3. ハインリヒ
ヴィルヘルミナはフンツ・ウント・クンツ錠前店の従業員など数人を全て他の安全な場所へと移させていたはずだった。ではこの少年は一体何者であろう。また、彼の目的は何であろう。
太矢を放ったあと、慎重に剣豪に近寄り、もはや息をしていないと目視で見定める。安堵の息を吐き、小型のクロスボウを投げ捨て、少年はヴィルヘルミナから鉄箱と彼女の鍵、そしてヨハンの鍵を奪い取ると、素早く駆け出した。夕日はまだその顔を隠していない。外出禁止令の時間までには本拠に間に合うだろう。
フンツ・ウント・クンツの店先から東へ――見ると薄白い月がぼんやりと浮かんでいる――向かい、安酒だが人気のある酒場、雄鶏亭を行き過ぎ、左手に見える二つの家屋を抜ける。夕日に染まって白から橙に変わった家屋と、いかなる色をも無視して己を通す黒い壁の家屋。
右へ曲がる。しばらく直進。初めて計略の一端を担ったが、自分でも上手くやれたと少年は思う。
三つ目の角を左へ。素朴な、悪く言えば雑な作りの陶器が道に並べられている。貧しい陶工の家だ。やつれた陶工は少年の足跡に赤黒い点の塊を見つけて眉をつり上げた。しかしすぐに仕事に戻る。彼は子沢山だ。食わすために、仕事に打ち込まねばならない。儲からないが彼にできるのはそれだけだった。それに最近は物騒である。少年を咎めて藪蛇となれば、常に飢えている子どもらはどうなるのだろう。仕事、仕事。余計なことを考えれば、それだけ貧しくなる。陶工は疲れてはいたが、ろくろを蹴って報いのない生業の毎日へと戻った。
外出禁止令の指定する時間より一時間前。迷路のような旧市街を駆け抜け、例の少年がある家のドアを叩いた。三階建てのボロ屋。漆喰が剥げかけ、レンガのむき出しになった箇所が幾つもある。
「入れ」
二階の窓からよろよろと顔を突き出した男が辛うじて出せる声で叫び、またよろよろと部屋の中へと戻っていった。少年はドアを開け、誰も自分を見張っていないこと――ここに来るまでに貧しい住民が何人か怪訝そうな目で一瞥してきただけだった――を確かめると、中へ入り、素早く音を立てずにドアを閉める。一階には粗末な家具だけが並んでいる。興奮しているらしく、細いテーブルを乱暴に跳ね除けて階段へと走り、しかし静かに二階へと上がっていく。二階の一室のドアを開けて、あまり大声にならぬよう叫ぶ。
「ハインリヒ様、やりましたよ! 鍵を二本とも、そして鉄箱も手に入れました!」
「よしよし、でかした! これで我が事成れり」
ベットに横たわるハインリヒはにたりと笑った。これまでのことは全て彼の手の内、想定内であった。フンツ・ウント・クンツの大旦那を始めとした様々な連中に手を回して同門の敵の動向を探り、最終的に極意の箱が己のものとなるよう企んだのだ。少年はハインリヒに二本の鍵を差し込んだ状態で箱を手渡す。少年も喜んでいた。これでかの名高きフリードリヒ由来の計略を学ぶことができる、と。
「奴らを葬るのは心苦しかったが、真に強い剣法を受け継ぐのは一人で十分であろう。これでよし、これでよし」
引き出しから黒黒とした鍵を取り出す。そして少年から受け取った箱に差し込む。この瞬間をハインリヒは待ちわびていた。三つの鍵をいそいそと回し、期待に満ちた目で箱の中を覗き込んだ。
ああ、だが天は彼を見逃しはしなかったのである。
「げえっ」
箱の中身を見た途端、大きく目を見開いてハインリヒが吐血した。意識が遠のく。もはや彼はただ唸るだけ。それを見た少年の驚愕は凄まじいものだった。しかし、努めて心内だけに抑えると、ハインリヒを打ちのめさせた箱の中身を見る。そこにはこう書かれていた。
「和を以て貴しと為す。此れ、我が剣の奥義なり」
二日と経たぬうちに、ハインリヒは世を去った。遺言も遺産も何も残さずに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます