6-10

 月が山に隠れようとするほどの時間が過ぎても、柘榴は朽ちた校舎の屋上に膝を付き、その場を動こうとしなかった。

 一部始終を見守っていたU・Dは、何も言わず、彼の側に座っていた。

 虫だけが鳴いていた静寂に、突然、聞き覚えのある電子音が響く。

 それは柘榴の携帯電話が鳴らす非常事態の知らせだったが、赤銅の鬼はまるで聞こえない様子で指一本動かさない。

 仕方なく、U・Dが柘榴のコートから勝手に拝借し、通話ボタンを押して耳に当てると、聞き覚えのある女性の声が響いてきた。


『柘榴、無事なの。聞こえてるっ?』

「ケイトさん?」


 それが彼の元相棒で白人女性のケイト・マクレガーであると知り、U・Dは少し驚いた声を出すが、驚いたのは相手も同じだった。


『Uちゃん? なんで柘榴の携帯に貴方が出るの? まさか……』

「大丈夫。少し怪我してるけど命に別状はないし、吸血鬼も退治したわ。ただ、ちょっとショックな事があって、今は電話に出られそうもないの」


 U・Dの説明を聞き、ケイトは柘榴が電話に出られない事情を訝しむ事もなく、二人が無事である事に安堵の息を漏らす。

 だがその声も直ぐに、強張った緊迫したものに変わった。


『とにかく、二人とも無事なら今直ぐに村から離れて。協会と政府の決定により、東ヶ谷村は全て焼き払われる事になったわ』

「焼き払う?」

『文字通り、全て焼き払って無かった事にするのよ。目標の処分に成功したとはいえ、今回は被害が出過ぎたわ。村人の死因を隠す為に、山火事という嘘が必要なのよ』


 つまり、山火事という名目で火を放ち、吸血鬼によって殺された大量の遺体を焼却して、その死亡原因を隠蔽するという事だ。

 U・Dはそれを理解し、その上で懇願するように尋ねる。


「他に方法はないの?」


 吸血鬼という怪物によって、何十人という村人が惨殺されたなどという真実が明るみになれば、パニックが起きてしまうという理由は分かる。

 だが山火事など起こしてしまえば、大量の木々が焼かれ、そこに住む動植物も犠牲になり、近隣の町にまで被害が出てしまうかもしれない。

 人として当然の心配をする少女に、狩人の女は冷たく告げる。


『私達は人外を狩る者。人以外のモノに心を割く余裕は無いのよ』

「…………」

『安心して、近隣の住民を避難させる準備も整っているわ。そして、これはもう決定事項なのよ。既に隼チームがそちらに向かい、森へ焼夷剤の設置を終えている。後はスイッチを押すだけでこの村は灰になるの。例え、貴方達が居ようとね』

「っ!?」

『……三十分待つわ、その間に車か何かを調達して、この村から逃げなさい』


 その言葉を最後に、電話は切られた。

 U・Dは協会の無情な決定に怒り、暫し物言わぬ携帯電話を睨み付けていたが、直ぐに時間の無駄だと悟り、動かぬ柘榴に呼び掛けた。


「柘榴、この村は協会の手で焼き払われるそうよ、早く逃げましょう」


 そう言って手を引くが、しかし柘榴は立ち上がろうとしない。

 ただ薄闇の空を見上げ、何もかもが抜け落ちた表情を浮かべていた。


「もう、どうでもいいんだ……」


 未来も、過去も、自分の命も、何もかもに興味が無いと声を漏らす。

 幸福な日常を望んだ少年、藤乃戒は七年前に死んだ。

 復讐と贖罪を誓った鬼、赤銅柘榴はたった今死んだ。

 夢も目標も失った男は、もう生きる甲斐を見い出せなかったのだ。

 ここで死んでもいいと、そう全身で告げる男の胸に、少女の細い体が飛び込む。


「三百年生きたアタシにも、貴方がどれだけ辛いのかは分からない」


 そう言って上げられた少女の顔は、悔しさで涙に濡れていた。

 命を捨てようとする男を、こんな悲しい事が起こる世界を、止められない無力な自分が悔しくて、それでも力の限り叫ぶ。


「でも死なないで、もう目の前で好きな人が死んでいくのは嫌なのよっ!」


 それは、三百年の間に積もり積もった絶望。

 ただ不老不死なだけで、無力な小娘に過ぎなかった者の絶叫。


「みんな、みんなアタシを置いて死んで逝く……ずっと一緒に居ろなんて言わない、永遠に居られないのは分かってるわ。けど、けれど、生きられる命が死んでいくのを、ただ見ているのは嫌なのよっ!」


 いつかは寿命という枷で別れる時が来ても、その前に命が絶たれていく事が、U・Dにはどうしても許せなかった。

 それが不死者の傲慢なのだとしても、少女は叫ばずにいられなかった。


「ねぇ、貴方には本当にもう何も無いの? やりたかった事は無い? 見たかった本とか、食べたかった料理とか、そんな下らない事でもいい。会いたい人は、待っている家族が居るんじゃないの? それに、まだ世の中には怪物が一杯いるわ。貴方の助けを待っている人がたくさん居るのよっ!」


