第9話 安の滝
源平合戦の落人らしき足跡が数多く残っているマタギ部落。秋田県北秋田市阿仁
その時代、鉄砲は武士階級を除いては、幕府や藩の厳しい管理の下におかれた禁制品ではあったが、マタギたちは熊の
阿仁地区にまたがるブナの原生林・森吉山一帯は、佐竹公の命を受けて金山が開発されたところでもある。比立内は仙北平野と鉱山を結ぶ物資の輸送の中継地点となって、次第に外部からの移住者も住むようになり、人口が増えていった。その比立内のさらに奥の
誰が詠んだか 「 大仏が横向きにおはす安の滝 」 と謳われるように、二段目の中程の岩肌が丁度大仏様が横になっているように見える。村人はその霊力に様々な祈願をするために、険しい獣道を足しげく通うようになっていった。ところが江戸・享保年間にこの滝で起きた悲しい出来事を境に、村人の足はいつしか途絶えるようになった。
一七一七年(享保二年)の初夏、打当村十二段峠に、山師・津の国屋籐八によって見崎金山 が開発され、仙北から大勢の人々が山を越えて金山に集まってきた。その賄いとして “かしき ”といわれる女達も、打当や近隣の村から雇われて、見崎は次第に金山景気で賑わうようになっていった。その中に
一年も経つと、見崎小町といわれて持て囃されるようになり、言い寄る男も絶えなかったが、安は身持ちが堅く誰一人として寄せ付けはしなかった。そんな安の心を動かしたのが、実直と評判で、このところ金掘りの腕を上げ、若衆頭になった久太郎という青年だった。安と久太郎がお互いを意識するようになったある日の事、金掘り頭の厳治が一同を山小屋に集めた。
「お前らに集まってもらったのは他でもねえ。おい、弥兵衛…おめえ、安の許婚だって本当か?」
「ああ…安の父親はマタギの頭目(シカリ)だ。けど後を継ぐ息子がいねえ。跡継ぎはマタギでねえとなれねんだ」
「マタギの若衆はお前だけじゃねえだろ」
「次の頭目の資格があるのはオレしかいねえ」
「随分な自身だな、色男」
「色恋じゃねえ。マタギには厳しい掟があるんだ」
「掟か…掟なら我々金掘りの世界にもある。いいか、お前ら…見崎小町とか言われて、男どもに愛想を振りまいてチャラチャラしてる女がいるようだが、この山小屋からは一歩たりとも女の出入りはご法度だ。掟を破った者は追放だ。おい、久太郎…」
「はい」
「お前を若衆頭にしたのは金掘りの腕を買ったからだけじゃねえぞ。掟を破る者が出ねえよう、しっかり見張らせるためだ。いいな!」
「はい! 」
金掘り頭・厳治の引き締めで、女の話も出なくなったある日、山小屋にひとりで詰めていた久太郎の前を、安が偶然通りかかった。日頃は山小屋の掟もあり、人目を気にして口も聞けない二人だったが、久太郎は安への募る想いを抑え切れず、気が付いた時には声を掛けた後だった。
「山菜取りですか?」
「はい、早いうちに目星を付けておくの」
「一人で危険じゃないですか?」
「慣れてるから…今日はみんな休みじゃなかったんですか?」
「新米だから留守番です」
「大変ですね…じゃ…」
「あの…この先に綺麗な滝があるって本当ですか?」
「はい、昔、父さんに何度か連れてってもらいました」
「道…教えてもらえますか?」
「この時期、気を付けないと山は危ないから…」
「どうしてですか?」
「オス熊の気が立っている時期だから…」
「何故、気が立ってるんですか?」
「それは…」
顔を紅らめながら、安は話始めた。
