第2話

 市橋理沙いちはし りさが予備校の出口から外に出ると、先に出て待っていた友人の磯山千春いそやま ちはるがニヤニヤした顔でこちらへ向かってくるのが見えた。その顔つきを見てすぐに彼女の言いたいことを理沙は悟る。間違いなく今日のクラス分けテストのことだろう。

「何?」

 わざとぶっきらぼうに聞いて見せる。

「クラス、落ちたでしょ」

 相変わらず千春の顔はにやついたままだ。小学生の頃からの親友でなければ思わず一発顔面に拳をめり込ませてやりたくなるくらい憎たらしい表情だった。

「だから?」

 表情を一切変えずに駐輪場へ向かう。

 早いところ家に帰って今日の復習と来週に控えている一斉模試の準備をする必要があった。英語は特に問題なさそうだったが、現代文がいつまで経っても馴染まない。論説文はまだしも、小説に関しては問題集を繰り返しても過去問をやりこんでも「なんでそういう解釈になる?」と回答集を壁に投げつけたことは数知れない。試験対策にと書店で「新潮文庫の百冊」を読みやすそうなものから片っ端から買って斜め読みしている最中だが、こちらも一向に進まないし、そもそも高3になっていきなり小説を読み始めても体に馴染んでいないのか、なかなか文章というものを体が受け付けないようだ。

 前回の模試で理沙の志望校の合格判定はBからCへ落ちた。それまではずっと何とかBをキープしていたのに。理由はわかっている。事務所に無理やり入れられた謎の全国イベントで勉強時間が激減したせいだ。あれだけ学業理由で欠席にしてほしいと頼んだにも関わらず、最終的には「このイベントに理沙が出てくれないとウチは会社を畳むしかない」と社長の泣きが入って、こちらも涙を飲んだ次第だ。あの社長、土下座することに対した抵抗感も無いらしく、十八歳の理沙相手に涙を流して土下座をし、理沙がうんざりしながら了解するとすぐに笑顔になって立ち上がり、痛いくらいの握手をすると唖然とする理沙を置いたままさっさと部屋から出て行ってしまった。

 あのイベントで時間を取られさえしなければ、模試も順調に終えられていたはずだ。そう考えると自分がミニスカートを履いて気味の悪いオタク連中と握手したり、2ショットでポラロイド写真を撮ったりしていた時間を返して欲しいと本気で思う。自分は一体何をしていたのだろう。

 理沙は十二歳の頃から両親の方針で情操教育の一環として子役タレント業を行っていた。もちろん学業が第一。学業に支障の出ない範囲で行うことが芸能活動の第一義であった。エキストラのようなCM出演から始めて、ドラマの端役やミュージカルなど理沙は地道なりに出演作を増やして行った。もともと演技経験など特になかったが、何も考えずにやっていたのがよかったのか、彼女はよく選ばれ現場に行くたびに「色が付いていなくていい」と言われ続けた。要は特徴がないということだったのだろうが、理沙は優等生特有のそつない返事で礼を述べ、彼女のそうした節度をわきまえた大人への対応と、生来の育ちの良さが、妙に駒者くれた子役業界の中では逆に目立ったらしく、それなりに露出も増えて行った。ただ、両親にとってあくまで芸能活動は彼女がそれ以外にこなしていたお稽古事、すなわちピアノ、書道、クラシックバレエ、英会話、料理教室の中の一つに過ぎなかったため、彼女の学習時間を削ってまで行うことではないと判断していた。

 中学三年の冬、彼女はそれで始めて両親と大喧嘩をした。

 芸能の仕事にそれ以外の習い事とは違うものを感じ、のめり込み始めていた彼女は冬から春にかけて全国で行われるミュージカルの準主役クラスに数百人のオーディションを勝ち残って合格していた。

 当然出演するつもりでいたものの、両親は高校受験を控えた大事な時期にそんなお遊びみたいなことで不合格になったらどうするんだと彼女を責めたて、事務所に勝手に出演拒否の連絡をしてしまった。彼女は当然激怒した。事務所側も対応に追われ、両親との交渉は決裂し、彼女は事務所を解雇された。芸能活動がこれから順調に進むものと思われた矢先のことだった。

