の明かりがもれる部屋の前にたどり着いた。

 窓越しにそびえ立つ鳩時計で時刻を確認する。


 PM10:10


 勢いよく引き戸を開け、


「ドク!」


 彼は教壇の隣にある小さな机に座り、手元を照らす明かりの下でなにやら作業をしていた。そして、やおらこちらのほうを振り返り、


「やあ、こんな夜遅くにどうしたんだい?」


 引き戸を後ろ手で閉め切り、機材の間を慎重に進んで、彼の前で立ち止まる。作業を止めた手元を見て、


「フン、祭りも参加せず、目覚まし時計を直すのにご執心たぁ随分ゴキゲンじゃねーか」


 ドクは鼻で笑い、


「人が大勢いる所はどうも苦手でね。ああ、昼間に玉響くんが差し入れを持ってきてくれたよ。今度お礼を言っておいてくれたまえ」


 どこまで出来た女なんだと思う。翔の彼女にしてやれなかったことが悔やまれる。しかし、迷いを断ち切るように首を振り、


「ンなこと自分で言えっての。そんな事よりドク、急な話で悪ぃンだが……俺、あっちの世界に帰るわ」


「いつ?」


「今からだ」


 ドクは少し考えをまとめるように頭をかき、


「どんな心変わりが君をそうさせたんだい?」


 俺はなにも言わず右腕を差し出す。その手を見た瞬間、彼は神妙な顔つきで、徐々に透過度が増している手を触診し始める。ひと通り触ったあと、


「フム、量子化がかなり進んでいるようだね。帰りたいという意味が理解できたよ」


 俺はこの時、ドクにはじめて、最初にこうなった日のことを詳しく話した。


「君は、僕のことを親友と言ってなかったかい?」


「フアッ!? そ、それに関しては俺の落ち度だ。面目ねえ」


 ドクは顎に手を当てながらため息をつき、


「装置は完成しているとはいえ、まだ、理論を補完させる実験が解決していない。トンネル効果の実証試験。量糸結合精度試験。光子を使っての照射試験。量子分解が及ぼす人体の影響など。まだやることは山積みなんだ」


「そんなの待ってらンねえよ! そこをなんとか出来ねえか? なぁ頼むよ!」


 ドクは肩を竦ませ、


「それらを飛ばしてもし失敗すると、君は量子のまま亜空間を永遠に彷徨うか、消滅のどちらかをたどることになる。ぶっつけ本番でやるならそれ相当の覚悟が必要になる」


「てこたぁつまり」


「成功率は極めて低いけど、それでもやるのかい?」


 今までにない厳格な態度に固唾を飲み込む。ドクは、死を覚悟しろと言っている。それでも俺は……


「ヘッ、どーせ失敗続きの人生だ、もうどっちに転ンでも悔いなんてねえ。いーぜ、やってくれ」


 苦し紛れに笑って強がる。ドクは少し俺を見つめたあと、立ち上がり、


「ま、量子化を止める術もないことだし、結果的にそうするしかないんだけどね」


「ブッフウウウウウッ、て不安煽るだけ煽って俺をもてあそンでンじゃねえ!」


 ドクは俺をからかったあと、教室の中央に設置された時空転移装置に改造した掃除用具入れと、それに連結させた量子分解器と加速器、装置を操作するKVMサーバーコンソール、OSD、GUIなどの電源を、慣れた手つきで次から次へと起動させていく。