「この時期、六月下旬頃は熊の交尾期にあたり、メス熊がいる周りには必ず数頭のオス熊がいて、一頭のメスをめぐってオス同士が壮絶な奪い合いをするそうです。闘いに敗れたオス熊は気が立っており、そんな熊に出会った人間はひとたまりもありません。普通、熊は二度の冬眠を母熊と過ごしてから自立するんです。マタギの人々は、春に生まれた仔熊の事を “ワカゴ ”と呼び、年が明けて二歳の仔熊を “ウゴエ ”と呼んでいるんですが、六月下旬頃になると二歳の “ウゴエ ”との 子別れの時期に入り、その夏から分かれて暮らすようになるんです。それまでネマガリタケとかを主食にしていた仔熊が、野イチゴを食べ出す時期なので、マタギの人達は、親熊の “イチゴ落し ”とか、 “イチゴっ放し ”と呼んでいるんです。…で、春に生まれたばかりの熊は発情しないけど、子別れ時期の “ウゴエ ”を連れ歩いている熊に出くわすと危ないの」
「そうなんですか…」
「今度、案内しましょうか?」
「本当ですか!」
「…でも、掟を破る事になるから…案内は無理ね」
「…じゃあ、約束だけ…でも、いつかきっと」
「…いつか…きっと」
二人は頷き、しばし見つめ合っていた。我に返った安は顔を紅潮させ、慌てて走り去った。それからというもの、久太郎の留守番の日になると、二人は人目を忍んでこの小屋で会うようになっていった。
「安さんは決まった人でも居るんですか?」
「そんな人、居ません」
「でも安さんの許婚は弥兵衛さんだと聞きました」
「あの人は、お父さんがマタギの男としか結婚を許さないと言ってる事を、自分の事だと勝手に思ってるだけです。弥兵衛の許婚はシズよ」
「シズさん?」
「私達三人とも幼なじみなの」
「なんだ、そうだったんだ! …マタギの男か…」
この時から、久太郎は安の育ったマタギの世界に強く魅かれていった。マタギのしきたりで、旧暦十二月十二日の、
「“つやこの儀式 ”って知ってる?」
「つやこの儀式?」
「十二月十二日にね。マタギ集落の仲間として認めるために、比立内川の支流の鍰内沢(からみないざわ)という所に祀ってあるお不動様の滝から引いた水でやる儀式なの。 “小川の水を堰き止めてぇ、我が身に三度、浴びせ給え、祓い給え、清め給え、南無あぶらうんけんそわかぁ! ”と…大声で唱えるの。刺されるように痛い水を何度も両肩に浴びて、山神神社に礼拝し、“十二山神、十二膳そわか、おんけんぴらやそわかぁ! ”という祝詞を十二回唱えてから、深く崇拝して “つやこの儀式”は終り」
「安さんは男の子に生まれればよかった?」
「どうして?」
「今、唱えてる格好が凄く似合ってた」
「久太郎さんったらひどい! 」
「ごめん、でもあんまりにも似合ってたから…」
「あ、笑ったぁ、もう話してやらないから!」
「ごめん、ごめん! 謝るから…このとおり! 南無あぶらうんけんそわかぁ!」
二人は大笑いしながら全身で幸せを感じていた。山神神社は、現在も比立内川の支流・田ノ沢を上る深い木立の中に立っている。
「…もう帰らないと…今度、マタギの伝説を話してあげるね」
「伝説?」
「そう、マタギのご先祖様にまつわる十二月十二日の伝説…」
そう言って、二人はいつものように名残り惜しげに何度も振り返りながら分かれた。指折り数えて待ち侘びた次の留守番の日、うっすらと紅葉が始まっていた。安が小屋に向かって歩いていると、小屋の手前に久太郎が立っていた。
「久太郎さん、こんな所でどうしたの? 今日は留守番じゃなかったの?」
「待ちきれなくて…」
「そう…嬉しい…でも、人目に付くといけないから早く小屋に入りましょ」
二人は楽しそうに走って小屋に入った。
「お腹空いてない?」
「え?」
「おにぎり…食べる?」
「安さんが握ってくれたの?」
「あたし、大食いだから二人前作っても誰も気にしない…アレ、もしかして久太郎さんは今食べたばかり?」
「オレ、大食いだから…」
笑いながら安はマタギの先祖の伝説を話し始めた。伝説によると…
それは十二月十二日の晩の事…
臨月に近い美しい女が、山で小屋がけの猟をしている七人組のマタギ達の狩り小屋を訪ねて来た。
