蒼狐市

08/12/06:40――青色の認識

 色に好悪など持たない。

 真っ白な画布カンバスを前にして頭を抱える絵描きは完成を求めるから、その白色に始まりを意識してしまう。嫌いだと思うのならばそれは白が嫌いなのではなく、始まりが嫌いなのだろうし、好きだと思うのならば始めることに喜びなど陽の感情を抱く。

 視界が完全に閉ざされた漆黒を振り払いたいのは孤独を否応なく感じられるからだ。人が心底嫌悪するのは漆黒ではなく、やはり完全に閉ざされて他者を感じられず、故に己の存在を確定できない本来の意味での孤独が嫌いなのだ。

 赤色が好きだ。

 それは違う。きっと鮮やかな色合いから他者を懐に有しながらも一歩を踏み出す強さがそこに見出せるからだ。

 赤色が嫌いだ。

 それも違う。鮮やか過ぎる色合いから己の中に流れる鼓動と同じものを見出すため、それが流されることに不安を感じるからこそだ。

 緑色が好きだ。

 色が好きなのではない。視線が届く限り、その見えない位置までをも埋め尽くす草原を走り抜ける風の心地よさを、きっと揺れる草木も同様に感じていると嬉しさに口元を緩ませる感覚を、そこに見出しているだけで。

 緑色が嫌いだ。

 不朽ではない草木は時期によってその姿を変えるように、純然たる緑を保てないことから安定性を見出せず、いつか必ず緑ではなくなってしまう情景を否定したいのだ。

 青色が好きだ。

 どこまでも広く続く海原を見た時、見上げた空に一点の曇りない様子を意識した時、それはきっと遠くと広さを兼ね備えた手の届かないものへの憧れと共に、胸の内に抱いた感傷を大事にしたいのだろう。

 どれもこれも、一つの理由に過ぎない。好でも嫌いでもそれなりの理由があり、その理由の中にこそ本質が隠れている。色自体にはやはり好悪がなく、色に対する感情や意識が見た者の考えと同調し、その時時に陰気を感じれば嫌いとなり、陽気を感じれば好きとなる――ただそれだけのことで。

 やはり、色に好悪など持たない。

 だから彼女は青色が嫌いなのではない。青色によってもたらされる感情や意識が嫌いなのだ。

 いつそれを意識したのかは覚えていない。気付いたら青色が嫌いになっていた――けれど、でも、だとすれば幼少の頃はどうだったのだろうか。

 思い出された古い記憶は、神社の境内で大人と将棋を指していた情景。

 見上げた空は澄んだ薄い青色で、遠くまで続く様子から、ああ。


 ああ、そうだ。


 その時には既に、昨日と何も変わらないただの空だと、思っていた。賢しいとは言えない子供だったのだろう、けれどそれを口にしても意味がないことくらいはわかっていた。


 ――あの空と同じものがこの盤面の上にはある。

 ならばこの抱く嫌悪も、この盤上にあるのだろうか。


 手を伸ばしても決して届かない空。

 此岸から見るだけで泳ぎ至ることもできない彼岸までを隔絶する青の水。

 彩ることに錯誤しながらも似たものしか作られない偽りの青薔薇。


 いくら井戸の底からそれを見続けようとも、憧れを抱こうとも、そもそも底から這い出たところで、その色は遠すぎて。

 己の手の中には決して入らず、隣に居ることもない。

 ――視野を狭く持ってはいけない。一手を指したいのならば、指したい一手のための布石を指さなくては。

 そんなことを言われた気がする。

どういう意味だろうか。

 一手のための布石を、布石のための布石を、そうして考えると頭がぐるぐると混乱する。大局を見れば見るほどに、盤面どころか駒一つ一つに視線が寄ってしまう――どうして、こんなことになるのだろうか。


 盤上そらは広く。

 おのれは小さい。


 ぱちり、と音がする。盤上の駒は前へ進むしかなく、彼女はまた腕を組んで盤面を睨んだ。

何かを成すには諦めることも必要になってくる。玉を得るつもりの一手が、いつしか竜を守るための一手に変わっている時――その先に玉があるのならばそれでも良い。けれどただ竜を守るだけの一手だったのならば、それは玉を諦めているのではないか。

