08/14/23:40――覚悟の否定
「――馬鹿野郎が、よ!」
刀を抜こうとした忍を思い切り足の裏で蹴飛ばし、しかし左手で刀を奪うように。
「なッ――」
壊れた襖を押しのけて顔を出した忍を一度睨み、それからゆっくりと刀を半分ほど引き抜いた。
そこに刀としてあるべき刃は存在するものの刃紋はなく、刀身にはびっしりと幾何学的な紋様が刻み込まれ、錆なのか血なのか赤黒く染まっている。
――なるほどなァ。
これは、九尾の封印である根本だ。これを中心にして九つの尾が社として封じられているのなら、この刀こそ九尾の肉体そのものなのだろう。
だから、これを封じるために木気を捧げる。その結果として金気に触れる。
人としては、死ぬわけだ。
「
赤色が波打つ。まるで鼓動するかのように。
――どんでもねェ代物だな、こいつァよ。
人の命でどうにか封じてきたのも頷ける。いやむしろ、よく人の命程度で封じ続けられたなと驚嘆に値するほどだ。
「蓮華、さん……?」
「おゥ」
ちりんと、髪飾りが揺れた。そして鍔鳴りも。
「境内に戻るぜ。引き摺ってでも、這ってでも二ノ葉を連れてこいよ。そいつァお前ェの役目で俺がやるべきことじゃァねェ」
「――蓮華さん、あなたは」
「るせェよ。いいかよく聞けよ忍――お前ェがやろうとしてたことはな、その一時凌ぎはよ、数百年と続いたこの土地で行われていた一時凌ぎと、同じものだ」
いわゆる原初、草去がこうなった時分の頃――九尾を封じるために、五木の者は苦肉の策を取った。愛する妻と娘のために、自らを犠牲にすることで一時的に九尾を封じる方法を思いついたのだ。
自分が死ぬまでに、別の方法を考えてくれと託し――その九年後に、代替を欲し同じことを繰り返した。
数百年、その一時的なものは続いてきたのである。
何故それを? 答えは単純だ、五木の家にあった古い書物などを調べた上での予想でしかない。
「お前ェの馬鹿な行動は今の一発で帳消しだ。いいから来いよ、先行くぜ」
おそらく多くの疑問が訪れているだろう忍を無視し、刀を肩に提げるようにして蓮華は背を向けて歩き出す。
袂からオープンフェイスの懐中時計を取り出すと、二三四○時。我ながら良い手を打ったものだと頷いて境内に戻ると、同じく疑問を顔に浮かばせたままの瀬菜が待っていた。
「お待たせ、止めてきたよ」
「そう……けれど」
「釈然としねェッてか? 気にするなよ、俺ァ今のいままで一般人で何も知らねェただの人だったからなァ。ま、後の責任は俺が負うッてことよ」
「――蓮華!」
背後から、ついに呼び捨てになった忍が二ノ葉を背負いながらくる。その様子に瀬菜はほっと全身から力を抜いて安堵した。
おぼつかない足取りで近づき、熱い吐息を落としながらも瀬菜の傍に二ノ葉を寝かした忍は、それでも休もうとは思わずに振り向き、蓮華と正面から向かい合った。
「蓮華、刀を渡して下さい。九尾の封が解けてしまいます!」
「嫌だね、断るよ。全否定だ。お前ェが死ぬのを俺に黙って見てろッてかよ。無理難題を押し付けンじゃねェよ」
「九尾の封が解ければ、問題は草去に留まらず一般社会にまで大きな打撃を与えることになります。私は、そうした方を守らなければなりません」
――あァ。
忍を救えば、九尾の封が解ければ、一般人の多くが犠牲になる。一人を助ければ千人が犠牲になる。
――だがよ、やっぱり前提が違うよな。
空想の課題ならともかく、現実はそうはっきりと二分しない。
何故なら、その問題を一挙に解決する術を、今の蓮華は持っているのだから。