「この深雪でどうにもならぬゆえ、今宵一夜、ここへ泊めてくれませぬか?」
「我々には掟がある。どんな訳があろうと、ここに女は泊められねえ」
「見てのとおり、このままではどうにもならぬゆえ…」
「掟は掟だ。どこぞに雪の祠でも作って一夜を凌ぎなされ」
七人組の頭目はにべもなく断った。女は仕方なく雪の中を彷徨ううち、別の五人組の小屋を見つけて助けを乞うた。
「この吹雪でどうにもならぬゆえ、今宵一夜、ここへ泊めてくれませぬか?」
この組の頭目は暫く思案していたが、女が身重である事に気付いた。掟で女は泊められない事になっているが、自分達が猟をあきらめて、明朝、山を下りれば、山神様もお怒りを解いてくださるだろうと考え、女を泊める事にした。すると女は、神妙な霊験を漂わした。
「そなた達には、いい猟を授けてあげましょう。この次の沢の小屋に、人に化けた七頭の熊がいます。全部獲る事を許しましょうぞ」
…と告げて霧のように姿を消してた。女のお告げに従って、五人組一行は夜も明けきらぬうちに、次の沢の小屋に向かった。五人組は小屋の中にいる熊に気取られないように近付き、弓を構えて熊が出て来るのを待った。暫くすると、小屋の戸から黒い影が一頭、また一頭と出て来た。五人組の弓がしなり、七頭の熊が次々と倒されていった。やがて日の出とともに、倒れた七頭の姿が雪の上に現れた。ところが、なんとそれは七人組の渡りマタギ達だったのだ。驚愕する五人組のうちの長老格が言い放った。
「気にする事はねえ。こいつら、掟を破った。我々に断りもなく山に入ったからこういう事になったんだ」
「掟を破ったのは頭目であるオレだ。つい仏心を出して女を泊めようとした」
「そうじゃねえ。あの女はきっと山神様の化身だ。掟破りの渡りマタギ達を裁きに出て来たんだ。女を泊めようとしたのは人の道だ。オレ達はこれからも山神様に試され続けるだろう。山に入る時は、いつ何時であろうと山神様のご機嫌を損ねねえよう、心してかからねばならねえ」
そんな事があったせいか、マタギ達は「七」という数字を嫌い、山には七人で入る事を避けるようになった。仕方なく七人で入る事になってしまった時には、“今日は八人だな。八人で山さ入る ”と言って、山神様のご機嫌を損ねないようにしたんだそうだ。
安の伝説が終わると、じっと聞いていた久太郎が呟いた。
「…オレはマタギじゃないから、いくら安さんの事が好きでも、安さんと夫婦にはなれねえな」
「久太郎さん…」
「あ…ごめん、突然こんな話…聞かなかった事にしてくれ」
「久太郎さんなら…素敵な人、いっぱい現われます」
「オレは安さんがいいんだけど…」
安は顔を紅くして立ち上がった。
「そろそろ帰らないと…」
「あの…」
「はい」
「前に安さんが約束してくれた事…」
「約束?」
「この先にある綺麗な滝のこと」
「ああ、覚えてる! 中ノ又谷の二段滝ね」
「今度、行ってみない?」
「今度、行こう!」
「いつ?」
二人は同時に聞いて笑った。安の目は輝いていた。
「今から行こうか!」
「え…今からだと…遅くなるよ」
「・・・・・」
「日が落ちるけど…」
「あたしは…行くよ」
「・・・・・」
「あたしは行く」
「行こうか!」
「うん!」
二人は滝に向かった。慣れない獣道をおぼつかなく歩いている久太郎に、前を歩いている安が振向いて、にっこりと手を差し伸べると、恥ずかしそうに手を出した。手を繋いで歩き始めると、二人の会話はぴたりと止まり、お互いに頬を紅潮させて、ただ黙々と歩き続けた。
