第10話
「聞いてくれ、良いニュースと悪いニュースがある。どちらを先に知りたい?」
「!?」
「!?」
ノワイユ邸のリネン室で財宝の影を追って奮闘していた二人の助手は同時に振り返った。ドアの前に立っているのは探偵、
「じゃ、もちろん」
「いいニュースから!」
「ところが答えは一つなんだ」
探偵は続けた。
「古文書の冒頭の部分、あれは《ギルガメッシュ叙事詩》の引用だった……」
《ギルガメッシュ叙事詩》とは――
紀元前8世紀頃書かれたメソポタミア最古の神話である。原典は楔形文字で記されている。内容は世界最古の文明を築いたシュメール人の王、ギルガメッシュの物語。ノアの箱舟を連想させる大洪水の記述もあり歴史的な真実も読み取れる。また壮大な叙事詩の後半部分、ギルガメッシュが永遠の命を求めて世界を彷徨うくだりはロマンの香り高く、後世の読書人を魅了してやまない。
探偵曰く
「確認したが、あの部分は、ギルガメッシュ王が永遠の命を得たという人物ウトナピシュティムに出会って、永遠の命を手に入れる方法を教えてもらう場面からの引用なんだ」
《 秘密をおまえに語ろう
その根が
その棘は野薔薇のようにおまえの手を指す
もし、この草を手に入れることができるなら
おまえは命を見出すだろう
必要なのは重い石
石が
「まだ続きがあって……それはこれ」
《 ギルガメッシュは重い石を結わえ付けた
石が深淵へ引き込む
そこにかの草あり
草は手を刺した
重い石を足から外すと
海はギルガメッシュを岸辺へ投げ出した 》
「うひゃあ! その後、彼、ギルガメッシュはどうなるの? 永遠の命を手に入れることができたの?」
「
《 これ以来、人間は死から逃れられなくなった
だが、蛇は古い皮を脱ぎ捨てて
永遠の時を生きている 》
「そういうわけで――古文書の冒頭部分は海の隠喩、海を示唆している」
「なるほど」
「でも、それが? どうしていいニュースであり悪いニュースでもあるのさ?」
言いながら
「ああ、そうか! 海ってことは……つまり財宝は海に隠してあるってこと?」
ルカ・メロンが顔を
「そうなら大ごとだ! きっとノワイユ氏は何処の海だと聞いて来るだろうな?」
両手を振って畳みかけるように、
「フランスの海岸? それともロザンタール家の御先祖の出身地、イタリア? イタリアは半島だから、それこそとてつもない範囲だ! こりゃお手上げだよ!」
「そういうこと」
探偵は静かに微笑んだ。。
「どうやら今回の古文書の謎解き、財宝発掘の終着点は海底のようだ。となれば――残念ながら夢は夢として終わりそうだな」
「じゃあ」
志儀はゆっくりと室内を眺めた。
「このリネン室の探索も、もう必要ないってわけか」
「そうだね。財宝を入れたのがリネン箱だとしても――それは当たっていると僕は思うが。どうもその箱は海底深く沈められた可能性が高い」
「なんだか、ガッカリだな……」
項垂れた少年の肩をポンと叩いたのはメロンだ。
少々年上の絵画発掘人は片目を瞑って明るく言い放った。
「でも、僕は楽しかったよ! 子供の頃の、クリスマスが近づく日々のワクワク感を味わえた!」
「あ、そういえば……僕もだ! 凄く、楽しかった!」
「Noelはこうでなくっちゃあ! 皆が幸せに浸るべき季節だ!」
「君たちにそう言ってもらえて良かった」
興梠は安堵の息を吐いた。古文書のこの文がギルガメッシュの引用だということを発見して、一つ確実に謎を解いたものの助手たちががっかりする顔を見たくないと思っていたから。
聖なる月。12月。過ぎ去りし日々の甘やかな残像……
だが、思い出だけではない。探偵は思った。
今の自分は現在も――否、現在こそ、幸せではないか。この時期、欧州は憧れの都パリにいて、気持ちのいい仲間とロマン溢れる冒険をしている!