つまり――違う方法で、九尾を封じればいい。いや、封じずとも手はある。
「どうしても渡す気はないのですね」
二ノ葉を瀬菜の傍に降ろした忍は、ゆっくりと腰を落として徒手空拳の構えを見せた。
武術家は、多くの得物の中からただ一つを好む。剣道家が竹刀なしでは戦えないのとは違い、武術家は存在そのものが武術家だ。得物がない状態での戦いなど当然だと捉えた上で、一つの得物を持つのだから。
「はッ――くどいよ。あんまり聞き分けがねェと、眠らすぜ?」
「渡して頂きます」
愚直にも、真正面から――痛む躰であっても、言い訳をせず、武術家として踏み込んできた。
武術家として、だ。
きっとその大前提こそ、彼らを苦しめ、彼らを生かした、この状況を作った原因でもある。一長一短、良し悪し。まったくこいつらは――。
踏み込みからの拳を、躰を僅かに沈めるだけで回避しつつ、通過する瞬間に腕の側面を下から叩き上げ忍の体勢を崩し、一歩を踏み込んでそのまま忍を瀬菜の傍に転がした。
「寝てろよ」
吐息が一つ。
「人を初めて殺して、刀も抜けねェお前が、何をしようッてンだよ、クソ間抜け」
想像はしていただろう。覚悟とやらもしたに違いない。けれど蓮華は、人を己の手で殺す行為に付随するその、どうしようもない不快さを知っている。
「蓮華……!」
「黙ってろ。譲歩してやっただろうがよ、こちとら昨日から頭にきてンだ」
やはり、その怒りを表情に出さず、やや距離を置いた蓮華は呪刀を杖代わりにして、ため息を一つ。
「瀬菜、忍、お前らどこまで知ってる? ここが一個世界を作っていて、更には〝蓋〟によって閉じられた場所――そして、森を否定した五つ目の森。このくれェは知ってンだろうけどよ」
「……知っているわ。知っていた」
「お前らしか、人間がいねェのも?」
「知っています……二ノ葉や
「じゃァ――記憶に齟齬がある点についてはどうよ」
「――え?」
「瀬菜、お前は自宅に住んでいる。部屋に何があるのか、覚えているか?」
「え、ええ、もちろんよ」
「だったら――〝想い出〟は、どうだよ?」
「昔のことだって、それなりに覚えているわ」
「その中で、五木神社以外での出来事は?」
「それ、は――……」
ここに、一ノ瀬と五木しか〝人間〟はいない。
五木と稲森しか神社がない。
「ともすれば、毎日のように神社で生活していたような錯覚、あるいは想い出があるはずだよ。何故ならば、人の住む場所以外での認識は、誤魔化されているからだ。廃墟どころか――ここは」
そう、この一個世界に騙されず、ただ一人としてここを見れば。
「
それこそ、ただの五つ目の森である。
「そこまで理解してたのは忍だけか」
「蓮華は、どうして……」
「あァ? ンなもん、こっちに来て情報を得りゃ、すぐにでもわかることじゃねェかよ。お前らみてェにこの場に馴染んでねェから、余計にな。ンでどうするのか見てりゃァ、クソッタレな覚悟を抱いて、馬鹿な真似をしやがる。それでもここまではやらせてやったンだ、文句は受付ねェよ。こっからは俺が勝手にやる。お前も、――瀬菜も、こんなふざけた仕組みに命を賭す必要はねェと、俺が決めた」
そう、蓮華は、決めたのだ。
「だから終わったら、咲けよ瀬菜。そのつぼみを、咲かせろよ――人は、そうやって生きていきゃいい」
今ここに死があったとしても、それは、もっと先にあったっておかしくはない。
蓮華は本当に、心底から、そう思う。
「さァて――」
言って、呪刀を引き抜いた蓮華はそれを石畳に突き立てた。
「ンじゃまァ、やるか」
くるりと回転した蓮華が繰り出した足刀が、其の刀を真っ二つに切断した直後に。
