豊葦原陰陽奇譚
時宮皐月
犬神事変 一
東の果てに、
大陸と全く異なる文化を持ち、外部との交流を拒み続けるその国は、小さな国土に数多の怪異を閉じ込めていた。
八百万の神々、幾億の妖は、生ける人の数より多く存在すると伝えられる。
それらは常に時の帝、将軍を悩まし、時に助けとなって来た。彼らの存在は豊葦原の民にとって、古より共に在る日常であった。
妖は人を脅かす事もあれば助けとなる事もある。神は人を守る事もあれば祟る事もある。
そんな魑魅魍魎の跋扈する豊葦原国にて、人と妖の間に立つ者達が居る。
陰と陽の調律を生業とする者、彼らを人は古くより「陰陽師」と言い習わして来た。
先の戦の時代よりおよそ二百年、東の都に
東の都、栄堵の下町に、
はがねの髪は影の中にて黒鉄に、光の下にて白銀に輝く。
双眸は柘榴石の如き紅に染まり、妖を前にして視線鋭く。
白皙の肌の美貌、しかして笑みは悪鬼も怯む形相となる。
酒と煙草と静寂を好み、人間と喧騒と節介を嫌う。
出自、一人として知らず。姑獲鳥に抱かれて育ち、天狗と野山を駆け、獏に寄り添いて眠り、鬼を見て生きる。
修験の方士に才を見出され、京にて月久の術を学ぶ。その後東へ流るるに、今は下町の揚屋を住処とす。
今年十六になる澪は芸者へ見習いに出て三年になる。芸者の見習いは栄堵では「半玉」と呼ばれており、澪もまた数いる半玉の内の一人だ。最近ようやく形になってきたと言葉をかけてもらえるようになったばかりである。
本日は置屋の方で少々もめごとがあり、その片付けを手伝っていたら、いつの間にか陽がとっぷりと暮れていたというわけだ。
早く帰らねば姉が心配する。
澪と姉は幼い頃に両親を亡くし、姉妹寄り添って生きてきた。姉は少々澪に過保護なきらいがあり、見習いへ出るにもかなり渋っていた。散々説得して、ようやく姉は自分が信頼できる芸妓のところへ見習いに出した。
早く戻らねば。栄堵の街の夜は日中の賑やかさが嘘のようにしんと静まり返り、澪の足音だけが広い通りに響く。
夜の栄堵には、辻斬り、追剥、妖の眼があると云う。若い生娘は特に狙われる。
帰り道を急ぐ澪の耳に、不意に何かの足音が聞こえた。
辻斬り、追剥だろうか。身を固くした澪だったが、その足音は人の下駄や草鞋のものではなく、もっと軽く柔らかなものだ。
猫か、犬か。いや、猫なら足音などしないだろう。ならば犬か。
犬ならそう珍しくは無い。野犬であっても刺激しなければ早々人を襲う事など無いから、澪はすぐに力を抜いて再び足を速めた。
……だが、奇妙なのはそれからだった。
後ろを追う足音が、徐々に早くなっている気がする。だが、一行に犬の姿は澪を追い越さない。
最初は気にしていなかった澪だったが、首筋に生暖かい吐息を感じて、一気に背が冷たくなった。
ハッ、ハッ、と熱い息遣いが耳朶に触れる。だが、人の頭の高さの犬など居るはずがない。
知らず知らずの内に、澪は駆け出していた。は、は、と澪の息も弾んで行く。だが幾ら走れど、耳元の犬の吐息はぴったりと張り付いて離れない。
やがて、その耳に、べろり―――と、熱い舌が舐めた。
「………………ッ!!」
全身が総毛立ち、耐えかねた澪は手に持った荷物を振り回した。
だが荷物は空を切り、振り返った背後には静かな夜の闇だけが広がっていた。
栄堵の色街に、
珠は揚屋の階段を足取り荒く登って行くと、部屋の並ぶ二階の突き当たりの梯子を更に上る。
屋根裏部屋とも呼べるその部屋に顔を出し、通りに面する窓辺にだらしなく寄りかかって外を眺める男の姿に溜息をついた。
「透夜!」
名前を呼びながら梯子を上り切れば、透夜と呼ばれた男は長く煙草の煙を吐き出しながら、気だるげに珠を振り返った。
長い鋼色の髪を高く束ね、白い着物の前もだらしなく肌蹴て胸が見えている状態にも関わらず、それが様になるのは切れ長の目と白皙の美貌がなせる業だろう。揚屋という場所もあって、これだけでも十分に客寄せが出来る。
だが、この男は断じて揚屋の一員でもましてや客でも無い。例え指名を受けても、珠なら即座にお断りである。