 違うと返答しただろうか。それとも思っただけか。

 竜を守らなければ玉への道が閉ざされるどころか、己の玉が詰んでしまう。だからこその一手だ。


 ――だとしても、竜を諦めなければ玉へ至ることができないかもしれない。

 何かを諦めれば何かを掴めるのだろうか。


 ――両腕一杯に荷物を持っていても、やがて零れ落ちる。

 最初から一杯ならば、選択を提示される。持てないのならば捨てるか、あるいは拾わない選択を得なければならない。


 だったら己はどうすればいいのだろう。


 空は嫌いではなく、青空は嫌いだ。

 この地では同じ空しか見えず、変化があったところで人為的な何かを感じてしまって、素直にそれを受け止められなくなった。だから。

 ――手が届かないものへの憧憬と一緒に、蓋を閉じる。

 そして生まれたのは諦観だ。嫌悪を浮かべることすら煩わしいと思ったからこそ閉じられた蓋は、表に諦めだけを放り投げる。だからどうしたのだと、意識の中から除外するように呟いた。

 届かないのならば、手を伸ばさなければいい。

 好悪はなく。

 ただ、諦めがそこに在る。

 きっとそれが彼女にとっての青色で。

 己の身に絡まった因果が、不可能の象徴としてその色を示したのだ。


 ――ああ、今日は晴れるかしら。


 箒を動かす手を一度止め、仰ぐ空はもう、好きとも嫌いとも感じなかった。

 早朝の境内掃除はもう一ヶ月近くも行われているため日課のようで、日日の行いを停止しなければ作業に然したる時間も要せず、また暦の上でも八月ということもあってか落ち葉が舞う季節はまだ遠く、人が起した埃を払う――穢れを祓う――意味を以って行われる。

 一ノ瀬いちのせ瀬菜せなは湿度を含んだ朝の空気を竹箒で散らすように掃除を行いながら、思い出した昔の記憶を振り払うように吐息を落とす。

 どうして、今さらそんなことを――。

 吐息に含まれるのは諦めと落胆。とうの昔に捨てたはずの感情を捨てきれていなかったのだと気付いたような、己に対する不甲斐なさを確認させられたような状況だ。

 まったくと、思いながらも湿度はやや高いと感じる。だがいつだとて朝の潅水は仕事だ、やらない日などない。そもそもこの土地に自然な雨など、ないのだから。

 境内の裏手に回り井戸水を汲むと、それを杓子で撒く。地味で時間がかかる行為に思えるがしかし、境内の通路を中心に行うため灌水区域は意外と少ないため、短時間で済む。もっとも時間があるなら全面、あるいは鳥居の先にある急勾配でかつ長い階段にまで水を撒くこともあるのだが、今日はそんな気分ではなかった。

 否だ。気分はいつだとて憂鬱で、陰鬱だ。八月の十五日が近づくにつれてそれは強くなる。

 盂蘭盆うらぼんの時期ということもあるが、この近辺で行われる祭りは八月の十八日に執り行われるが、神社の役割には不自然に不純化した周囲を浄化する役目も担っている。対してこの近辺における神主が少ないため、瀬菜のよう他社へ赴くこともある――が、彼女にとっては毎年どころか、毎月のことだ。ともすれば、寝泊まりだけ自宅に戻るような生活も日常的だった。

 昔馴染みなのだ、この五木神社の兄妹とは。

 この土地において神社は二つ。山頂にある稲森いなもりとここ、五木いつき神社だけ。稲森が上役となり指示を出し、五木が執行を行う仕組みは大昔からの慣わしであり、また実行力を持つ五木が一刀流を代代継承しているのも一つの理由なのだろう。一ノ瀬も流派は違えど武術家の一つとして数えられるため、この土地に住んでいる家名として神職の手伝いなど、このような時期にはほぼ強制されるように行っている。

 この時期は、不安定だ。

 此岸しがん彼岸ひがんの境界線が曖昧になるから。

 五木一刀流――あるいは、一透流いっとうりゅう。それは人に向けるものでは決してない。

 日本中にはいくつかの古い武術家が存在する。人目を憚ることもなく、あるいは人目を憚り、鍛錬を積み修練をして妖怪あやかし魑魅魍魎を退治し続けてきて――今もまだ、それは続けられていた。

 一ノ瀬も、そうだ。

 小太刀二刀という特殊な武術を扱う都鳥みやこどり家を本家とし、一ノ瀬はその分家に当たる。扱う得物は小太刀一刀。棍の都筑と同じく女性継承を伝統とする家系だ。瀬菜は長女にして継承者――なのだけれど。

 実質、そんな妖魔と総称されるあやかしを討伐するのは、この土地では珍しく、持てあましている。それが必要だと教えられたから、ただ引き継いでいるだけのような気がして、瀬菜自身に限れば一通りの修練こそ終えているものの、武術家としての名乗りを上げるのはどうかと思っていた。