 悲痛な叫びが鼓膜を揺さぶり、男の脳裏におぼろな影を浮かべる。



 読み終わっていない小説が、部屋の角に溜まっていた。

 いつか、世界中の料理を食べてやろうなんて、子供じみた夢を持っていた。

 実家には、妹の鈴子が、真子姉さんが、お手伝いの時恵さんが、飼い犬のユメジが、みんなが自分の帰りを待っていた。

 化け物なんかとは関係の無い世界で、ただ平凡に生きる人々を守るという信念は、まだ折れずに残っていた。



 男は自分が空っぽになったと思い込んでいた。けれど、そんな事は無かったのだ。

 大切な事を思い出し、力が戻った瞳に、少女の泣き腫らした顔が映る。

 ほんの数週間を共にした相棒、口が悪くて自分勝手な子供、役に立たない新米、けれど、何度も自分の心を支えてくれた女性。

 生に飽きるほどの時を経ても、なお人であろうとする少女が、男に全ての想いを告げる。


「何も無くてもアタシが居る! アタシは貴方が好き、もっと色んな事を話したい、側に居たいの、一緒に生きて行きたいのよっ!」


 自分勝手な哀願、相手の心を無視した欲望。

 それでも、男は温かいと思ったのだ。

 だから立ち上がる、少女の手を取って一緒に立ち上がる。

 この先も、きっと辛い事がある、絶対に苦しむ時が来る。

 それでも、この手に伝わる温もりがあるのなら。

 生きていくのも悪くないと、そう思えたのだ。





 空が白み始めた頃、背にした森から火の手が上がった。

 二人は無断拝借した車を道の脇に止めると、降りて消え去る村を振り返った。

 そこに居た人々も、そこで終わった悪夢も、全てが灰になっていく。

 遠く、炎の熱が届かない丘で、少女と男は並び、どこか澄んだ瞳でそれを眺めていた。


「ねぇ、貴方の事、何て呼べばいいのかしら?」


 消防車や消火剤を積んだヘリが続々と駆け付けて来た頃、少女は男に尋ねた。

 その問いに、二つの名前を持つ男は笑って答える。


「柘榴でいいよ」


 男――赤銅柘榴は、七年前に得た方の名を告げた。

 彼はこれからも、赤銅の狩人として生きていく。

 日常を望んだ藤乃戒ではなく、日常を陰から守る赤銅柘榴として。

 その決意を瞳に感じ、少女――U・Dも笑みを浮かべる。


「そう。じゃあ改めてよろしくね、柘榴」


 小さな手が差し伸べられ、紅く大きな手と繋がれる。

 そこから伝わる熱が何だかこそばゆくて、柘榴はつい軽口を叩いてしまう。


「お前こそ、U・Dでいいのか。今ならまだ改名しても許すぞ」

「じゃあ、赤銅柚あかがねゆうで。藤乃柚ふじのゆうでもいいけれど」

「名前はともかく、名字をどうにかしろ」

「将来的にはそうなるから問題ないでしょ。そういえば、協会が用意しているアタシの戸籍って、どんな偽名になってるのかしら?」

「U・Dのままだぞ」

「……自分で言うのもなんだけど、そんな怪しい名前で登録出来るものなの?」

「片仮名にすればそうでもない」

「ユウ・ディさん――本当だ、日系アフリカ人って感じだわ」

「良かったな、ディ」

「前言撤回、改名を希望するわ」


 そんな馬鹿な事を言い合いながら、二人は車の扉を開ける。

 火の手が伸び、民間人の野次馬も増えてきた以上、世を忍ぶ身としてはあまり長居する訳にもいかなかった。

 少しだけ後ろ髪を引かれながらシートに座り、大きく沈み込んだ車を発進させる。

 超重量に悲鳴を上げる車を走らせながらも、二人の軽口は止まらない。


「アタシが運転しましょうか。軽いといっても怪我をしてるんだし」

「気持ちは嬉しいが、無免許運転は法律で禁止されている」

「免許の有無なんて、運転技術とは関係ないのよ。貸してみなさい、某豆腐屋ばりの運転テクを見せて上げるわ」

「お前、本当にアメリカ人なのか?」

「日本に住み着いて長いから。で、目的地は柘榴の実家でいいのかしら」

「何故そこになる。まぁ、報告を終えたら休暇を取って帰るつもりだったが」

「じゃあ、ブーケとウエディングドレスを買っていかないとね」

「色々と順番を飛ばしている上に、そこまで了承した覚えはない」

「結婚式は冗談にしても、貴方の家族に会ってみたいのは本当よ。仕事のパートナーとして挨拶をしておきたいし」


「それは構わないが、ただ、家の妹がな……」

「何か問題が?」

「俺が女性を連れて帰ると、烈火の如く怒るんだよ。ケイトを紹介した時も、口にするのも恐ろしい事に……」

「柘榴の青ざめた顔を初めて見たわね。もしかして、妹さんも鬼?」

「いや、普通の人間。ただ付き合いが長い分、こっちの弱点を熟知してるから……」

「今思い出したけど、この前その妹さんから電話が有ったわ。『柘榴の愛人です』って答えたら、受話器を握り潰す音と共に切られたけど」

「…………」

「あらあら柘榴、赤銅のお肌が見事な空色ブルーになってるわよ。やっぱり調子が悪いのね、運転を代わって上げるわ」


 どんな怪物と対峙した時よりも震え出した狩人と代わり、少女が低い身長で苦労しながらアクセルを踏み込む。

 柘榴は助手席で暫く怯えた後、不意に笑って窓の外を見た。

 こんな、他愛もない会話を出来る事が楽しかった。

 こんな、下らない幸せを得られる事が嬉しかった。

 柘榴はコートのポケットを探り、小さな塊を取り出す。

 掌で銀色に輝くのは、指輪という思い出の欠片。

 それを一度だけ強く握りしめ、また大切に仕舞い込む。


 ――無くしてしまったものは、決して戻らないけれども。


 そして、横で運転する少女を見つめた。


 ――生きて行こう。傷を抱えて、それでも笑って。


 柘榴は車の窓を開け、燃え盛る森を振り返り、U・Dには届かない小さな呟きを風に流した。


「ごめん、もう少しだけ遅くなるよ」


 そうして、強く前だけを見つめた。

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