ところが、そんな二人をじーっと見ていた者が居た。渓流釣りから下りて来た弥兵衛だ。弥兵衛は二人が沢を上って来たのに気付き、咄嗟に山間に上って身を潜めた。弥兵衛が斜面伝い付けているとも知らず、二人は大滝に辿り着いた。落差90メートルの二段滝…その滝を初めて見る久太郎は、その荘厳さに目を奪われた。安は、久太郎と手を繋いでいる事を意識し、下を向いたまま固くなっていた。そんな安に気づいた久太郎は慌ててその手を離した。
「あ…ごめん…ありがとう!」
「うん」
「こんな大きな滝があったなんて…」
「大きいでしょ。小さい頃、連れて来てもらって初めて見た時は怖かった」
「安さんみたいな滝だ」
「やだぁ、あたし、そんなに怖い?」
「えっ? いや、そうじゃなくて…澄んでる…あの、澄んでる流れに吸い込まれそうで…」
次第に陽が落ちていく。二人は夕陽を浴びながら無言で滝を見つめていた。
「暗くなる…早く帰らないと安さんの親父さんが心配する」
「…まだよ」
「え?」
「もう少し待って…今日は特別の日なの」
「特別の日?」
久太郎は安の言うままに、日が暮れていく大滝の前で、その何かを待った。闇に包まれ、滝の音だけの世界になった時、久太郎が声を抑えて驚いた。
「滝壺が光った!」
「久太郎さん、ほら…上を見て!」
「あーッ…月だ…大きな月が…」
「満月よ…今日は中秋の満月の日…いつか、この日に…この特別な日に…好きな人と二人だけでここに来たいと思っていたの」
久太郎は満月に吸われて滝を上っていくような感覚に包まれた。
「久太郎さん…」
「安さん!」
二人は貪るように抱き合った。二つの影は月光に忍ぶ雲に隠れて崩れて行った。久太郎は焦る心で安のきものを脱がし、安は震える両手で久太郎の量襟を力いっぱい掴んだ。時折、雲間の月に映える安の体が大きくのけぞった。
その様子を弥兵衛は息を殺して目撃してしまった。獣のように殺意を漲らせた眼光に、涙が流れた。満月から雲が去った。荒い息で仰向けになる全裸の二人。全身が小刻みに震え、充実感に満たされた安の顔が月の光に浮かんでいる。弥兵衛は奥歯を砕くほど歪んだ顔を背けた。煌々とした月光が激しい滝を受ける大仏岩の姿を照らした。安に羞恥が走り、さっときもので身を隠した。
「大仏様が! …帰らないと」
「うん」
二人は気だるく衣服を身に付けた。滝をあとにして歩き出そうとした安の腰が落ちた。
「安さん!」
久太郎に支えられた安は、恥ずかしそうに囁いた。
「初めてだから…」
二人は別れを惜しむ心で見つめ合い、激しく抱き合った。暗闇に潜んでいた弥兵衛は腰の “ナガサ ”に手を掛けていた。沢を降りる二人の影が、繁みの中の弥兵衛の前を通り過ぎた時、弥兵衛は静かにナガサを抜いた。しかし、弥兵衛は遠ざかる二人を睨み据えたまま、動くことができなかった。弥兵衛は山間の斜面から滝に下りた。滝の前でゆっくりとナガサを突き立てて声を搾り出した。
「大仏様! 許すのか! あの二人を許すのか! 許すのかーッ!」
そんな事があってから数日後、金山で落盤事故が起こり、弥兵衛の幼なじみの義助が命を落とした。
「義助、義助ーッ!」
弥兵衛の怒りの目が一点を睨みつけた。一同が弥兵衛の目の先を追うと、そこには久太郎がいる。弥兵衛は頭の厳治に毒吐いた。
「頭…頭の目は節穴ですかい!」
「何だと」
「山の掟を犯して、いい思いをしているやつがいるから、こんな事が起こるんだよ!」
「どういう意味だ、弥兵衛」
「嫌がる女を強引に引き連れて、中ノ又沢を上って行くやつを見かけたんですがね」
「誰だ、そいつは!」
「さあね、誰ですかね…オレの口からは言いたくねえ」
「弥兵衛…このオレをなめんじゃねえ。そいつの名前を言いやがれ!」
「生憎、日暮れ時で、女の顔は見えなかったな」
「…てめえ、いい加減にしろよ」
「頭…男が誰か知りてえなら、お偉くなって近頃いい気になってる若衆頭にでも聞いたらどうなんだい?」
「…そうかい…わかった」
