からむ量子のアモルメカニカ ~恋愛力学~
ユメしばい
第一章 多世界解釈
望まれて生まれなかった子
2015年7月6日 火曜日 PM8:30
「バルスッ!」
言葉と共に発射された唾の粒子が天井に向かって加速する。それらが、空気分子や目に見えない塵に衝突しながら放物線の頂に達したとき、地球の中心に吸い込まれるような落下運動をはじめる。
この重力の働きだけによって落下する現象を、自由落下と呼ぶ。
「ぶわはっ、不覚。自分の唾シャワーをまともに浴びやがった、クッ、しかも目に……っておい、何も起きねーじゃねえか」
『全てを閉じよ』
この世を終わらせる目的で作られた上位破壊系呪文バルス。その影響範囲は文字通り世界丸ごとで、一切を崩壊せしめるという強い思念をもって声高らかに唱えよ。と、この魔導書には書かれている。
だが実際問題、抑圧されたこの世界でそれを唱えようとするならば、世間の喧騒から隔離された空間、すなわち、ボックスでヒトカラする以外に方法はない。ましてやこの俺のように、羞恥を度外視して叫べば誰の目から見ても「気でも触れたのか?」と狂人扱いされるのがオチだ。ちなみに今二階の自室で自宅には誰もいないことは確認済みである。恥丸出し人生爆走中のこの俺でもそれくらいのことは心得ている。
では、なぜ今回それを唱えるに至ったのか。答えは、この世界をぶっ壊したかったからである。物理的な破壊行動ではなく、もっと他力本願的な何かで、この俺にやさしくないこの世界をぶっ壊す。その思いから、この本にたどり着いた。
『唱えると、マジヤバすぐ効く、魔法大全』
コンビニ価格、税込み1050円。
仰向けに寝そべった状態で暫しの時を過ごした。なぜなら発動には時間がかかると思ったからだ。が、それにしても遅い。むしろ一向に発動する気配すらしない。ひょっとしてスペルを間違えたのだろうか。いや、この有名な三文字を間違えるなど、億が一にも有り得ない話である。しかし、いやされど、いやひょっとすると俺の思い違いで、実はパルスだったのかもしれない。人生そのような間違いは往々にして起こるもの、と考えるに至り、付箋で閉じていたページをもう一度めくってみた。
呪文のスペルは合っている。説明文も改めたところ問題はない。ところが、呪文発動後のイメージイラストの下に、小さい文字でこんなことが書かれている。
「ちなみにこの呪文の効果を上げたい場合、媒介となるラピスラズリを加工して作った飛行石を装備されたし。てかぶっちゃけその石がないと発動しないよ(笑)ブッフウウウウウッてこんな重要なことちっこく書いてンじゃねえ! この本いくらしたと思ってンだ、こちとら無職ニートだってのにクッソ、どいつもこいつも俺が自宅警備員になったとたんナメやがってえ……まーいい次だ」
『人の精神を意のままに操れる呪文』
この呪文は最も禁忌とされ、取り扱いは十分に気を付けなくてはならない上位精神系呪文である。媒介させる小道具は一切不要。唱えた瞬間から世界中の誰もが貴方の虜になるわ♪ あと、恥ずかしがっちゃダメよ。心の準備ができたら窓を開け、世界に向けて大きな声で貴方の存在をアピールするように唱えるのがポイントよ♪
「か。なんか途中から文面が変わったような気が……ま、よくよく考えりゃ、復興させるプランもねぇのに、いきなり世界をぶっ壊してそのあとどうすンだって話だ。ヨシ、これに決めた。これで周りのヤツラを思いのまま操って残りの人生謳歌してやンぜ」
魔道書の65ページ目をあらため、但し書きがないかを入念にチェックしたあと起き上がり、勢いよく窓を開けた。夏の湿った空気がなだれ込んでくる。
しかし思えば、ここに記されているようなことを純粋に試みる人間はこの世に存在するのだろうか。多分ゼロに違いない。理由は、恥ずかしいとかではなく、誰も信じていなからだ。
たとえば量子力学という、世界最小単位の粒子の振る舞いを究明する学問では、物質は、観測されて初めて白か黒かが決定すると言われている。同じ世界でありながら、大きいか小さいかの違いで、起こる事象がまったく異なるのだ。
