ハガクシの森のきつね
雨天紅雨
遥か昔の小さな話
狐にまつわる昔話
郷愁の念に駆られることはないにせよ、懐古が己の内に浮かぶ時は、いつだとて故郷の山に戻って来た時であり、そこに安堵が生まれたのならばそれは、かつてはそれが嫌で飛び出したのにも関わらず、今ではその変化のなさに微笑みが浮かぶのだから不思議なものだ。
この山で生まれ、この山で過ごした歳月がいかほどかを考えたところで、なかなか思い出せるものではなく、しかし間違いなく数十年から百年に近く、彼女に言わせれば久しぶりに帰ってきたと、そんなものである。
幼少期から走り回っていた彼女はこの山を知り尽くしている。たかだか百年、それにおける変化などほぼないことなど自明の理。守るのでも荒らすのでもないこの場は、ただただ、停滞を続けているようだ。
――しくしく。
――しくしく。
木木の間を抜ける風に乗って聞こえる鳴き声、いや、泣き声もまた、懐かしかった。
「――また泣いておるか、姉上」
声をかければ、びくりと驚いたように顔を上げ、こちらを認識したかと思えば、ぎこちなく笑みを表現しつつ、涙を拭う。
「あ、おかえりなさい、■■」
「ただいま」
姉妹の仲は昔からずっと、悪くはない。しかし気弱な姉を持った身としては、いささか苦労をした覚えはある。少しでも自立し強くなって欲しいと願いながら、それを理由に自分の欲求を満たすため、あちこち出歩いているのもまた、彼女の現実である。
「なんだか
「あれ、諦められてます……?」
「じゃから帰って早早に相談なぞ、迷惑かと思わずとも良いと、そうさりげなくじゃな?」
「さりげなくないですっ」
「泣いておったのは姉上じゃろうが……」
「そうですけれど」
「ほう――尾が一本、ないのう」
実は、最初から気づいていた。何しろ狐である彼女たちにとって、いや、姉にとっては尾の数そのものが、力の象徴だ。本来ならば九つあって然るべきそれが減っていたのならば、存在ごと薄くなる――が。
薄くは、なっていない。
ただ雑味が混ざったように感じていた。
「喰われたか」
悪いことを指摘されたかのよう、姉はびくりと震える。隣に腰を下ろした彼女は、そのまま姉の頭を撫でる。
「まったく、しょうがない姉じゃのう……」
「むう」
威厳がどうの、と姉は小さく呟いていたが、今更の話だ。
――が。
いくら油断をしていたとはいえ、この姉の尾を喰うことができる
「ふうむ……どのくらい油断していたか、という問題になりそうじゃのう。この姉はそういうところ、だいぶ突き抜けておるからな、うむ」
「ねえ■■、違う意味でまた泣きそうですから、そのあたりで、ね?」
「仕方のない姉じゃ。しかしな姉上、次のことも考えねばならんぞ」
「また、来ますでしょうか……」
「姉上は昔から、性格に似合わず力だけは強いからのう」
「……こんなもの、欲しくはありませんでした」
「持ってしまったが故の責務を全うすべきじゃの。昔からそう言っておろう」
「そうですけど、逆だったら良かったのに」
「妾がか? それはそれで――……いや」
ふいに閃いたその発想を、どうかと自問する。
「姉上――どうして、一本喰われた?」
「え?」
「ああいや、そうではない。一本だけしか喰われなかったのは、どうしてじゃと思うての」
「どうしてって……わからないですけれど」
「一本しか喰えなかった――で、あろうな。妾が言うのも何だが、姉上の力は強すぎる」
「困りました」
「今、妾が思いついたのはな、仮に姉上の尾を二本、妾が喰えばどうじゃろうと」
「痛いから嫌です」
「即答じゃのう……良いから少し聞け。これからすぐにとは言わずとも、姉上の力を狙った存在が来ることはあろう。そして姉上は、まあなんだ、遠回しに言うがどんくさいからのう」
「■■、ちょっと、もうちょっと遠回しにしてください」
「じゃからな? そこで尾を二本、妾が喰っておけば、一本喰ったどこぞの馬鹿に遅れは取らんと、そう思ったわけじゃの。妾としては力を得られる利点もあるが――いささか、賭けではある」
「賭けですか?」
「姉上と一緒に過ごすことにはなるじゃろうが……元より妾は、ほかの
彼女はそうして、姉に選択を任せた。
三日後、姉は、怯えを嫌がって、怖がって、尾を二本、彼女に差し出すことになる。
尾の残りは六本。
――隣に彼女は、もういない。
しくしく。
しくしくと、泣き声が風に流れて消える。
――――。
――。
濁流の中に飲み込まれ、右も左も上も下も、何もかもが希薄になったのならば、己と呼ばれる存在すら掴み取れずに空回りする。かつて自分であったはずの何かをかき集めようにも、両手両足もなければ意志そのものも細分化され、姉という存在そのものに飲み込まれてしまった。
一つ、勘違いがあったのだ。
彼女としては存在を喰うのが初めてであったこともあり、想像力不足と、そんな結論に諦めたくもなるが――仮にそうだったとしても、この結果を予想するのは非常に困難である。前例も、見たこともない存在が一つだけあっただけ。検証不足とも言えよう。
尾を喰われたのは、見た目の結果だけ。
現実は、姉が尾を使って〝喰った〟のだ。
そして、残ったのは意志ではなく、彼女であった石だけ。それを世では、
生きていたよりも長い時間、彼女は石のままであった。であるが故に、姉が次第に尾を喰われ、最後の一本になった時、その辛さに耐えきれず、己の内側に潜り込み、全ての意識を遮断したことも知らないまま。
やがて。
尾を喰った者たちが、姉の躰を使って動き出す。
一尾、
二尾、
三尾、
四尾、
五尾、
六尾、
七と八を彼女が持ち、最後の九を姉が持つ。
これこそ、九尾の狐である。
時間の流れ、そして六尾までの存在が躰を使って動いた結果、やがて彼女は自我を取り戻し、躰を己のものとし、主導権を握るよう行動する。だが、それでも深層、そのさらに奥にまで閉じこもった姉の存在は、希薄ながらに感じられたけれど、呼びかけても応える声はなかった。
九尾の狐。
世界を二分する存在の片割れにまでなった彼女は、きっと楽しんだことだろう。だがやがて
ある武術家の家名を前に、その選択を与えた。
――妾の力を使ってみるか。
できるなどとは最初から思っていなかったが、それでも、人は努力する生き物だ。何より、その武術家を前に、共に在っても良いと思ったのは、彼女自身ではなく、殻に閉じこもった姉の意志だったように感じた。
だから、九つに分けて封じる形を相手が選択したことも、封印そのものに嫌悪が浮かぶよりも前に、良い機会だと彼女は思った。
それで姉が、少しでも状況を知ることができるのならば――多少でも、その殻が薄くなればと。
だから、ここまでが昔話。
姉と妹、そんな二人の狐の話。
そして――。
ここからは、巨大な力を持つ、狐に挑む人間の物語。
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