「今回の件…きっちりケジメを付けてもらえねえようだったら、オレらマタギ衆は山を下ろさしてもらう。この時期、熊は冬眠を控えて食い物をあさるが、その色男にでも守ってもらってくれ」
「弥兵衛…てめえ、惚れた女を取られたな」
「何を言う! それは関係ねえ話だ!」
数日が経ったある日、久太郎と安はいつものように小屋で会っていた。
「もうここで会う事はできねえ」
「…どこで…会えるの?」
「・・・・・」
「どこにする?」
「…ここでは会えねえ」
「どこで会うの?」
「・・・・・」
安の目から涙が溢れ出した。
「久太郎さん!」
「もうどこでも会えねえ!」
「いやーッ!」
しがみつく安を久太郎はつらく離した。
「人が死んだんだ…オレが掟を犯したために山神様の祟りが…もう、おれはここには居られねえ」
「どこへ行くの? あたしも行くよ」
その時、突然小屋の戸が開けられ、金堀達がドドーッと入ってきた。
「よう、色男、逃がさねえぞ!」
久太郎は安を庇って立ちすくんだ。
「おい、久太郎…何してんだ? まだ懲りねえのかよ。山小屋への女の出入りはご法度だぞ」
「若衆頭のくせに、てめえから掟を破るから人が死ぬんだ! 何考えてんだ!」
頭が現れた。
「久太郎」
「頭…」
「オレが何でおめえを若衆頭にしたか分かってるか」
「・・・・・」
「こうなる事を恐れたからだ。掟を破ったからにはケジメを付けさせてもらうからな」
「はい」
「卯吉…安を家まで送って行け」
「はい!」
「待ってください! 久太郎さんを誘ったのはあたしです! 掟を破ったのはあたしのほうなんです!」
「卯吉、早くしろ!」
「はい!」
「久太郎さんには何の責任もありません!」
「安! …おめえが庇えば庇う程、久太郎の立場は悪くなるんだ」
「卯吉、早く連れて行け」
「はい…さ、安さん…」
卯吉は安を連れて小屋を出た。久太郎は金堀達に散々にリンチを受け、掟破りの洞穴に暫くの間、監禁される事になった。以来、常に見張りがいて、安との連絡もままならなくなってしまった。
監禁から開放されたある日の明け方、久太郎は愛する安に迷惑が及ぶのを案じ、同じ里の仲間の卯吉に、安への手紙を託して、郷里の仙北に帰る決心をしていた。
「卯吉…今更、頼めた義理じゃねえが、オレは暫くここを離れる事にする。安さんにこの手紙を渡してもらえねえだろうか。必ず迎えに帰って来ると伝えてもらいてえんだ」
「そうか、帰るのか…こんな状態じゃ仕方がねえが…」
「おめえには同郷の好でこれまでにも随分と世話になったが、これが最後の頼みと思って俺の勝手を聞き入れてくれ」
「分かってるよ。オレはガキの頃から、何度おめえに助けてもらったかしれねえ。このくれえ、お安いご用だよ…頭に知れねえように渡せばいいんだな」
「恩にきるよ…すまねえ。じゃ卯吉、達者でな」
「おめえもな、久太郎」
久太郎を見送って、卯吉が安に渡す手紙を懐に入れようとした時、その一部始終を見ていた弥兵衛が現れた。
「卯吉…それを懐に入れたら、おめえも掟破りになるぞ」
「弥兵衛さん!」
「久太郎に預かったものをオレに渡せ」
「これは…」
「黙っててほしけりゃオレに渡せ」
「・・・・・」
「渡せと言ってるんだ!」
「…断る」
「そうか…なら、永久に黙らしてやろうか」
…というなり弥兵衛は腰のナガサを抜いて凄んだ。
「よこせ、卯吉!」
追い詰められた卯吉は、仕方なく久太郎から預かった手紙を弥兵衛に渡してしまった。
「この事は誰にも言うんじゃねえぞ。言ったが最期、おめえも久太郎のようにここには居られなくなるからな」
「・・・・・」
「じゃあな…」
帰ろうとした弥兵衛を卯吉はいきなり後ろから突き飛ばした。弥兵衛の手からナガサと手紙がはじけ、卯吉は素早くそれを拾った。
「何しやがんでぇ、卯吉!」
「この手紙は渡さねえ!」