だから俺はこう考える。
何かの拍子に突然、マクロとミクロの世界が入れ替わったりするのではないか、と。それらを含めて同じ世界に存在しているのであれば、その可能性は十分に考えられる話なのである。いや、そもそもこの世界がミクロの世界でないと誰が証明できるというのか。極論だと言われればそれまでだが、あの20世紀最高の物理学者アルベルト・アインシュタインも、一般常識として考えられていた世の中の定理をぶち壊し、相対性理論を完成させた。呪文を唱えると確率で発動するなんてことは、十分にありえる話なのである。
「そしてこのことに気づいてンの多分この俺だけ、ククク」
蚊が俺の真横を堂々と通り過ぎて部屋に侵入した。寝静まった頃を見計らって血を吸うつもりなのだろうか。その前に殺虫してやる、と心のどこかで誓いを立てた。夜の湿った空気を肺に満たして詠唱体勢をとる。
「この腐りきった世界を俺にとって都合のいい世界に変えてやる。しゃっ行くぜ! ピーリカピリララ・ポポリナペーペルトおー♪」
魂の叫びが真夏の闇に吸い込まれていく。最高の気分だ。
とそこで、向かいの家の二階の窓辺に人がいることに気がついた。
「ありゃたしか、山下さんちの桜ちゃんじゃねーか。微動だにしねえつーことは、早速呪文が効いて……ぐひょひょひょヨッシャア、犯罪レベルの年の差だが彼女の心はすでに俺のモノとなった。何でも思いのままプククク……」
俺はとびっきりの笑顔を作って口臭を確認し、彼女に向けてこう言った。
「やあ桜ちゃん、僕のこと覚えてるかい? ちっちゃい頃よく遊んであげた向かいの
「キャアアア、ヘンターイ!」
「え? ちょ、桜ちゃ――」
ピシャン。シャッ。カチャリ。トントントントン「お母さーん」
再び65ページを開けてみる。同じような失敗を繰り返さぬようくまなく読んだつもりであったが、人間というものは、そういう時に限って致命的なミスを犯す。呪文のスペルに間違いはなかったか、但し書き注意書きは記されていなかったかを入念に読み返してみた。しかし、一字一句間違えておらず、注意文も書かれていなかった。
「ま、まさか……ッ」
ここにきてはじめて盲点に気づいた。これまでのパターン化されたページ割りに、まさかそんなことはないだろうと高を括っていたのだ。嫌な予感を抑えつつ、恐る恐る次のページをめくる。
※ぶわはははマジで唱えよった! おっと失敬。遅いかもしれないが、男が唱えるとかなりキモイのでやめたほうが無難だ。効き目はそうだな……あ、場所を選んだ方がいい。たとえばコミケとかそっち系の連中が集まる所で唱えると威力を発揮する呪文だからな。以後気をつけてね。
ビリ。
怒りのままに破ろうとして思いとどまり、背表紙から2ページ目の角河文庫発行人山口昇と書かれた所を燃やしつくさんとばかりに睨みつける。
「クッソォ俺の行動見透かしてやがンのかこのクソ発行人があ! 上等だ、この際行き着くとこまで行ってやる」
ニートの俺にとって夜は長いが、もたもたしていると食事に行った両親が帰ってくる。その前に呪文を発動させ、この世界を変えなければならない。斯くなる上は、と編集人が書いた笑えないあとがきの手前ページを勢いよくめくる。
『あなたの願い叶えます』
最終ページ。どんな願いごとでも必ず叶う超絶願就系呪文。最初からこれにしとけばよかったのだ。
先ほど侵入してきた蚊の所在が気になって仕方がないが、間違えないように頭の中で呪文を反芻し、深呼吸をして体勢を整える。どこかで改造バイクの甲高い音が鳴り響き、それを追いかけるパトカーのサイレンがドップラー効果によって遠ざかっていった。そよ風が吹き、風鈴が鳴った。
――今だ。
「タッカラプト・ポッポルンガ・プピリッ――」
「さっきからなに言ってんのよ翔」
「――トぴゃろおおおうわああああああっ!!!」
お袋だ。
「や、やいババァ! ノックもなしに入ってくんなっていつも言ってンだろーが!」
「バルスって何よ? 気持ち悪いわね」
「ブッフウウウウってこいつ初っ端からいやがったああ俺になんの恨みがあンだああッ!」