 それで何かが変わるのかもしれない、そう考えていた頃もある。


 けれど、いやそれでも。

 境界線はまだ瀬菜の眼前にある。


 今日、既に数えるのも億劫になったほどの吐息を落とそうとして、しかし喉の調子を整えるような「ん」という声が落ちる。渇きを訴えているわけではなく、どうしてか呼吸とは違う位置で空気を飲み込んでしまったような違和感が喉の奥から腹部へと下がった、曖昧なものを、そうとわからずして触ろうとしたのに、けれど触れなかったような。

 ひどく奇妙な感覚があったのだ。


 ――ん、なにかしら。


 周囲を見渡せばいつもの光景がそこにある。ここ一ヶ月近く――幼少の頃を含めればもっと、この境内で過した。五木のおじさんと将棋を指したし、おばさんとは料理を作った。台所ではなく境内で、という辺りが謎だがぼんやりと覚えている。

 朱色の鳥居、そこから続く階段。右手には道場、左手に社務所。中央を歩けば本殿へと至り、裏手に回ろうとすれば小さな池があり鯉が泳いでいる。何も変化はないようだけれど――どうしてか。

 桶と杓子を裏手に置き、本殿には行かずに瀬菜は再び境内に戻ってきていた。


 ――十六年もここに居るのね。


 ここに生まれ、ここで過した年月。いつしか飛び出そうとした空はくすんだ霧に包まれていて、飛ぼうとした自分の躰には鎖が多く巻き付いている。歳月と共に身に付いたしがらみは、飛び立つことができないことを如実に教えてくれていて。


 迷いを生んだのだ。

 成るべくして成ったならば。

飛び立たないことを望んだのも己ではないのか――と。


「……、……あ。――ッ」


 視線を戻した直後に、躰が震えて硬直した。

 朱色の隣、鳥居の傍、階段の一番上に青色がいる。違和感なく、それをそれと認めるまでは決して見えないような透明感を持って、確実にその青色は存在していた。

 青――だ。

 蒼だ。

 霧のような青、海のような蒼。

「ん……?」

 動揺の気配が伝わったのかと、武術家である瀬菜はすぐに意識を正すものの、どうやら違ったようで。

 まだ寝起きで頭が働いていないのか、まるで己の声を聞くように青は呟く。

 よく見れば青色は中国服のようで、黒と蒼が入り交ざった髪の色はしかし、前髪の一房が青よりも白色に近く染められている。

 それは、人だった。――少年だ。

 どうして気付かなかったのだろうと、立ち竦む。今しがたきて腰を下ろしてのではないことは明確で、気配の残滓すら追えないほどに強くそこに在る。一瞬にして引き込まれた青色は瀬菜の意識を全て奪って――けれど、でも。

 瀬菜は。

 己の中に危機感を発生させずに、認識していた。

「あー……そういや、ああ」

 何かを納得するような独白に瀬菜の意識が戻る。それを冷静になったと表現するのだろうけれど、瀬菜自身は冷静ではなかった瞬間を認めはしない。

 この土地にはよく外から来る迷い人が現れる。保護して道を示せば自然と戻るため手間はないのだが、瀬菜はまだ冷静になったつもりでいるだけで、一声かけることも身動きすることもできていない。

 はあ、と吐息する青色は全身を弛緩させており、疲れが見てとれる。急勾配の階段を見下ろしているのか、それとも景色を見ているのか、ここから顔を窺うことはできないけれど、寝起きのような意識が朦朧としている状態だろうと推測した。


 青色は。

 ――嫌いだった。


 霧のような青。

 海のような蒼。

 花のような藍。


 いつだとて手が届かないものの象徴として君臨していたそれを嫌悪したのは、そこに届かないからで。


 だったら何故。

 この青色に。

 ――私は。


「はあ……お――?」


 両手を膝にあて、ゆっくりと立ち上がった青色がふらりと倒れそうになり、その先は何もないと理解した瞬間、硬直から解き放たれた瀬菜は踏み込みによって一気に間合いを詰めた。

 十歩はある距離を二歩で詰め、落ちようとする躰を階段から鳥居を潜った境内の中へと引き寄せる――が、勢い余って引き倒してしまいそうになり、慌てて力を緩めて青色――少年の、やや小柄な体躯を両手で受け止めた。

「危ない……」

 声を出す前に行動に移れたのは、今でも鍛錬を欠かしていないからだろう。けれど謝罪の言葉は相手の口から洩れない。

 何故なら、顔を見るまでもなく、だらりと弛緩した躰から少年が意識を失っているのだとわかったからだ。

 今日初めて、違う意味での吐息が落ちた。

 服をよくよく見ればあちこちに泥が跳ねていて、特に足元には多く汚れが目立っておりほつれている部分もある。こちら側に迷い込んだのは、今ここに居る以上は夜なのだろう――あるいは夜になってしまい、一夜を明かしたのか。

