最初の記念日
咲部眞歩
最初の記念日
部屋が明るくなるのが少しずつ早くなってきて、ベッドから抜け出すのが気持ち楽になる。朝は気持ちいい方がいい。靴を履いて、くわえ煙草でインスタントのコーヒをおとす。繰り返しの動作だが、不思議と嫌な気持ちにはならない。朝に余裕を持つことは大切なことだ。
「行くの?」
不意に後ろから声をかけられて振り返る。いつもならまだ眠っている時間だ。朝に顔を合わせるのは珍しい。
「ああ」
彼女との会話は野球のノックのようなものだ。キャッチボールにはならない。どちらかが投げて、それを捕球するだけ。返ってくることはない。こうして一緒に暮らし始めて随分経つが、これは変わらない。
「靴履けよ。あと、風邪ひくぞ」
「靴は嫌いなの。裸足で床に足を付けている感覚が好き。土だったらなおいいと思うわ」
どこから引っ張り出してきたのか彼女の背丈にはあまりにも大きすぎるクロークを引きずりながらこちらに寄ってくる。
「わたしにもちょうだい」
飲めるのか? と訊きかえそうかと思ったが返答はなんとなくわかっているので黙って彼女のカップにもコーヒをおとす。春とコーヒの香りが部屋中に充満し、悪くない気分になる。
「今日遅いの?」
差し出したコーヒを受け取りながら彼女が訊く。しばらくぶりに目があったような気がする。ここに来た時よりもだいぶましな目になった。最初はどうなるかと思ったし、いまも何かをうまくやっているつもりはないが、悪影響を与えているわけではないようだ。
「さぁな」
「早く帰ってきて」
ボールが返ってきた。若干一方的なような気もする。捕球したそれをこっちの準備が出来ていないのに投げ返してきた感じだ。
だけど返ってきたことに変わりはない。返ってきたなら、それは取らなくちゃならない。
「……なぜ?」
動揺はしているが取り乱すほどではない。こういうときに限って煙草の煙が目に染みる。つい目を細めて彼女を見返した。
だが彼女に動じる気配はない。ただ黙っておれを見ている。
「ここに来て、今日で一年。わたしが時間を得てから、最初の記念日。生きる時間をくれたあなたに、感謝の気持ちを伝えたい」
時間を得る、という表現が彼女の今までの人生を物語っている。彼女には一年前の昨日まで時間がなかった。陽が昇り、季節が変わり、ただそれだけのうろんな日々から彼女は一年前の今日、抜け出した。幸か不幸かおれの手によって。
手が震えた。相変わらず煙草の煙が目に染みる。彼女に触るのはここに連れてきたとき以来。伸ばした手をそっと彼女の頭の上に置いてみた。体温。冷たかった彼女はいま、温かい。
「……なるべく早く帰る」
初めて彼女が静かに笑った。
最初の記念日 咲部眞歩 @sakibemaayu
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