第二幕:蠱の餌
2-1
街灯の明かりだけが照らす暗い路地で、ホームレスの老人が倒れ込んでいた。
垢と髭まみれの汚れた顔は腫れ上がり、赤い血でさらに汚れている。
ねぐらの公園へ戻る途中、不良少年達に囲まれて理由もなくリンチを受けた為だ。
だが、老人が謂われのない暴力を振るわれたのはこれが初めてではない。
弱者を虐げる事でしか愉悦を感じる事の出来ない屑など、世間には幾らでも居るのだから。
老人はその事を良く知っている。理不尽なリストラで職を失う前も、家も家族も失くして公園で暮らすようになった今も、誰もが老人を虐げる事しかしなかったのだから。
だからこそ、差し出されたその手を老人は取るのを躊躇ったのだ。
「大丈夫ですか、救急車を呼びましょうか?」
通りがかりのサラリーマンらしい、スーツを着た若い青年が心配そうに顔を覗き込んできたのだ。
老人は身振りで放っておけと伝えるが、青年は気にせず老人の体を抱きかかえた。
「怪我をしている人を見捨ててなんて行けませんよ。病院に行くのが嫌なら、せめて僕の家に寄って下さい、救急箱くらいはありますから」
青年はそう言い、老人の鼻が曲がるような体臭も気にせず、背中に負って歩き出した。
暴行を受けて逆らう体力も無かった老人は、されるがまま青年に連れて行かれる。
そして辿り着いた場所を見て目を見開く。それは青年の年収ではとても買う事など出来そうにない、高級住宅街の一軒家だったのだから。
「安心して下さい、一人暮らしなんで誰も文句は言いません」
青年は自慢するでもなくそう言い、鍵を開けて老人を家の中へ招き入れた。
居間の高級そうな革のソファーに寝かされた老人に、青年は救急箱の中から傷薬と包帯を取り出し、丁寧に治療を施していく。
その間、老人は部屋の中を眺め、青年が若手の実業家で、この家も自分の力で買った事を知り、さらに目を見開いていた。
「仕事ですか? IT関係をちょっと。そんなに大したものじゃありません、ただ運が良かっただけです」
誇る事なく謙遜し、体を労り泊まっていったらどうかとまで言ってくれる青年に、老人はいつしか涙を流していた。
今まで出会ってきた人間は、誰もが自分を食い物にしようとしてきた。
けれど、こんな御仏のように慈悲深い青年が実在したなんて。
老人が今まで味わった艱難辛苦は、全てこの青年に出会う為だったとさえ思えてしまった。
感涙する老人に、青年はあくまで優しく、湯を浴びて休むよう告げる。
老人は素直にその提案を受け入れ、数年来の垢を落とすため風呂場に向かった。
脱衣所で擦り切れたボロを脱ぎ、入った先も広くて立派な風呂場だった。
ホテルでしか見た事のないような大きな浴槽に、老人は気後れしながら歩み寄る。
そして気付く、浴槽にはお湯が張っていなかったのだ。
あれだけ気遣いの出来た、聖人君子のような青年にしては珍しい失敗だ。
青年にも人間らしい所があるなと、老人はむしろ嬉しくなり、湯を出そうと浴槽の脇にある蛇口のハンドルに手を伸ばした。
その時突然、老人は強い力で引っ張られ、浴槽の中に転げ込んだ。
勿論、振り返っても誰も居ない。風呂場に居るのは老人一人だけだ。
だが、何かの蠢く音が響いていた。いや、それは今も老人の下で鳴り続けている。
老人は湯も何も無い浴槽の中へ落ちた筈だ。下を見ても、人工大理石の白く美しい浴槽が見えるだけだ。
なのに、今、老人の尻と足には、ぐにゃりと柔らかい、まるで、生肉のような――
風呂場に響くはずだった老人の悲鳴は、その寸前に掻き消されてしまった。
何故なら、何か透明の見えない物体が、老人の口に入り込んできたのだから。
それと同時に、老人の手足が見えないペンチで挟まれたように削り取られていった。
体の中と外から襲ってきた凄まじい激痛に、意識が消えかかる寸前、老人は風呂場の扉が開く音を聞く。
そして、御仏のようだと思っていた青年の、悪魔そのものの笑みが目に映った。
「ごめんね、今日の食事はちょっと臭くて不味いけど、我慢しておくれ」
それが食い物にされ続け、本当に食い物として最期を迎えた老人の、最後の記憶となった。
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