境域のアルスマグナ 緋の龍王と恋する蛇女神
絵戸太郎/MF文庫J編集部
序章 事の発端から一夜明けた頃
序章 事の発端から一夜明けた頃
『死は恐ろしい』
幸福な人間は、実はその意味をよく知らない。
何らかの不幸に見舞われた人間だけが、その意味を正しく知っている。
例えば、事故や病気で死を感じ、死にたくないと叫ぶ己が心を聞いたとき。
家族などと死に別れ、その悲しさは無論、葬儀云々の現実と格闘したとき。
物語の登場人物がいつの間にか克服している死の重さが、そのとき初めて分かる。
故に思う――自分でも、自分以外であっても、人が死ぬのは恐ろしいことなのだ。
即ち、
なぜ、そんな重苦しいことを考えていたかというと、
「むご!? むぐぉ!?」
いま正に、怜生が死を予感しているからだ。
目を覚ますと、緋色の大蛇が怜生の上半身を呑み込んでいた。
事態に気付いた怜生の抵抗が蛇の形を内側から変え、くぐもった悲鳴が響く。まだ無事な両足が、ベッドの上から掛布団を蹴落とすと、掛布団の中から蛇の全体像が現れる。
怜生を頭から呑み、腰から足へと巻き付いて上へと折り返す蛇体は――
「くぅ……すぅ……」
寝息を立てる少女の上半身へと続いていた。
言い換えるなら、蛇の下半身を持つ少女が、尻尾の先端から怜生を食っていた。
緩く波打つ長い緋色の髪と、金色の角を生やした、可憐な少女だ。
白い肌には荒れや曇りがまるで見当たらず、一糸まとわぬ上半身が同じ色を晒す。
細い両腕は体の前で重ねられており、奥では豊かな胸が谷間を描き、先端にあしらった小さな朱色と共に、寝息で上下していた。
しかし、悩殺的な曲線を描く腰から下は、大の男を丸呑みにせんとしている赤い大蛇。
半人半蛇――そう評する他にない、美女と魔獣を併せ持つ少女がそこにいた。
「も~、だめですよ~怜生さん、子供が起きちゃう♪」
少女は幸福そうな顔で夢を見ているが、怜生はいま起きながらにして悪夢を見ている。
蛇の尾が更に怜生を吸い上げ、腰まで呑み込んだ。怜生の悲鳴が加速する。
「も~、強引なんですから♪」
嫌よ嫌よも好きのうちといった口調で、少女が寝返りをうつ。
すると尻尾も動き、怜生の体を寝室の中空へと持ち上げた。凄まじい力だ。
怜生としては恐竜に食われかけた気分で、両手を半狂乱で振り回し、足で虚空を掻く。
尻尾の中で起きたその刺激をどう受け取ったのか、
「あん♪」
艶やかな声を発した少女が身をよじった。
その動きに連動して、赤い蛇身が、腰から先端まで急速にねじれる。
ボキメキバキゴキャ! という致命的な音。怜生の両足が風車のように回転した。
上半身を『雑巾絞り』にされた怜生の悲鳴が止まり、両足がだらりと宙に垂れ下がる。
そこでようやく目を覚ました少女が、上体を起こして「ふぁぁぁ」と欠伸をした。
尻尾の方でも口が開き、解放された怜生の体が床に落ちる。
「あれ? 怜生さんは? あ、駄目じゃないですか、そんな軟体動物みたいな格好で床に寝たりしちゃ! 体を壊したらどうするんですか!」
少女は怜生を叱りつけるが、もう盛大に体を壊してしまった怜生から返答はない。
「まったくもう、しょうがない旦那様ですね」
少女はそう言って、床で永眠しかけている怜生に手を触れる。
すると、緋色の光が少女の手から怜生へと流れ込む。光が体に浸透すると、怜生の体が動き出し、骨と肉が音を立てて繋ぎ直された。完治だった。
すると、怜生は無言で起き上がり、
「朝からなにしてくれんだテメェはぁぁぁ!」
「いだだだだ! ごめんなさいぃぃ!」
少女の側頭部に両手の拳をぐりぐりとねじ込んだ。
「
「違いますよ!? 毎朝夫に『おしゃぶり』をしてあげちゃう
「さっきのを毎朝やる気なのか!?」
怜生を戦慄させた半人半蛇の名は、花蓮といった。
「それより怜生さん、おはようの挨拶がまだですよ?」
「それより? 寝相で夫を猟奇殺人しかけてそれより?」
「はーやーくー」
「……おはよう、花蓮」