「透夜。仕事だよ」
「断る。他をあたってくれ」
一部の迷いも無く即答した男に、珠は再び溜息をつく。煙管をくわえて煙を吐き出す男にずいと距離を詰めた珠は、その煙管を男の手から奪いとる。
「断らせないよ。あんたもたまにはまともに働きな」
「どうせお祓いだの占いだの祈祷だろ?そんなのは街を出て少し行った先の修験堂にでも行ってきな、修行途中の僧も巫女もわんさか釣れるぜ」
「何処の誰とも知れない連中に任せられるか。良いかい、透夜。あたしの澪のことだ」
煙管を奪われた事に眉を顰めながらも、男は渋々珠の話に耳を傾ける。
「澪?ああ、あんたの妹か」
「そうだよ。あの子に何かあったらあたしがただじゃおかない。良いね透夜、何とかするまでこの揚屋には入れないよ」
そこまで強く言い切ると、男はわざとらしく目の前で深い溜息をついて見せ、渋々と言った風に身を起こして着物をきちんと合わせる。
「分かった分かった。代わりに、幾らとっても文句を言うんじゃないぞ」
「ああ、覚悟してるよ。可愛い澪の為なら、幾ら出したって後悔しないさ」
澪と珠はたった二人の家族だ。珠は澪の為なら何でもすると決めている。
男もそれは十分承知の上で、だからこそどういっても引かないと知ったのだろう、やれやれと言いながら立ち上がる。
「で、その可愛い可愛いあんたの妹は何処だ」
「通りの向こうの置屋さ。訊けばすぐに分かるよ」
男の手に煙管を返して、珠も立ち上がる。男はその顔を覆う面布をしてから、部屋の梯子を降りる。
揚屋の入口まで追い立てられて、男もいい加減仕方ないと諦めたらしい。はあ、と溜息をついてから、珠を振り返った。
「この天永透夜に頼むんだ。覚悟しろよ」
遠野澪は、置屋の衣裳部屋で小道具を手に溜息をついた。
今、犬の気配は澪の付近には無い。だが、一人でいるとふと感じるのだ。獣の臭い、近寄る足音、荒い息遣い、生温い吐息。姉にそんな事など到底言えず、衣裳部屋の整理を申し出た。
周囲には棚に遮られて姿は見えずとも、人の声や足音が絶え間なく聞こえている。どの扇子が痛んでいるだの、どの衣装がほつれているだの、あの飾りは何処へ行っただの、始まる前は不満の声を上げていた半玉たちも整理を始めてみればそれなりに楽しんでいる。
「ねえ澪、ちょっといい?」
「何?」
棚の向こうからひょっこり顔を覗かせた少女に応えて、澪も腰を上げる。
はっきりした目立ちの少女は澪と同期の半玉、
「この紗に合わせる衣装が見当たらないんだけどさ、澪、知ってる?」
「ああ……見たような気がする。待って」
言葉少なに答えてから、ずらりと並ぶ箪笥を辿って行く。紗に合わせるような衣装なら色は濃いだろう、同じ緑の色で合わせていたのを見た覚えがあった。
おそらく佳代も合わせる衣装自体は覚えているのだろうが、それが何処に仕舞われているかまでは記憶に無いのだろう。
佳代が次から次へと箪笥の引き出しを開けていくのを横目に見ながら、澪は確かこの辺りと足を止めた。
「多分、この辺り」
「おお、ありがとう澪。んじゃ後は自分で探してみるからさ、ほんとにありがとね」
「別にこれくらいは」
言葉が少なくてぶっきらぼうになるのは昔からだ。お陰で友人は少なかったが、佳代はそれでも話しかけてくれる貴重な友人の一人である。
佳代に声をかけてからその場を離れ、元の持ち場に戻る。釵を始めとした髪飾りの整理は大まかにだが出来ていて、後はそれぞれ箱やら引出やらに入れるだけだ。
「ねえ澪!」
「今度は何?」
顔を上げれば、やはりまた佳代だった。笑顔で手招きするので寄って行けば、他の半玉達も腕を伸ばしたり肩を回したりしながら集まってきている。
「もう昼だよ。早く行かなきゃ食事処も混むしさ、行ける時に行っとこうよ」
「あー、確かに。混んで並ぶと余計に時間かかるしねえ、いっそ早めに行っちゃう?」
そうしよう、そうしようと次々に上がる声には、明らかに飽きが滲み出ていた。要はこの埃っぽい場所で整理を続けるのに飽きたのだ。
