第3話 少し前の話
こちらの世界でも、年、月、日、時間の概念はサヤの元いた世界とさほど変わりはない。
しかし東西南北、どこに位置する国も、 一年中最高気温が二十度を下回り、下がるときは最低気温氷点下四十度…なんていうことがザラにあるこのノーデル国のように四季の移ろいは乏しい。
ノーデル国は雪国と呼ぶには雪は少なく、地表むしろ分厚い氷に覆われている。
海が近いので海産物が目立った特産品で、中でもウルウと言う名のクジラほどの大きさもあるラッコのような姿をした生き物は、脂を蝋燭や燈の元にしたり、毛皮を帽子やマフラー、骨は磨けば装飾品として高値で売れ、肉は缶詰や干し肉としては勿論生でも食せるとあって人々の生活の軸となっている。
そしてもう一つ、ノーデルの陰の特産が奴隷だ。
国土が広大かつ、貧富の差が激しいノーデル国では親が子を売り飛ばすだけではなく人攫いが誘拐してきた女や珍しい種族を奴隷として闇取引きすることが後を絶たず、旅行客にさえその魔の手が伸びることもあり、ノーデル国は他国からそのことを厳しく指摘されていた。
しかし、“ノーデル産”はいい値で売れているこも事実であり、買って行く連中も6割以上が他国の人間である事もこの事をより深刻で繊細な問題足らしめてい、る。
ノーデル産とは、ただ単にノーデルの“商人”が売り出しているとか、“商品”がノーデル生まれというばかりに留まらず、ノーデルで品定めないし“教育”されたものという意味合いが大きい。それこそが扱いやすいと、“そういった人間たち”を満足させていた。
掻っ攫いいきなり売買、なんて、虫のいい話は無い。非人道的な行いの中にも一定のルールというものが存在する。
連れてこられた人たちは、商人どもの手によって奴隷へと成り下がるのだ。
“そのまま”が良いという変態的な要望が“客”から求められない限りは、一般最低限の知識や教養、演劇・音楽をはじめとした藝術に対する造詣を深める為の勉強をする。あまり愚かだと“買い手”を不快にさせるので、当然と言えば当然のことではある。
他にも勿論“奴隷らしい”ことも多く学ぶ、痛みの逃し方や止血の仕方、主人を悦ばせる方法など、どれもこれも、直ぐに“だめ”になってしまわぬ為の自己修復の知識だ。
大体、少なくとも一月から長くて半年ほどで“勉強”は終わり、育てた商人が奴隷に証となる印を付け“出荷”となる。
商人とコネクションの有る大金持ちが直接“購入”することも有るが、そんなことはごく一部の本当に本当の大金持ちが「娯楽として試してみようかな」程度にしか起こり得ないので、一般的ではない。ちなみにサヤはこのやり方でアリスティアに買われたのだが……、それに至るまでの話をしてみようと思う。
今から半年ほど前、正確に言えば178日前の話。
サヤ、本名は
「ゥ、……?ぐ……ッ!!」
黴臭く埃っぽい湿った空気にむせ返る。薄暗い中でも目視出来るほど大量の灰色をした細かい塵が舞っており、“此処”が長らく使用されていない場所である事を伺い知れた。
猿轡と呼ぶには華美な装飾の付いた銀色の器具が唇と歯に食い込んで痛む、手首も足首もぬめ革のような素材のベルトでキツく縛られビチビチと陸に叩きつけられた鯉のような動きしか出来ず、サヤは拉致、誘拐、監禁、人身売買などの単語を頭に駆け巡らせ声にならない声を低く漏らした。
無駄な動きを続けても、それこそ無駄に体力を消耗するだけだ、サヤは一度身体を休めようと力を抜いた。ひどく喉が乾く。
どれくらいの時が経っただろう、体感では二、三時間ほどだろうか、スッと音もなく扉が開き部屋に光が差し込んだ。
「×××、××!×××××……」
中年の男の声、聞きなれない言語にサヤは絶望した。
発音や発声はドイツ語やロシア語に似ていて強い口調に聞こえたが、単語の一つ一つはフランス語のように滑らか、そして何より区切り方は日本語に近く、ひどく鈍った地方言語を聞いているかのような錯覚に陥った。
中年男の隣にいた屈強な男、これも奴隷だったのだが、サヤは知る由もなかった。
“それ”がサヤに近づく、丸太のように太い腕は血管がグロテスクな程浮き出ており、サヤはニュッと伸びる手を身をよじりながら拒絶する。しかし、拘束された少女と屈強な男、力の差はまさに蟻と象の如くで、意外にも繊細に抱きかかえられながらサヤは元いた部屋を後にした。
「×× ×× ××?」
猿轡と拘束を解かれ赤い椅子に座らせる、男は三メートル程離れた向かい側に重厚感のある机をちょうどお互いの真ん中に挟みながら座っていた。
豪奢で厳かな室内に、サヤはもしかして此処は何処か遠くの国の大使館か何処かで、パスポートも何もない自分を密入国者か拉致被害者として見極めるために連れてこられたのでは?と、政治など何も知らない頭で考えた。
「ア、アー……、アイム ジャパニーズ」
「×?」
「え、発音悪かった……?」
中年男は困ったような顔をしてから自らを指差した、
「××× ドズ」
「?」
「ド・ズ」
今度はゆっくりと大きな口を開けて繰り返す。ドズ?サヤがそう反芻するとドズは満足そうに頷き、今度はサヤを指差す。
「サヤ、サヤ・キザシ」
言った後になり、姓名の順は逆だっただろうか、と気付いたが、公用語すら分からない国で何を今更とすぐに考えるのをやめた。
「サヤ?」
「サヤ!」
あー、しくじった。名前の順だが、サヤは実はこのタイミングで既に気付いていた。しかし、そこをまた正すのは面倒だと何も言わずに言葉の通じない相手と意思の疎通が出来た喜びに浸った。(この場で訂正しなかったせいでサヤ・キザシがそのままファーストネーム・ファミリーネームだと勘違いされることになる、これから、ずっと)
言うまでもないことではあるが、ドズは奴隷商人で館は売買の為の施設の一つだった。けれど、実のところ、サヤに“勉強”の記憶は殆ど無かった。
心が精神を守るために脳が拒絶した、ということではなくて、サヤがドズの名前を知った数時間後に偶々奴隷を買いに来たアリスティアの目に留まり、アリスティアが勉強を必要ないとする奇特な方の客だったので、三週間程必要最低限の読み書きだけ詰め込まれたサヤはただ“異世界の言葉を理解出来る女子高生”としてアリスティアの“奴隷”になったのだった。
アリスティアが“迎えに来た”その日、サヤは黒を基調とした丸みを帯びた馬車を見てかぼちゃのようだと胸踊らせ、馬車を引くプラチナゴールドの毛をした馬のような美しい動物に興奮して、未来を然程悲観してはいなかった。
“勉強”していなかったサヤは自らが“奴隷”だという意識が低く、何よりアリスティアの容姿が神経質そうなところさえ除けばまるで御伽噺に登場する“王子様”そのもので、白馬の王子様にずっと憧れを抱いていたサヤは夢見がちになっていたのだ。
その幻想は馬車に乗り込んだ瞬間打ち砕かれることになった。
そして、馬車に乗っていた半日の間でサヤは自らが“奴隷”なのだと痛いほど思い知る事になるのだった。
「嗚呼、もっと“良い人”に買われたならね……」
馬車の走り出す音とドズの呟きが重なった。
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