 こうして無事でいられるのは一つの奇跡だろう。武術家が力を発揮しない、つまり妖魔の討伐を大大的に行わないこの土地では、夜は妖魔の時間なのだから。

 まだ幼さを残すような顔をようやく見ると、極端な疲労があった。おそらく鳥居を背に腰掛けていた時も、眠っていたというより意識を失っていたのかもしれない。少年なりに張り詰めていたのだろう。

 抱えている瀬菜には少年の軽さがわかる。ひどい細身で、小柄で――躰を鍛えている様子がないのは最初に察した。筋肉は重いものであるし、人に触れることを警戒するのは武術家でなくても当然のことだ。

 特に瀬菜は。

 他者に触れることがほとんどないから。

 ――違うか。しないのよね、私は。

「青……か」

 どうしたものか。

 嫌悪も好意の一つとは言うけれど、この場合は該当しないような気がする。そもそも霧の青は鬱陶しく感じ、海はそも到達できない象徴でしかないため目を逸らし、花の青はその珍しさから意識しないようにしていた。

 けれど、この青はどれとも違う。

 ――人、という青色よね。

 小さく苦笑が落ちた。まるで珍しい玩具を見つけて興味津津の子供が傾倒しているような感覚だ。

「――姉さん?」

「あら二ノ葉にのは

 同様の巫女装束。髪を結っていない違いはあるものの顔立ちが似た妹の姿に、少しだけ表情を崩して困り顔を作った瀬菜は、楽な体勢に移動しつつ青色へ視線を落として示す。

「迷い子かな。……この時期にってところに不安があるけど」

「それを判断するのは私たちではないわ」

「うん。あ、しのぶさん」

 神主の装束を着こなす、五木神社の現当主。笑みにも見える糸目を顔に貼り付けた、おかっぱの少年が近づいてくる。おそらくは敷地内に踏み込んだ異分子の存在に逸早く気付いたのだろう。

 神社の内部は五木の領域だ。夜間であっても妖魔が入ることがないように、誰かが立ち入れば当主はそれを察する。それは己の躰に触れられることと同意だからだ。

「訪問者ではなく、迷い子でしたか」

「そのようだけれど、話をしたわけではないわ」

「なるほど。引っ張り込んだのは瀬菜さんですね?」

「階段を転げ落ちるのを見過ごせないでしょう」

 責めるような口調ではなく、ただの確認のための問いだ。忍は僅かに考えるよう、腕を組んで僅かに青色から視線を反らしてから、すぐに。

「――母屋へ運びましょう。治療も必要でしょうし、事情は目が覚めてからでも」

 問題はないと判断したのは、初見であっても瀬菜が躰に触れているのを見たからだ。忍もまた武術家ならば、瀬菜が両手で抱えている現状に思うところでもあったのだろう。

「ただし時期が時期ですので、どちらに対しても警戒は怠らないようにしなくては。二ノ葉、食事の後で構いません、客間の準備をお願いします。当面は――そうですね」

「いいわ、私の客間に運んでおく。大丈夫よ、軽いものだから」

「ではお願いします。手軽なもので構いません、軽く口にできるようなものを二ノ葉は用意しておいてください」

「疲労しているみたいだし、うん。飲み物と……湯浴みも準備しておく」

 自然な動作で身を翻して母屋へ行く二ノ葉の後姿が消えて見えなくなるまで視線で追い、瀬菜はようやく顔を上げて忍を見た。

 視線が合うと、苦笑される。

「即決なのね」

「厭味ですか? いえ、私としましては逆の意味で――この時期だからこそ、彼にとって危険だと……そう思ったものですから」

「ああ、そういうこと……私たちにとっての危険では、ないものね」

「可能性としては考慮しますが、しかし気絶をしている事態が既に一つの証明かもしれません」

 見知らぬ他人に無防備な姿を晒すなど、あってはならないことだから。

「何かしら強い意志をお持ちの方とお見受けしましたので、少し経路を辿ってみます。こんな時期ですから、念を押しても良いでしょう」

「お願いしておくわ。――この子は、母屋に運び込むわね」

「はい」

 軽く背負うようにして母屋への道を急ぐ。起きる前に傷の手当をしておこう、手持ちの軟膏はどのくらい残っていただろうか――ああそういえば布団は畳んでしまったから、押入れから出さないといけない。とりあえず水だけは用意しておこう。

 これからやることを意識していると、すぐに忍の向ける視線も忘れてしまった。


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