弥兵衛はナガサを構えた卯吉にゆっくり近づいて行った。
「卯吉…よこせ…」
「・・・・・」
「よしなよ、素人(とうしろ)にそのナガサは扱えねえ」
弥兵衛はじりっじりっと卯吉に歩を進めた。
「よこせ、卯吉!」
「来るな!」
卯吉は弥兵衛にナガサを振り下した。素早くかわした弥兵衛は、襲い掛かる卯吉の手首を捉えた。もみ合ううちに “うッ! ”となった卯吉の体が地面に叩きつけられた。枯葉の隙間を縫うように鮮血が広がった。
「卯吉! …くそっ、余計な事をするからだ」
卯吉を刺し殺してしまった弥兵衛は、獲物を担ぐように山に消えていった。その一部始終を見ていた女がいた。親同士が決めた弥兵衛の許婚のシズという娘だ。
見崎金山に雪がちらつき始めたかと思ったのも束の間、あっという間に白一色に埋もれ、雪解けまで閉鎖される事になった。
見崎金山は開山から三年目の年が明けた。安は久太郎が故郷に帰った事も知らず、来る日も来る日も、久太郎の事を思い続けて、会える日を一途に夢見ていた。春が過ぎ、夏が過ぎ、やがてあの思い出の秋が来ても、久太郎は再び安の目の前に現われる事はなかった。そんな苦しみに喘いでいる安に、優しく声を掛ける男がいた。
「元気ねえようだけど大丈夫か、安?」
「弥兵衛…」
「久太郎の事を心配しているのか。もういい加減あきらめたらどうだ?」
「・・・・・」
「おめえがそうなら、可哀相だが仕方がねえ…おめえのために、話すしかねえようだ」
「何を?」
「実は久太郎はな…脱走して逃げた」
「いつ!」
「もう随分前だ。去年の暮れ頃だ。卯吉も久太郎を追って姿を消した」
「何故教えてくれなかったの!」
「教えてどうなる…おめえの事を考えて黙っていたんだ。あいつはきっともう田舎で世帯を持ってるに違えねえ」
「弥兵衛…嘘をついてるのね」
「嘘をついたってどうなるってもんでもねえだろ」
「いいえ、嘘よ。脱走したんなら、あの人は田舎になんて帰らない。身内に迷惑が掛かるような事をするような人じゃないわ!」
「あんなやつよりオレのほうがお前を幸せにできる! …なあ、安…オレと一緒になれ」
「嫌よ! …あたしはいつまでもあの人を待ってる」
「そうかい。そこまで言うなら言わしてもらおう。これだけは言うまいと思ってたがな…久太郎はご法度を犯した上、脱走の咎で島流しにされたんだ。だから一生戻ってなんか来れねえんだよ!」
「何だって! 嘘ッ! 嘘ッ、嘘ーッ!」
「あきらめたほうがいい! 安!」
「嫌よッ、絶対に嫌ーッ!」
「そうよ、あきらめたほうがいいわ」
シズが現れた。
「シズ!」
「安…ほしいものは何でも手に入ると思ったら大間違いよ」
「…シズちゃん」
「弥兵衛の言ってる事は本当よ」
「・・・!」
「それに…まだ、あんたの知らない事もあるのよ」
「…知らない事?」
「卯吉はもうこの世にはいないよ」
「・・・!」
「え? どういう事なの?」
「殺されたのよ、ねえ、弥兵衛」
「・・・!」
「シズちゃん、どういうことなの!」
「あたし、見たのよ。卯吉が殺されるところ…」
「・・・!」
「犯人…誰だと思う?」
「…誰なの?」
「・・・・・」
「誰なの!」
「…卯吉を殺したのは…」
「シズ、いい加減にしろ」
「卯吉を殺したのは久太郎よ!」
シズの目が弥兵衛に流れた。弥兵衛の目は獲物を捉えた目になっていた。
「驚かないの、安?」
「…嘘よ」
「あたしがこの目で確かに見たの…死体がどこにあるかも知ってるわよ」
「そんなの嘘…絶対に嘘ッ!」
安は絶望の渕に立たされた。混乱してその場から駆け出した。
「安ッ!」
安を追おうとする弥兵衛の背中にシズはしがみついた。
「弥兵衛、追わないで! …もう安を追わないで…あたしは…あたしはあんたの許婚なのよ! どんな事があったって、あんたを守るからね!」