恥ずかしさでのた打ち回っているとお袋がこう言ってきた。
「叫んだり床に転げ回ったりほんと忙しい子ね。ところで翔、あなた鳥野先生のこと聞いてるの?」
その言葉にピタリと動きを止めた。
お袋が言ったのは、俺に量子力学という摩訶不思議な学問を教えてくれた中学時代の恩師であり友人の、
彼は物理学におけるスペシャリストで、独自理論によって様々な物を研究開発してきた脅威のマッドサイエンティストとも呼ばれており、俺は彼のことを敬意を込めた愛称でこう呼んでいる。
「フン、ドクが何してようがもう俺には関係ねンだよ」
彼は不遇によって大学から除籍され、中学講師の身に追いやられた過去をもつが、それにもめげず論文を出し続けた結果、この度その功績が認められ、晴れてノーベル物理学賞にノミネートされる事となったのである。しかし、
“鳥野流二博士惜しくもノーベル物理学賞を逃す”
ニュースを見たときはさすがに俺も目を疑った。俺から見て無敵の天才物理学者でも、世の中そんなに甘くないという事実を目の当たりにした出来事だった。
「若いうちから頑張ってたのに残念ねぇ……それに引き換え、あなた一体いつまでこうしてるつもりなの?」
またお袋の説教が始まった。鬱陶しいが、今の俺に言い返す言葉もない。
「周りはとっくに結婚してもう子供がいるって子もいるのに、あなただけじゃない。とにかく仕事だけでも早く――……
『道は二つだ時生君。網走に行くか、それとも……。まぁようするに、我々には明確な権利が存在するということだ』
嫌味ったらしい口調でバーコードハゲの部長がそう告げてきたのは、ちょうど二ヶ月前のことだった。万年平社員の駆逐。首を宣告されたも同然だった。
高校を卒業してからの12年間、我が身を会社に捧げてきた結果がこれだった。
……――ハァ、ほんと女の子に生まれてくればよかったのに」
その言葉は、俺がもっとも嫌いなお袋の口癖だった。
「お父さん頑張ってくれたんだけど、巣が悪かったのか種が弱かったのか。ハァ、結局あなたしか出来なか……って何ヘンなこと言わせるのよッ!」
「ブッフウウウウッて俺の耳を腐らせンじゃねえクソババアッ!」
そういえば昔、お袋に「貴方は橋の下で拾ってきた子よ」と言われてよく叱られたことがある。望まれて生まれなかった俺が悪いのか、それともこの生き辛い社会が悪いのか。いずれにせよ、外にも内にも必要とされない人間に成り下がったのは事実だ。
そういえばドクは今頃何をしているのだろう。長年の付き合いだが、今ではたったひとりになってしまった友でさえ、疎遠状態になってしまった。逃げ場を完全に失ってしまった。残された道はもう……
「出掛けてくる」
そう言って机からスマホだけを奪い、不満をぶつけるようにして階段を降りた。玄関先の居間に鎮座していた親父とばったり目が合った。
親父とは、高校の時グレて大ケンカをしたのが原因で、この年になった今でも口も利かない状態が続いている。親父はすぐに視線を落とし、新聞を読みはじめた。
――また黙ンまりかよ。文句あンなら言えっつーの。
親父のそうした反応に舌を打ち、玄関に座って靴を履いた。
「こんな夜遅くにどこに行くのよ翔」
「ガキじゃねンだからいい加減俺の事なんかほっとけよ!」
ニートの分際で親に言うことだけは一丁前だ。こんな自分にもうんざりする。履き潰しのコンパースの紐を結び直し、玄関を開けて外の闇へと逃げ込んだ。
「これから親父と二人っきりで仲良く暮らせよな。今度は間違えねーよう、女に生まれてきてやっから」
「なに馬鹿なこと言ってんの! 翔、待ちなさい!」
ここから離れたい一心で駆け出した夏の夜は、昼間の熱気がうそのように失われており、少しだけ肌寒く感じた。板張りの民家がひしめき合う町道はまるで地下迷宮のように狭く、数の乏しい街灯を通り過ぎれば瞬く間に体全体が闇と同化した。
先の見えない不安を抱えながら、自分の心の中を表したような闇の中を走り抜ける。
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