小咄小噺小話や。野放しにして良いものか。

ひよこ

enough


泥沼は深い。片足どころか両足とも既に見えなくなってしまった。それでもなお息をすることを忘れられないのは生きたい欲望故か。彼の人への執着は終着点に辿り着いたと思ったのに。


「まだ好きなんでしょ。僕のこと」


悪魔の頬笑み。それはただ無邪気で純真なだけ。だからこそ我が心に彼という存在があるのだ。いっそ殺してしまおうか。


「好きだと言ったら」


嘲笑。甘ったるいだけの菓子には誰も飛び付くことはない。甘く、どこか毒めいたところにこそ、菓子の価値はあると思う。本来は可笑しいことなのだ。好きだということは。


「心の臓を貫いてあげる」


脅しでも理想でもない、真っ向からの真実。殺し合う愛情と憎悪。ぶつかり合う理性と本能。愛情と理性は最早敵同士だ。エネミーを排除すべく剣を構えた憎悪と理性は、伸ばした手を払い落とした。


「俺の心臓は何色だ」

「桃色だよ。ピンクだよ。笑っちゃうよね。恋でもしてるの?馬鹿馬鹿しい。片腹痛いね。」

「お前の心臓は黒をしているぞ。誰かを憎んでいるのか。蛟が《とぐろ》蜷局を巻いてこちらを見つめている」

「ふーん。だから何?」


愛してる。とさえ言えればよいのだ。哀れな子羊よ。世の罪を除きたもう主よ。心の安寧秩序はどこにある?憐れな子山羊よ。世に罰を与えられし主よ。体の安寧秩序はどこにいる?


「迷いなんて捨てて。《ルビを入力…》こっちの世界は甘いよ。酸いなんてどこにもないよ?」


キャッキャと笑うその姿はいつまでも変わらない。変化など無意味。要るのは現実と意味。そんなこと、さして問題にはならない。あくまでも矛盾など孕んでいないのだ。孕むのは嘘と逆心。そして少しばかりの愛情。部外者は退場せねばならない。幕開けには彼さえいれば良いのだから。役者にも裏方にも観客にもなれない俺は劇場。演じる声、褒め称える拍手の音を吸い込んで溜め込んで怨みへと変えてゆく。


「甘いものは生クリームだけで十分だ」


そして振り翳した怨念のナイフを心臓へと突き刺した。死んだのは彼の幻像。死んだのは俺の在像。残る舞台は、役者と観客がいないまま、静かに幕を開けた。

十分すぎるぐらいの優しさで。

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