気分転換すれば効率も下がらないだろうし、何より佳代の言い分に納得もしたので、澪は頷く。
ただでさえ昼時の栄堵の通りは何処も賑わっていて、人気の食事処はすぐに行列ができる。
人の声や気配に紛れると楽だ。同じ半玉の少女も芸者の仲間も、既に馴染みの澪に親しく接してくれるから、大丈夫ですと笑っているだけで忘れられるだろう。
先に師である芸者たちに許可をもらってから、半玉達は賑やかに通りへと出る。
これだけでも昨日から引きずった暗い気持ちを晴らせる気がした
そんな時、だった。
からん、と下駄の音がして、澪の上に影が落ちた。視界に入る一本下駄の足、するりと視線を上に上げると、黒い袴に白い着物、肩にかけた薄い羽織、腰の刀、顔を覆う白い面布が次々と目に入った。
歳の頃は分からない、面布をしているのが余計に不審も煽る。だが、その佇まいは凛として隙が無く、どこか浮世離れした雰囲気を放っていた。頭の上で束ねた鋼色の髪の色合いが不思議だ。
当然澪はこんな男に面識など無いし、知り合いですら無い。
澪を見下ろす視線を面布越しでも感じる。目も見えないのに視線だけを感じるのが不思議でもあり、また不気味でもあった。
「おまえが、遠野澪だな」
ぽかんと見上げる澪に、男は淡々と問うた。
頷いて見せると、男が見定めるように澪を見つめたのが分かった。頭から足の爪先までの視線の動きが伝わって身体を固くする。
澪が睨み返しても一向に気に留める様子など無く、再び視線が澪の顔を見て止まる。
「成程、珠によく似てる」
「……誰?」
姉の知り合いだろうか。しかし、面布をしているような男など知らない。
第一、あの姉がこんな得体の知れない男を澪に会わせるとは思えなかった。過保護なら自他共に認める姉の珠である。
「怪異に遭ったとか聞いたが、本当か」
「……それは」
そうだ、とすぐに答えられなかったのは、周囲で怪訝な顔をしている半玉達の姿が目に入ったからだ。
怪異の話は人の耳にも快いものではないし、何処から噂が立つか分からない。師に聞こえが悪い事はなるべく避けたかった。
周囲にちらと視線をやった澪だったが、カンカン!と不快を露わにした下駄の音に視線と意識を引き戻される。
「遭ったのか遭ってないのか、どっちだ」
問い直した声は明らかに苛立っていた。腕を組み見下ろされると、それだけで威圧される。
これは何よりも目の前の男を苛立たせるわけにはいかないと、澪は素直に頷いた。一瞬ざわついた半玉達はあえて無視する。
澪が頷いたのを見て、男は考え込むように少しの間黙り込んだ。この間に逃げてしまおうかとも考えたが、逃げ切れるとは思えず大人しくその場で姿勢を正した。
「どんな怪異だ」
「……あの」
話をさえぎる形になったが口を挟む。男は面布の下で顔を顰めたかも知れないが、一応言葉を切る。その間に澪は先を続けた。
「場所を変えませんか」
「何処で話したって内容は同じだ」
ほとんど間を入れず返された答えに、澪はつい溜息を吐いた。確かに何処で話そうと話の内容は変わらない。だが、何よりも澪は他人に聞かれなくはなかった。
あまり怪異の話など聞かれたくない、後で噂になってある事ない事言われたり聞かれたりが嫌なのだ。人としては当たり前の感情だろうに、どうしてこの男は分かってくれないのだろう。
男は澪の言い分をまともに受け止める様子は無さそうだったが、澪が一向に話さないのに見かねて深い溜息をつき、至極面倒そうに踵を返した。
「それじゃあ、どこならお話してくれるって言うんだ?出会い茶屋なら良いのか、それとも遊郭の一等部屋に案内してくれるのか」
「断る。あなたに大事なお金なんて払いたくない」
不快を露わにした声と表情ではっきりと言えば、男は再び澪をじろりと眺めた。
一体何なのか、と眉間を更に寄せたところで、男が小さく笑った。それから澪に先に行くよう促す。
「そっちは花街じゃないぞ」
「当然です」
歩き始めるなりそんな声をかけられて、澪は軽く後ろの男を睨みつける。