「じゃあ、準備ができたらその中に入ってくれるかな」


「あいよー」


 と返事して、そのまま転移装置に入ろうとしたら、人体以外の物は置いていくように言って止められる。


「僕は後ろを向いているから、その間に服を脱いで……て、ちょっと君! なにもここで脱がなくても、」


「アン? ンなタリィことやってられっかヨ。出血大サービスだ。最後によーく目に焼き付けとけ」


 と言って手に掛けていたブラを乱暴に外し、プリーツと下着を一気に脱ぎ捨てる。律儀に目を瞑っているドクを横目に、装置の扉を開けて中に入る。


「もういーぞ、これでいいのか?」


 装置の中は、ブルーライトで照られており、少し窮屈で肌寒かった。閉所恐怖症ではないが、少し息苦しさを感じる。


「ドク、世話ンなったな」


『とんでもない。君のおかげで大幅に研究が進んだ。礼を言うのはこちらのほうだよ』


 扉越しに惜しみのない会話が交わされる。彼とは向こうの世界でも会えるという安心感がそうさせるのだと思う。

 声が遠ざかったり、左右を行き交う足音が聞こえたり、機器の作動音が方々から聞こえてくる。会話をしながら粛々と作業に取り掛かる姿が目に浮かぶ。


 そのときだった。


『先生!』


 引き戸が激しい音を立てて開かれたのと同時に悲鳴のような声が聞こえた。

 翔の声だ。

 予想はしていたが、こんなに早く来るとは思ってもいなかった。


『先生、あの、こんばんわ。あの、翔子はここに来ませんでしたか?』


 翔の足音が段々と近づき、時空転移装置の手前で止まる気配が伝わる。翔の荒くなった呼吸が扉を通して聞こえてくる。


『翔くんになにも言わずに来たのかい?』


 ドクの呆れた声が転移装置の間近で聞こえた。


「う、ウルセー! コイツには関係ねえことだ」


『しょ、翔子、この中にいるの? ねえ、いるなら返事してよ、ねえ!』


 転移装置が激しく叩かれ、あまりの騒々しさに耳を押さえる。


「叩くな! 鼓膜が破れンだろーが!」


『ご、ごめん! もう帰っちゃったと思ったよ。ごめん、翔子……』


 そして、子供のように泣き喚き、


「ぼ、ぼくが、よけいなこと言っちゃったから、せっかく、君にいいおもいでを、作ってあげたかったのに、よけいなことをいっちゃたから、なやませて、」


 なるべくしてなる原因を作ったのは俺だ。翔にまったく責任はない。

 軽く聞き流せばよかったのに、翔の予想を覆す行動に我を失い、荒々しい言葉を浴びせ、傷つけ、悲しませてしまった。引きつりながら窮状する翔の姿を思い浮かべると、舌の奥から甘酸っぱい唾液がこみ上げてくる。


 許してあげたい気持ちにかられる。しかし、この右腕の状況がこの世界に留まることを許してくれない。別れるためには、心を鬼にする必要がある。


「黙れよ……その声聞くだけで虫唾が走ンだよ。そうだ最後に言ってやるがよ、俺はずっと前からオメーのことが嫌いだった」


 声が震えたかもしれない。


 本音の裏の言葉がこれほど重いなんて思いも寄らなかった。あえて言うといった次元を完全に超えている。狂おしいほど胸が痛くなる。


 翔の泣き声がピタリとやみ、


『うそだ! だってずっと僕の味方だって言ってたじゃないか! なんで面とむかって言ってくれないの? ねえ、ここあけてよ!』


 再び激しく泣きながら転移装置のドアを叩きはじめる。


「ハッ、嘘なもんか。俺はテメーのことがでえッ嫌いなンだよ!」


『じゃあ、せめてサヨナラだけは言わせてよ! ここ開けて言わせてよ! ねえ、おねがいだからあけてよ!』


 頼む、これ以上は言わせないでくれ……


 心でそう願いながらも、口から出る非情な言葉は、とどまることを知らない。


「いやだね。やっとオメーの顔見ねえで済むのに開けるワケねえだろ。誰得だっつーの。あー早く帰えれてせいせいすンぜ」


 翔が狂ったように泣き叫ぶ。


 ――嫌なことなどあるもんか。俺だってお前の目を見てちゃんとサヨナラを言いたかったのに……


 何年もの辛い社会経験がこのような天邪鬼な性格の土壌を築いたのだと思う。この期に及んでまだ社会のせいにするなんて、どれだけ自分勝手なんだ。こんな性格になったのは、すべて自分自身のせいだというのに。


「叩くな、つってンだろーが! もうウンザリだ、とっとと消えろ!」


 ダメだ。これ以上は心がどうにかなってしまいそうだ。


 もう潮時だ。


 ……ごめんな翔、別れのときだ……


 小声でそう言ったあと、すべての感情を押し殺すように腹に力を入れ、


「ドク、こいつのことはほっといて……とっととはじめてくれ」


『そうは言ってもねぇ』


「いーからサッサとはじめろ!」


 そこで装置内が急に低い音を立てて暗くなり、辺りがなにも見えなくなってしまう。


「オイ、どうなってンだドク!」


『ブレーカー落ちたのかな……ちょっと様子を見てくるよ』


『先生、僕が行く!』


 翔だ。


「オメーが行ってどうする! ここはドクに任せろ」


 闇雲に機材にぶつかり、廊下へとまろび出てる音が聞こえた。秋田杉を叩く音が遠ざかっていく。

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