 理沙としては模試の結果で合格圏内に入っていることは承知した上での行動だった為、なおさら両親の保守的な思想と行動に嫌気が指した。彼女は母親の母校である、その難関女子高の受験を蹴った。

 そして代わりに学区内で最難関の公立高校へ進学した。彼女のいる世界で、親族含め公立高校へ進学したものは一人もいなかったからだ。当然彼女が高校へ入学した春、必ず毎年行われる市橋一族のパーティーで(彼女がこうした親族の集まりも他の家庭では定期的に当たり前に行われているものと思い込んでいたがそれが特殊であること公立高校に入学してから知った)彼女の両親は一族から眉を顰められ、極めて身を小さくしていた。そこでとりあえず彼女の溜飲は下がったわけだが、一度解雇された芸能事務所に入るわけには行かない。一から出直すつもりであらゆる芸能事務所へ、両親には黙って面接を受けに行ったが、彼女が起こした「ミュージカルの直前出演拒否事件」は芸能事務所業界ではそれなりに大きな事件であったらしく、ほとんどの事務所で彼女の名前と姿を見るなり「申し訳ないけどうちでは…」と切り出されてしまった。ネットを駆使してあらゆる事務所を訪ねたが、なかなかいいところは見つからず駄目元で最後にたどり着いたのが今の事務所だった。中に一歩入った途端にこれは普通の事務所ではない、危ないから帰ろうと彼女の中の警報が作動したが、面接に出てきた中年女性は彼女と会うなり「ずっとあなたのような人間を探していた」と喚き立て、その日のうちに採用が決まった。あとから聞いたら、単純に理沙の起こしたドタキャン事件を知らなかっただけだった。そして、その中年女性こそが彼女の今所属するちっぽけな芸能事務所「ドリームドリーム」の社長だった。

 自転車の鍵を鞄から取り出して差し込んでいると、千春は懲りずに声を掛けてきた。

「ねえ、あの怪しい事務所でいつまで続けるの、アイドル」

 そうだ、そう言えばあたしは今アイドルだった。

 今の事務所に入ってから、理沙はいきなりアイドルになった。最後の方はへろへろになっていたのでろくに見ずに面接を受けていたので気がつかなかったのだがドリームドリームは女性アイドル専門の事務所だったのだ。所属タレントで最も有名なのが、最近では週刊誌できわどい水着グラビアばかりをやっている松下聖奈という女性だった。今年で二十五歳になると聞き、理沙はアイドルって何歳まで出来るのだろうとぼんやり思ったことを覚えている。

「何歳まで出来るんだろうね」

 理沙は誰に尋ねる訳でもなく呟いた。

 この活動を続ける先が見えないのは事実だ。事務所が理沙を真剣に今後どのようにステップアップさせていくか考えている余裕さえ無いのもマネージャーや社長の言葉の端々から感じ取っていた。

 芸能の世界に未練が無いといえば嘘になる。ただ、ドタキャン事件以降この世界を干されていることもまた事実だ。でも自分自身の賞味期限というものがあるということも理沙は痛いほど感じていた。この境目の年齢で業界を離れた人間が返り咲ける隙間などないことを彼女は長年の経験から悟っていた。学業、結婚、出産。女性が芸能界を離れる機会は多い。しかしプライベートをしっかり充実させてからさも復職しましたとばかりに戻ってきた人間たちが勘を取り戻せずに芸能界で苦戦した挙句、そのまま一般人へ戻って行った姿を何人も見てきた。第一線にいる人間は程度に差はありこそすれ、私生活を犠牲にしている人間がほとんどだった。

 私はどこまで犠牲に出来るのだろう。本気になるなら模試の一つや二つでは済まない。

 ペダルに足をかけ、右足を強く踏み込む。

「じゃあ、また明日」

 まだ何か言いたそうにしている千春の方へ声をかけると、理沙はそのまま走り出した。すぐに答えは出せないが、まずは今日の復習だ。

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