確かに姉は揚屋の女主人ではあるが、それとこれとは話が別だ。姉は澪を決して仕事場には連れ込まなかったし、澪も行こうとした事は無かった。
しかしこの男は何なのだろう。おそらくは姉の珠の知り合いなのだろうが、素性は知れないし名前すら名乗らない、その上無礼で破廉恥だ。
それでも、と澪は己に言い聞かせる。怪異について尋ねてきた、もしかしたら男は方士なのかも知れない。解決してくれるのなら、この際多少は目を瞑ろう―――と、澪は胸の内で自分に繰り返し聞かせた。
姉と二人で暮らす長屋に招き入れると、男は面布越しでも的確に敷居を跨いだ。外から見えなくても内からは見えるのかしら、と澪は思う。
座敷に上がってもらい、向かいに澪も座る。男は刀を自分の横に置くと、再び澪をじっと見つめた。
「な……何ですか」
「あんた、本当に自覚無いのか」
「何が?怪異の事?」
首を傾げた澪を、男の視線が射抜くように見つめている。身を固くする澪だったが、やがて男はひとつ溜息をついてから「で」と先を続けた。
「何の怪異だって」
「その前にまず、あなたは誰。何故私の事を?」
「察しの悪い娘だな」
呆れたような男の物言いに、思わず言葉を失くした。頭が良い、訊き訳が良いと言われてきたが故に男の言葉はかなり屈辱的だったが、ぐっと堪える。
男は胡坐をかいて面布を下半分だけめくり上げると、煙管を取り出して火をつける。白い煙を宙に吐き出してから、口を開いた。
「珠の顔を知ってる時点で、あいつの知り合いに決まってるだろうが。珠の知り合いでお前を知らない訳があるか、あの姉馬鹿が。こんなつまらない術師に頼る時点でどうかと思うが、怪異について興味を持つのは余程の馬鹿な物好きか金が欲しい術師くらいだ」
姉の事を悪く言われた上に、明らかに馬鹿にされた物言いにむっとなったが、怒りはひとまず胸の奥に抑え込む。
とりあえず、この男は姉の知り合いかつ、おそらくは姉の紹介で訪れた方士というわけだ。それさえ分かれば今はいい。
「あなたが姉の知り合いで、腕の立つ術師様である事は分かった。だけど、せめて名乗って」
「名前なんか聞いて何になる」
「最低限の礼儀じゃないの。私なら、名前も知らない人に話はしたくない」
はあ、と溜息がこぼれた後、男は名前を口にした。
「天永透夜」
「あまながの……とおや」
「天に永き、透いた夜だ」
不思議な名だと思った。天永という家は聞いた事が無い上に、透いた夜とは随分と変わった名づけだ。
名乗って仕事は終えたと言わんばかりに、透夜は腕を組んで澪を睨みつけた。面布越しの視線は澪に話せと威圧しており、その視線に気圧されて澪は何度目か身を固くした。
一度深呼吸して、気を落ち着かせる。思い出すとあの時の感覚が蘇る、恐怖が無いと言えば嘘であり、男も信用できたわけではない。それでも今、澪が頼れる当ては目の前の怪しい天永透夜という男だけなのだ。
腹を括り、澪は事の顛末を話し始めた。
透夜は澪の話を黙って聴いていた。
煙草の煙を吐き出しながら、透夜は俯いて何かを考え込んでいるようだった。口元だけ見えたとはいえ、とても表情や考えを読み取れるほどでは無い。
しばらく考え込んだ透夜だったが、やがて顔を上げると澪を正面から見た。
「お前、本当に自覚は無いんだな」
「自覚?」
「いや、無いならいい。どうせ無駄だ」
何故この人は一言多いのだろうと思わずにいられない。眉根が寄ったのは仕方が無いだろう。
「で、その呆け面だと大した心当たりもないんだろう」
「呆けっ……」
「安心しろ、元から期待なんぞしてない」
いい加減我慢ならない、と澪が身を乗り出したところで、天永がするりと立ち上がった。
「あの、何」
「……帰る。金の用意をしておいてくれ」
それだけを言って、天永は一本下駄に足を入れて長屋を出ていく。
そのあまりにあっさりとした引き際に呆気にとられた澪だったが、はっと我に返ると「金を用意って、何!」と、既に姿の無い男に向かって吐き出した。
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