「おはようございます、怜生さん♪ お口でします? お胸でします? それとも――」
「言わせねぇよ」
旦那の帰宅を迎える新妻のノリで卑猥なことを口走ろうとした花蓮へと、怜生は熱い拳骨を送った。「あうっ」と頭を押さえた花蓮が抗議する。
「言わせてくださいよー。というか、させてくださいよ! 私には
「ないからな? 魔術師と侶魔の契約書にそんなこと一字一句も記されてないからな?」
朝から脳内がピンク色な妖怪蛇女に、怜生は深く溜息を吐くのだった。
「つーか、今更ながら聞くが、お前のその尻尾は捕食器官なのか?」
「さあ?」
尻尾を指して問う怜生に、花蓮は尾先を開閉させた後、ハッとする。
「もしかして怜生さんは、尻尾の先が食虫植物みたいに開閉する女はお嫌いですか!?」
「産まれてこのかた考えたこともなかったわー」
女性の好みとは全く異なるジャンルの問い掛けだった。
「じゃあじゃあ、頭から角が生えてる女ってどう思いますか!?」
「最近流行りのアクセサリーだと思えばなんとか」
「下半身が蛇みたいになってる女については!?」
「靴に金が掛からなくてお得だと思う」
「鱗が真っ赤な蛇は好みですか!?」
「蛇としては強そうだな。蛇としては」
「おっぱいの大きな女性は!?」
「大好きです」
「真顔!」
最後の質問に即答してしまった怜生は、誤魔化すように咳払い。
「……とりあえず、なにか服を着ろ」
「服? やんっ、怜生さんのエッチ♪」
「鬱陶しいから早く服着ろ色ボケ」
「冷た! 酷いです! 昨晩はあんなに激しく愛してくれたのに夢の中で!」
「ああ、寝言聞かされるこっちの身にもなれってんだよ、ったく……」
徹夜明けのような顔色で、怜生は溜息を吐く。
「むしろどうして何もしてくれなかったんですか! 起きてると迫り難いんじゃないかと思って寝たふりしてたのに! 子供の名前考えてる間に寝ちゃったじゃないですか!」
「あのな、言うまいと思ってたけど、その下半身に何をどうしろってんだよ?」
怜生の指した花蓮の下半身は、やはり人魚の蛇版といった風体だ。
「そんなぁ、そりゃ下半身はこれですけど、胸はまともですよ~? 自分で言うのもなんですがこれかなり大きいですよ~? 怜生さんでしたら好きにしていいんですよ~?」
「もっと自分を大切にしなさい」
「無関心! どうしてですか怜生さん! 女がここまで言っているのに! やっぱり私が半人半蛇だからですか!? 尻尾で人を絞め殺せるからですか!? 全長四・八五メートルの歌って踊れる妖怪蛇女とは子供が作れないと仰るのですか!!」
「その通りだよバカヤロウ!」
無駄に悲劇ぶった口調で訴える花蓮に、怜生の口から正直な気持ちが飛び出した。
「むー、そういうことでしたら……」
花蓮は傷付いた様子もなくそう言って、その身を宙に浮かべる。
すると体の表面を火のような光が過ぎり、花蓮の姿を変えていった。
角が消えて、足は素肌を晒した人間の両足となる。白いブラウスと紺色のハイウエストスカートと黒タイツが身を包み、一五〇センチ前後の小柄な肢体が宙に浮かぶ。
まるで魔女との取引が成立した人魚姫のように、半人半蛇が人間の姿へ化けていく。
「じゃ~ん♪ 奥ゆかしく攻めてみました~」
そう言って一回転する花蓮の服装には、素朴な淑女といった印象を覚える。
半透明で質感のない『幽体』ではあったが、造形は間違いなく人間だった。
「っく、人型でいる分には可愛いから性質が悪いな」
こうして人間に化けた花蓮については、怜生も悔しげながら認める。
花蓮の方は、手応えのある反応に「よっしゃ!」と拳を握った。
他にも服のレパートリーを披露し始めた花蓮を見て、怜生は改めて嘆息する。
(本当に、どうしてこうなったんだか……)
そんな怜生の嘆きに答えるなら、時計の針を、昨日の夕刻まで巻き戻す必要がある。
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