さっき助手がやったように探偵も改めてリネン室を見回した。ひっかきまわしたリネン箱。我らが夢のあと。
「いいさ、ここの片付けは明日にしよう。今日はもう切り上げて……奮闘してくれた君たちの労をねぎらって夕食を食べに行こうじゃないか!」
こうして、リネン室から撤収した一同。
今日は興梠の希望でモンパルナスへ。
老舗のレストラン、ル・ド―ムは探偵にとってパリを訪れたらぜひ行ってみたい店だった。
( また一つ願いがかなった……!)
1898創業のこのレストランは〝Années Folles〟かの狂乱の時代の1920年代、若き芸術家が集った隠れ家的存在だった。モディリアーニ、カンディンスキー、ピカソ、フジタ・ツグハル……
ステンドグラスが煌めく外壁、中の内装はアールデコで、椅子、ランプ、花瓶、飾られた絵……何もかも探偵が夢見た通りの雰囲気だった。
「カンパ~イ!」
早速、食前酒キールの杯を合わせる。
「それにしても《ギルガメッシュ叙事詩》とはね! それに気づく貴方もなかなかのものだ!」
改めてメロンは東洋から来た探偵に尊敬のまなざしを向けた。
「この引用文から、その他に何か読み取れませんか?」
「うーん、散々考えたんだけどね」
人差し指をこめかみに充てて興梠は唸った。
「注目すべきは《その根が棘藪のような草》と《棘は野薔薇のように手を指す》って箇所かな」
いずれも海の底の情景を表現している。この特徴から海域の特定に至れないだろうか?
「でもさ、海草が生えてる海なんていっぱいあるよ」
「だが、棘の生えている海草だぞ、しかも、手を傷つけるほどの棘だ。どんな海草だろう?」
「あ、草じゃないのかも。その詩は引用なんだろ? ということは、あくまでも隠喩、象徴として使ってるとも考えられる」
「海の底に生えているモノ? 草のように根を張って? あるいは海底にくっついて?」
洋の東西を超えて推理小説好きな助手二人の話は尽きない。
美味しい料理と盛り上がる会話。
オーダーしたブイヤベースで体の芯まで暖かくなる。そこに極上のアルザスの白。ついつい杯を重ねてしまった。
メロンはかなり酒が回ったと見えて、トイレに向かった足取りが怪しかった。
銀のトレイを掲げるギャルソンにぶつかり、お客にも……年配の紳士……続いてキャスケットを被った少年に、ほら、またぶつかった!
そろそろ潮時だ。遠目にそれを見た賢明な探偵は一気にグラスを干した。
至福の時間は天馬のごとく駆け去る。
「フシギ君、メロン君が戻ったらホテルへ帰ろう」
「海の中かぁ!」
志儀もシャーリィ・テンプルを喉に流し込んで、口を拭う。
「あー、こうなったらさ、手が届かなくてもいい、せめて、クリスマスの妖精が今夜やって来て枕元に財宝の
少年は本音を吐露した。
「やはり、謎は全部知りたいや! 宝物は一体〝何〟で〝どこに隠されている〟のか? 現物は手に取れなくてもいいからさ」
「祈れよ、志儀! 君はまだ子供だから、セント・ニコラスが願いをかなえてくれるかも!」
戻って来たメロンがクスクス笑いながらからかった。
※セント・ニコラス=サンタクロース
「言ったな! メロン! お生憎様! 僕はれっきとした大人だぞ! おまけに叔父さんなんだからな! どうだい、羨ましいだろ!」
「えええ? 本当?」
「写真見る? 物凄く可愛いんだ、僕の姪! 但し求婚は許さないからね」
「見せて、見せて」
にぎやかな助手たちを眺めつつ興梠は自分自身に向かって呟いた。
「そうだな。まだ、時間はある。俺は頑張って……せめてどの辺の海かくらいは解き明かしたいものだ」
日本から来た探偵の意地である。
ところで――
その夜、フシギなことが起こった。
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