――封が、解けた。
ここ、稲森神社を中心にして。
次いでその待機を揺らしたのは咆哮だ。獣特有の、しかし声高に音としての二度目の産声を上げた獣は今、彼らの眼前に聳え立つ。
巨大な――狐だ。しかし尾は一つしかない。
その体毛は金色でありながらも先端は光を反射して白色に映る。なるほど山を二分割するだけの力はあるだろう――ゆうに、三十メートルも全長があるのだから。
「蓮華、どうしてそこまで――こうまでして、いえ、こうなってしまったら」
「おゥ、こうなっちまったら、後戻りはできねェよな。……あァ、立つな忍、いいから休んでろよ。瀬菜はそこの医療キットで、最低限の治療しといてくれ」
「蓮華はどうするの――」
「どうするッて」
ぼんやりと、空を見上げるようにして、その巨大な狐を見上げてから、振り向く。
「あれ、どうにかしねェとな」
「どうにかって……」
「とりあえず、可能性を考えた限り、ざっと二百秒は最低でもお前らを守りつつッて感じなんだよなァ。結界でも張れりゃ楽なんだが、準備する時間もなかったンだよ」
折れた刀を拾い上げ、先に鞘の中に入れ、その上から半分を納めて、ぱちりと鍔鳴り。
「何故です、蓮華」
「ン? 困ってる友人を助けてやるのに、理由なんか必要ねェよ。ただ俺としては、お前らはとっとと、助けてくれと、誰かに請うことをすべきだったと思ってるぜ。ガキが一丁前にいきがりやがって、困ったら大人に相談しろッて教わらなかったのが駄目だなァ」
ははは、なんて笑う頃、獣の咆哮は消えており。
見上げれば、ぎょろりと金色の瞳が青色を睨む。
〝――主が封を解いたか〟
上空から蓮華たちに向けて、空気を震わす声が放たれた。まるで台風の中、強風を真正面から受け止めたかのような振動に対し、蓮華は頭の髪飾りを揺らし音を立てながらも、微動だにせず――背後にいる四人を護るような位置取りで、空を見上げた。
否、空ではなく一匹の妖魔を見たのだ。
〝まだ若造ではないか。しかし感謝はしても良い、
声色は女性のもの、そして尾は一つ。
「おい感謝だってよ、どうする」
「緊張感がないわねえ……尾が一つしかないのね」
「あははは」
笑い、いつものように蓮華は声を上げる。
「――てめェに用はねェ」
静かな声だった。怒鳴るのでもなく、それこそ吼えるのでもなく、誰も居ない広場で独り言をぽつりと漏らすような静かな声は――狐の声を打ち消すほど強く、押し返すほどの堅さを持って放たれた。
「我が物顔で言い放ってンじゃねェのよ、
〝なんと――主、妾を知っているか。こうして現世へ出るは千年も久しいというに〟
「だからどうした、クソ狐。偉そうにしてンじゃねェ、たかが
〝く――クック、人間風情がよく吠える〟
完全にこちらを侮っている九尾の視界に忍が入り込む。そこに五木の血筋を見出したのか、更に細められた金色の瞳は、警戒と怒りを視線に込め――口を。
大きく開いて、こちらに向けた。
「――蓮華!」
「なんだよ」
咆哮と共に、金色の閃光が放たれる――九尾が持つ金気が凝縮された眩いそれは、まるで火炎のような外観でありながらも、触れた風すらも〝刻む〟だけの力が込められていた。
だが蓮華は、忍の方を振り向き、首を傾げ、直撃するよりも前に、折れた刀を抜いて背後へと振った。
居合いでもなければ、刀として扱わない。まるで、羽虫が邪魔だから振り払ったような気軽さで、閃光を真上へと弾き飛ばした。
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