6. ピアノや駒、あるいは銃弾
2014年6月24日 外灘区の裏路地の公園
バスの後部座席に設けられたベッドの中、少年は毛布にくるまり、ぐっすりと眠りこんでいた。鴉はその隣に腰かけ、少年の頭をそっと撫でた。
――こいつのおかげで、再認識したことが一つ。
――俺には、チェッカーの指し手に必要な、ある種の勇気が欠けていた。奔放な攻撃を無意識のうちにためらい、犠牲を払うタイミングが、いつも一瞬遅れていたんだ――それが、取り返しのつかない失着になるというのに。
鴉は自分の手首をつかみ、眼前に掲げた。
「……馬鹿だな俺は……相手が相手だからって、引き分けを狙いすぎたんだ」
――勝つつもりで挑まなければならない――たとえ相手が、負けないと証明されていたとしても――そうじゃなきゃ、奴と同じ土俵で戦えない。
鴉はバスの前方――複数台のPCとディスプレイが置いてあるデスクへと目を向けた。そこには、鴉や少年に代わって、みすぼらしい身なりの青年が椅子に座り、タークと向かい合っていた。
白い背景に溶け込んで消えてしまいそうな容姿をしたアバターの少女を、青年はじっと見つめていた。少女が小首を傾げるモーションを見せると、青年もそれに合わせて小首を傾げ、一体何が楽しいのか、ケラケラと笑った。薬物で溶かされ、シャチのように尖った歯が覗く。
「……もともと期待してなかったが、もう少し真剣にやれよ、鳶」
鳶と呼ばれた青年は、にまっと笑った――狂人じみていながらも、どこか愛嬌のある顔だ。
「ねえ、鴉。この人、とってもきれいだね」
「……アバターがか? まあ確かに、
「ううん、この人の指す一手一手が全部、盤面がきれいだって話」
「盤面が?」
「この人はね、僕をひっそりとした海底に導いてくれるんだ。いい場所だよ? 水はしんと冷たいし、海流に体が揺さぶられる心地がするけど、体のどこにも変な力が入らなくて、少しも怖くないんだ。ふとした拍子に、海流に導かれて、彼女の駒に出会うんだ。彼女の指す一手一手が、光の軌跡を生み出して、きらきらとゆらめく光の網を形づくるんだ」
「……なるほど、今日も、キてんな」
鴉は手で猫を追い払うような仕草をして、鳶に対局に集中するよう促した。
――会うたびに、あらゆる方向へ頭が切れてきてんな、こいつ。そろそろ本格的に駄目かもしれない。半年もつかどうか。
鴉は小さく息を吐いて立ち上がると、デスクへと歩み寄った。鳶の肩越しに盤面をのぞき込み、呆然と口を半開きにした。
「……嘘だろ」
――棋譜をほんの少し見ただけわかる。鳶は強い。ゲームサイトでこれまでタークに挑んだ誰よりも。うさぎのガキよりも、数段。
鴉は黒いスマホを取り出すと、ブラウザを開いた。ルイス・シアラー――鳶の本名で検索をかける。
かつてジャズ・ピアニストとして活躍した功績の他に、彼のチェス・プレイヤーとしての顔がネット記事にまとめられていた。11歳のときにロンドンで開催されたトーナメント戦で優勝し、チェス連盟から最年少でインターナショナル・マスターの称号を与えられた少年。さらに記事を漁っていくと、スクラブルやバックギャモンの大会で神童の評判をほしいままにしていたエピソードが出てきた。
「……数年来の付き合いで初めて知ったぞ。狙撃に演奏に加えてこれか……お前のレパートリーの広さ何なんだ」
「僕にとってはみんな同じだよ? 旋律も棋譜も、弾道も。全部パッと目に浮かぶし、どうすれば美しくきまるかも大体わかる」
「……なるほど、同じときたか」
鴉は釈然としない顔で髪をかいた。
――こいつが数学に強いことは知っていた――空間把握の
テーブルに投げ出された注射器や錠剤――薬物の痕跡と鳶の背中を交互に眺め、鴉は鼻で笑った。
「……もったいないよなあ、お前。もって生まれた才能をドブん中にぶち込みすぎだ。変なのに憑かれてさえなきゃ、もっと生産的で楽な生き方できただろ」
鳶は不思議そうな顔で振り返り、真顔のまま、ビシッと鴉を指差してきた。
「ぶうめらん」
「……あ?」
鴉が聞き返すのに取り合うことなく、鳶は画面に目を戻していた。食い入るように盤面を凝視して、次の一手を模索し始める。
鴉はしばらく呆けた顔をしていたが、やがて自嘲するように笑ってみせた。
――ブーメラン、か。
――確かに、タークの存在を運営にチクって追い出せば、今頃俺はこのサイトでトップの指し手になっていたはず。
――それなのに俺はもう、何千回もタークに負けてる。レーティングは下がる一方だ。
――でも、しかたなかった。タークの正体を知ったとき、チェッカーを覚えて以来、はじめてぞくぞくした――初めて心の底から勝ちたい思えた敵が、タークだったんだ。
「……勝つことがわかってる相手と戦って、何が楽しい? これは、より強い相手を求める闘争本能なんだよ」
――そう思うと、気分は悪くない。
「……強者と戦ってないと、心が満たされないんだ。まるで漫画の
鳶がちらりと鴉を見た。何の感情も読み取れない、無機物を見るような冷たい眼差し。鴉は、胸の奥で、心臓がトクンと跳ねるような感触を味わった。
――なんで、そんな目で見てくる?
――なあ、俺は
――そうだろ? そうだよな?
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