「…シズ…おれは…おれは!」
弥兵衛はシズを振りほどいて安を追った。
「弥兵衛ーッ、行かないでーッ!」
弥兵衛に去られたシズは泣き崩れた。
「うちの安がたたならねえ様子で走っていったが、何があった? おめえら、何か隠してるな…弥兵衛、オレに話す事はねえか!」
シズの前に弥兵衛が叩きつけられた。安の父親・磐三に首を押さえられて戻って来たのだ。
「弥兵衛、安に何をした!」
磐三はナガサを振り上げて凄まじい形相で問い質した。
「弥兵衛!」
シズはとっさに弥兵衛の体を庇って盾になった。
「許して下さい! 久太郎から預かった手紙…(懐から手紙を出して)…安に渡さなかったから…」
「手紙?」
弥兵衛は驚いた。
「なんでおめえがそれを持ってるんだ!」
「そんなに大事なものなら肌身離さず持ってなよ」
「くそっ!」
「弥兵衛をゆるしてください。手紙には…」
「シズ! …オレが言う…その手紙には “安、三年待ってくれ。三年後の中秋の名月の日までに、安と夫婦になれるよう、必ず一人前のマタギになって戻って来る ”…と書いてあった。オレは安と夫婦になりてえばっかりに…」
「なぜそういう大事な事を黙っていたんだ…」
そう言いながら盤三はハッとなった。
「安は死ぬ気だ!」
「・・・!」
「安に万が一の事があったら、おめえら…ただじゃおかねえからな!」
胸騒ぎを覚えた盤三は走り出した。
その頃、安は金山の詰め所に駆け込み、久太郎との思い出の日々に心を馳せていた。
「…そこに…久太郎はいつもそこに座って…あたしはいつもここに座って…いろいろな事を話したね。熊の話や “つやこの儀式”の事…久太郎はあたしの事を男みたいだって…それに、マタギのご先祖様の伝説を話してあげた時、あたしの作ったおにぎりをおいしそうに食べてくれたね…初めて久太郎があたしに話し掛けて来た時、凄くドキドキした。急に話し掛けるんだもの…その時の約束…久太郎はちゃんと覚えててくれたね。中ノ又谷の大滝に行こうって…大滝であたし達は、初めて…そうだ…あの滝に行こう…久太郎…あたしは…行くよ」
安は、小屋から続く獣道を奥へ奥へと入って行った。そして、久太郎と初めて結ばれた滝の前に立った安は、暫く滝を見つめながら、久太郎との思い出を辿っていた。キッと唇を噛んだ安は、滝の横の道なき道の険しい崖を一心に登り始めた。そしてついに二段滝の頂に立った安は、遠く久太郎の故郷の方向を眺めた。
「久太郎…あたしを忘れてないよね」
安は大きく息を吸った。
「…久太郎ーッ! 久太郎ーッ! 久太郎ーーーッ!」
三言、久太郎の名を叫んで、落差九〇メートルの滝壺めがけてドーンと飛び込んで行った。足遅れて駆け付けた磐三は、悲しい水しぶきを上げで滝壺に消える娘の姿を見るや、続けざまに飛び込んだ。
「安ーッ!」
ドーンと続けざまに二つ目の水しぶきが上がり…水面が治まり…長い静寂の後、勢い水面に磐三が飛び出した。
「安ッ! 安ッ!」
磐三が呼べども、安の身は滝壺に沈んだきり、いつになっても水面には浮かんで来ない。息を整えるのもそこそこに、磐三は再び潜った。それを何度繰り返しても、安を発見する事はできなかった。
「どういう事だ…安ーッ、安ーッ! …安が滝に消えた…」
磐三は滝の大仏に叫んだ。
「大仏様、安をどこに連れて行きなさった…頼むから安を帰してくれ! 安を帰してくれーッ!」
滝壺の側を動こうとしない磐三の辺りがすっかり暗くなり、滝壺に月灯かりが差し込むので、ふと上を見上げると満月が…
「…安…」
再び滝壺に目を落とすと…水面に髪を梳かしている安の姿が浮かんだ。
「安ッ!」
「父さん…ごめんね」
「安ッ! 髪なんか梳かしてないで早く上がって来い!」
「父さん、安は久太郎が好きでしかたがないの」
