0-B
その男は傘も差さずに、雨の町を歩いていた。
大きな黒い帽子と、黒いレインコートを着た男の姿は、まるで町の影に溶け込む電柱ののよう。
男は本来、昼時に外出するのは嫌いだったが、それは太陽が苦手なだけで、こんな厚い雲に覆われた天気の悪い日には、静かな町を散歩するのが好きだった。
そうやって、雨に濡れて歩いていた男は、ふと血の臭いを感じて足を止めた。
臭いの元は路地の暗がり、そこから柄の悪い高校生が四人ばかり出て来る。
彼らはニタニタと嫌な笑みを浮かべ、男の事を気にも止めず立ち去って行った。
男はそれを見送ると、まだ血の臭いが残る路地裏に足を踏み入れる。
薄暗く、雨でも消えぬ腐臭に満ちたそこには、一人の少年が倒れていた。
痣が出来て鼻血で染まった顔と、鞄の中身が散乱している所を見ると、先程の高校生達にカツアゲでもされたのだろう。
近付いて見ると、少年は目を開けていて意識も有るようだったが、立ち上がるでもなく仰向けに寝転がり、淀んだ瞳で暗い空を見上げていた。
その姿に、男はある種の既視感を抱く。
どれほど昔の事だろう、瀕死の重傷で路地裏に倒れていた自分も、この曇った空よりも暗い目で、星の彼方を見上げていたものだ。
そして、ある人が彼にしたように、男も少年に問いかけた。
「君は、世界が憎いかい?」
突然知らない男が現れ、突飛な質問をしてきたというのに、少年は驚かなかった。
これが夢だと思い込んでいたのかもしれないが、妙にハッキリとした声で、少年は男の問いに答えを告げる。
――憎い、こんな世界など滅びてしまえばいいのに。
淡々と告げる少年を、男は哀れんだ顔で見下ろす。
それは、少年の未来を憂うものであり、自らの過去を嘆くものだった。
けれども、かつて『
「ならば、君の世界を滅ぼす力を上げよう」
そうして、幾つかの忠告を告げた後、男は少年の首に噛み付いたのだ。
目覚めて最初に映ったのは、見慣れた部屋の天井。
そして、泣き出した母親の顔だった。
良かった、良かった、と言って泣きつく母親に、僕は何があったのか問い質す。
曰く、激しい雨が降っていた二日前の夕方、僕はずぶ濡れのまま玄関先に倒れており、そのままずっと眠り続けていたのだという。
ぼやけた頭にそう告げられ、僕は急に思い出す。
あの夢だと思っていた光景、知らない男が僕の首に噛み付く悪夢。
僕が恐る恐る首筋に手を伸ばすと、そこには――何の傷痕もなかった。
安心して息を吐くと、僕は酷い渇きと飢えを覚えたので、母親にそれを告げた。
何か作ってくると母親が台所へ立ち去った後、僕はベッドから降り立ち、全身をくまなく動かしてみる。
少し怠い感じはしたものの、何処にも異常は見られない。
僕はそれに満足すると、部屋が暗い事に気付き、閉め切られていたカーテンを開けた。
――光が、僕を焼いた。
手が、顔が、陽光を浴びて、灼熱の鉄板に押し付けられたように、煙を噴いて燃え出した。
僕は急いでカーテンを閉め、激痛に転げ回る。
すると、傷は一分も経たない内に見る間に治ってしまった。
明らかに異常な自分の体に、僕は男の忠告を思い出す。
『一つ目、君はもう太陽の下を歩けない』
脳内で男の声が反響し、僕はあの夢が現実だったと思い知らされて戦慄した。
――僕はもう、普通の体ではなくなってしまったっ!?
だが、そう恐れたのも一瞬、僕は自分が
――夜にしか生きられない体になったけど、でも……。
そう考えていると、騒音を立てて父親が現れ、立ち尽くす僕に怒鳴り始めた。
「何だ、二日も寝てると思ったらピンピンしてるじゃねえか! 学校に行くのが嫌で仮病を使ってやがったな、このバカ息子がっ!」
そうして、いつものように頭を殴ってきたが、まるで痛くはなかった。
ただ、鬱陶しかったので、僕は父親の腕を手で軽く払う。
ゴキッ!
それだけで、父親の太い腕は異音を立て、有らぬ方向に折れ曲がる。
突然の事で何が起きたのか理解できない父親の前で、僕は自らの力を実感していた。
――なるほど、これが僕の得た力か
今度は、呆然とする父親の顔面を、思いっきり殴ってみる。
すると、父親の頭が赤と白と茶色の破片となって飛び散った。
僕の拳もグシャグシャに潰れたが、それは直ぐに治る。
父親の脳味噌と血と骨にまみれながら、僕は初めての罪に怯える事もなく、全身を貫く高揚感に震えていた。
あの腕力以外に取り柄のない、低脳で暴力的なクズを、こんなにも簡単に殺せるなんて、可笑しくて可笑しくてたまらなかった。
僕が腹を抱えて笑っていると、そこへお粥を手にした母親が戻って来る。
血だらけの僕と、頭を無くした父親を前に、唖然と立ち竦む母親を見て、僕は男の忠告と耐え難い渇きを思い出す。
『二つ目、君の渇きは生き血を飲まねば治まらない』
僕は身動きできない母親に掴みかかり、その首筋に噛み付く。
尖った犬歯が皮膚を破り、とたんに得も言われぬ甘く熱い液体が口を満たす。
それはどんな飲み物よりも美味で、どんな事よりも強烈な快楽だった。
恍惚としてひとしきり母親の血を飲んだ後、僕はある事を試してみる。
『三つ目、自分の血を送り込む事で、君は仲間を増やす事ができる』
痙攣する母親にもう一度噛み付き、犬歯を押し出すように力を入れてみる。
すると、少しずつだが僕の血が母親に流れ込んで行くのが分かった。
そうして予行練習を終えると、僕は最後の忠告を実行する。
『四つ目、君は心臓か脳を破壊されない限り、決して死なない』
僕は躊躇なく、手刀で母親の胸と頭を貫いた。
父親同様、血と脳漿を撒き散らして倒れる母親を見ながら、僕の脳裏に浮かんだのはただ一人の少女。
――お前なんか僕の仲間になる資格はない、僕の仲間になっていいのはこの世界で一人だけ。そう、彼女だけだっ!
そう雄叫びを上げ、僕は最後の獲物に目を向ける。
騒ぎを聞いて駆け付けたものの、両親の死体と血まみれな兄に凍り付く弟。
もっとも憎いそいつに、僕は満面の笑みを以て告げた。
――悪いな弟よ、兄さんは吸血鬼になったんだ。
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