「ああ、久太郎と一緒になれ。寒いから早く上がって来い」
「許してくれるの、父さん」
「ああ、許す、許すよ」
「嬉しい…ありがとう、父さん。早く久太郎に会いたい。髪を綺麗にしておかないと…」
「早く帰ろう、安」
「ごめんね、父さん」
そのまま安の姿は消えた。
「安ッ! 安ッ! 安ーッ!」
三年の歳月が流れた。早朝の霞に包まれた安の滝の前には、安への手紙の約束どおり、久太郎の姿があった。
「安…弥兵衛から聞いて来た。でも弥兵衛を恨む事はできねえ。…安…オレが掟を破ったばっかりにおまえをこういう事に…」
久太郎は弥兵衛に借りたナガサを抜き、喉元にあてた。…と、その時 “久太郎! ”と、安の声がした。
「安さん?」
「迎えに来てくれたのね!」
大仏に抱かれるように滝の中から安が現れた。
「安さんッ!」
「…でも私は行けなくなった」
「オレが安さんのところに行く。待っててくれ、安さん」
「そんな事しないで。生きてて欲しいの。生きて久太郎の心の中に私を置いて。私はそれが一番幸せなの」
「安さんが居ない世の中なんて一日だって生きてなんかいたくねえ。安さんのところに行きたいんだよ、オレは!」
「そしたら二人とも地獄へ落ちて、もう二度と会えなくなってしまうのよ。生きて私が地獄に落ちないように見守ってて…お願い、久太郎…」
「安さん、いやだよ!」
「お願い、久太郎!」
「オレは…オレは…」
「…お願い」
「・・・・・」
「お願い、久太郎…」
「…守るよ、ずっとずーっと守ってやる。だから早くオレを迎えに来てくれよな、安!」
「また来年、ここでね」
「安ッ、待ってくれ! 来年まで会えないのか!」
「また、来年…ここで…」
安は大仏に消えて行った。
「安ッ! 安ーッ! …来年までなんて待てねえよ! 安ーッ!」
滝の前で久太郎は泣き続けた。ゴーッと響く音が耳に入ってきた。次第に霞が晴れて鮮やかな紅葉が現れた。漆黒の岩肌を洗う白銀のしぶきが落ちていく。
「…安…守るよ…守るよ、安…来年、また来年会おうな…安ーッ!」
いつからか近くで磐三が佇んでいた。
「…久太郎」
「安の親父さん! …申し訳ない事をしてしまいました!」
「泣け…涙が枯れるまで泣け…涙が枯れたら、もう絶対に泣くな」
「…親父さん」
「…安をこんな目に遭わせやがって…今年の冬はお前をマタギとして扱いてやらなければ、わしの気が治まらねえ…付いて来い!」
「親父さん!」
「逃げるなよ」
「はい! お願いします!」
下に下りるため、一旦滝壺の岩場を離れ、獣道を上り始めた磐三の足が突然止まった。
「久太郎、見ろ! …滝に…」
磐三が指差す先に振り返った久太郎の目が輝いた。
「虹だ! 親父さん、滝に虹が!」
「…安…(合掌して)いいんだな、これで…」
二人は虹の滝に手を合わせを拝んだ。
その後、磐三は久太郎を息子のようにして、腕の立つマタギに育てあげたのは言うまでもない。久太郎は事ある毎に滝を訪れ、安に語り掛けるようになった。村人はいつものように滝に向かう久太郎を見て…
「久太郎がまた行ぐべ」
「どこさ?」
「ほら、例の…」
「ああ、安の…」
「んだ…安の…滝さな」
いつからか、この悲劇を知らない者までが、中ノ又谷の二段滝を “安の滝 ”と呼ぶようになっていた。語り継がれる間に、中秋の名月の夜には、横になっている大仏様の懐の辺りに安が腰掛けて、久太郎を迎えるために黒髪を梳いていると言い伝えられるようになった。久太郎は生涯を独身で通し、盤三の死水をとったという。悲恋物語を知って、観光客が訪れるようになると、安の滝に登ると恋が叶うとまでいわれるようになった。
〈 おわり 〉
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